2(やることない)
はあ、と抜けた返事をする以外に何ができたろう。
話はそれだけだった。
わたしの一日を返せ。
と云っても、その実たいした一日でない。
メモをスカートのポケットに突っ込み、教室に戻って帰り支度。
部活も見物する以外に無い。
制服姿で校庭に立つのは些か居心地悪かった。
顧問を見つけると手首の心配をされ、早退しなかったことでお小言を貰い、病院に行けとせっつかれた。
トラックを走る他の部員を羨ましく思ったことに驚いた。
さっさと学校から遠ざかりたかった。
そんな次第で真っ直ぐ帰宅せず、その気もなかったポケットの中の病院に向かっていた。
バスに乗って小銭入れの硬貨を数え、三つ目の停留所で誰かが降車ボタンを押した。
大学病院の待合室は長イスがずらりと並び、色んな人がうろうろして、とにかく広かった。
労力を使うのもバカらしく、首を巡らし受付を探し、メモの病室と名前を告げると、なんだか面倒な道順を教えられた。
離れの階段を昇って四階、人気のない廊下に出た。てくてく歩き、メモの部屋番号みつけ、プレートに書かれた名前を確認した。
個室だった。
ノックすると返事の代わりに引き戸が開いて、赤いメガネの女の人が顔を出した。「はいな」
平均身長未満のわたしより視線が低かった。
「川崎さんのお見舞いに来たのですが、」
するとメガネの人は、ふっと微笑んだ。
栗色の髪をバレッタでアップにまとめ、ぴちっと白衣を着ていて、お医者さんだと思った。
「どうぞごゆっくり」入れ違いに軽く背中を押されて中に入った。
川崎は斜めに起こしたベッドの上にいた。
大きめのピンクのパジャマがなんだがかわいかった。
それから自分が手ぶらだったことに思い当たって、ひどく間抜けな気分になった。
川崎は「どうしたの?」至極当たり前のことを訊ねてきた。
担任に云われて、とはさすがのわたしも口にできない。
「その手」
云われて、右手の包帯を思い出した。
「座って」
ベッド脇に置かれた丸イスに腰を降ろした。通学鞄を膝の上に置き、「転んだ」
「なんで?」
「さぁ」
本当に何でだろう。
朝練で転び、手を突き捻って痛め、保健室経由でホームルームに遅れた。
擦りむいた肘と膝は洗って消毒した。
「部活は?」
「いてもやることない」
「大会は?」
「明日」
「出るの?」
市総体の前日にこんな有様でどうしろと。「応援」
「行くんだ」
黙っていると、「行きたくないんだ」川崎は笑った。「なんで前日にケガするかなぁ」
そのセリフに、どうしようもなくおかしくなって笑った。「なんでだろうね」
ひとしきり笑うと、今度は互いに黙って窓の外に目を向けた。
気まずい。
って云うかなんでわたしはここにいるんだろうな。
窓ガラスの中に映る川崎と目が合って、考えもなく口を開いていた。「さっきの人は?」
川崎はわたしへ向き直り、云った。「絵理子先生。わたしの専属」
「ふうん」
「心臓の手術してくれたんだ」
それがどんなものかは想像出来なかったけれども、大変なのは分かった。「大丈夫なの?」
「先生は一流だよ」つんと、子供みたいに唇を尖らせた。
「ごめん、あんたがってこと」
「あ、そうか」川崎は一転して笑った。「だから一流だって」
「それにしたって、」
「すごいんだよ。画期的なんだ」
「へぇ」
それ以外になんと応えれば?
是非それを詳しく訊かせてくれまいか、などと云うものでもなかろうに。
自慢されても困るモノってまさにコレだ。
「見る?」
世界間抜け百科辞典があったのなら、参考写真に使われていただろう。
川崎は身体を起こすとパジャマのボタンを上から外し始めた。
止めることは出来た。
しかし間抜け参考写真は黙ってその指先を見てるだけだった。
ひとつひとつボタンが外れ、胸がはだけられていく。
膨らみをなぞるようにして白い線が走っていた。「ここ。触ってみる?」
遠慮した。川崎はボタンを留め直した。
「すごいでしょ」
「うん」やっぱり何がどうすごいのか分からなかったけれども、患者である当の川崎が云うのだからよっぽどすごいのだろう。
そこでふと、疑問に思い当たった。「なんで入院してんの?」
失言ってのはこれだ。でも口から出た言葉は引っ込められない。
川崎はにこっと笑った。「まだ途中だから」
それで学校に来たり来なかったり、保健室に篭ったり早退したりなのか。「完全じゃないんだ」
「まだ、ね」
病院からの帰りしな、随分と失言ばかりだったと反省しつつも、川崎が気にしていない様子だったから普通の病人と違って気を廻したりする必要はないと自分を納得させ、それはまぁ気楽でいいかと思った。
「また来てくれる?」
おっぱいまで見せられて、ノーと云える人はたぶん、いないんじゃないかな。