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4.たった一つの腕輪を得るために

 歓声とも罵声とも判断しがたい響きが武道場を支配する。

 

 観覧席は、3000という数があるにも関わらず満席で、通路さえも人で込み入っている。

 

 

 ひどい熱気。

 

 船に季節はないが、この日ばかりは夏が来たかのようになる。

 

 

 ベルティスも普段より薄着姿で客席に腰を下ろしていた。

 

 隣に座るジブリールは試合の勝敗が決まる度に声を発しているが、逆隣に座るルドラは試合など見向きもせずに観覧席ばかりに目を配っている。

 

 

 この日、観覧席を埋めているのは、ベルティスたち学年の生徒だけではない。

 

 上級生や下級生はもちろん、生徒たちの両親の他、出場者とはまったく無縁の者も、ミトラを見に来ている。

 

 ルドナは、その中から、自分の伴侶を捜すのだと言った。

 

 

 結婚はもちろん同級生同士だけでするものではない。

 

 縁さえあれば、誰を選んでも良いことになっているのだ。

 

 


 ミトラを出会いのチャンスだと言い切ったルドナは、試合そっちのけで良い男を物色することにしたらしい。

 

 

「あら。あそこにいるの、アータルのご両親よ」

 

 

 不意に、ルドナが声を発し、小さく指差す。

 

 この時ばかりは、ジブリールも試合よりも観覧席が気になったのか、ルドナの指の先に目を向けた。

 

 

「どこどこ?」

 

「あっち。あの、ほら、あそこ」

 

 

 アータルの父親も、アータルのような赤い髪をしていたが、アータルとはチラリとも似ていない厳つい顔をしている。

 

 きっとアータルは母親似なのだろう。

 

 流れるような金髪をしたアータルの母親は、猫のような瞳をして、じっと試合の様子を見守っている。

 

 

「ベルティスのご両親は?」

 

 

 来ているの? と聞いてきたジブリールに、ベルティスは黙って首を横に振った。

 


 生んでくれただけの母親は、父親の6番目の妻で、なんとか父親の気を惹こうと必死で、ベルティスに気をかける余裕はないのだ。

 

 一度だけ会ったことのある父親は、ベルティスが男になるつもりはないと言うと、そうか、という短い言葉をくれた。

 

 生んでくれた母親には、それなりに感謝しているし、なぜ男にならないのだと聞き返してこない父親にもそれなりに感謝している。

 

 だけど、それだけ。

 

 いるようで、いない存在。

 それがベルティスの両親だ。

 

 

 ベルティスは、ジブリールとルドナに断りを入れると、席を立った。

 

 分厚い扉を押し開き、廊下に出ると、急に静かな世界が広がる。

 

 武道場から遠ざかれば遠ざかるほど静寂は深まり、無人の空間が続いていく。

 


 ミトラが開始してから、すでに数時間が経っている。

 

 数試合を同時に行うため、一日あれば優勝者が決まる。

 

 

 飛び抜けて強いエルドが、午前中の試合で負けることなどないだろう。

 

 エルドを負かす可能性のあるのは、アータルだけだ。

 

 アータルに勝てる可能性があるのもエルドだけだと言われている。

 

 そんな二人が戦うのは、おそらく午後の最終試合になるだろう。

 

 

 決勝戦。

 対戦表を見て、作為的にそうなるよう仕組まれているのではないかと思った。

 

 エルドは負けない。

 

 そうなると、気がかりはラシュヌのことだった。

 

 

 ラシュヌは剣の訓練を止めてから2年が経っている。

 

 ずっと訓練を受けてきた者にラシュヌが適うはずがない。

 

 

 気にするな、とラシュヌは言っていた。

 

 ベルティスのために戦うのではないのだから、と。

 

 

 ラシュヌが再び剣をもった理由は、自身の気持ちに整理するため。

 戦う相手は、ラシュヌ自身なのだ。

 

 そんなラシュヌを止める言葉を、ベルティスは知らない。

 


 気が付くと、ベルティスの足はいつもの場所に向かっていた。

 

 廊下の端に立てかけられた簡易階段を上がると、ガラス張りの部屋が広がる。

 

 

(寒い)

 

 

 普段よりも薄着をしているせいだと思ったが、違う。

 

 凍えているのは心だ。

 

 

 エルドと言葉を交わさなくなってから、だいぶ日にちが経ってしまっている。

 

 元々不真面目な方だが、ここ最近のエルドはまったく授業に顔を出さない。

 

 武道場に入り浸りだと聞く。

 

 

 武道場にエルドがいるとなれば、ベルティスは何となく武道場から足が遠のいてしまう。

 

 顔を合わせづらかった。

 

 

 第一、会って何を話して良いのか分からない。

 

 

(エルドが好きだって言ってくれないから。そう、なじれば良いのだろうか?)

 

 

 だけど、これまでエルドがベルティスに対してしてくれたことを思うと、なじる気力など失せてしまう。

 


 エルドとの婚約破棄宣言をして以来、アータルは何かと付きまとってくるし、誰からとも分からないプレゼントは続々と贈られてくる。

 

 ハオマは口を利いてくれないし、他にも目すら合わせてくれない友人もいる。

 

 人の体温が恋しくなった時、これまでなら、すぐ傍にエルドがいてくれたのに、今は誰もいない。

 

 こんな時、エルドだったら、人を食ったような笑みを浮かべて手を貸してくれるのに。

 

 こんな時、エルドだったら、ベルティスが期待した通りの言葉をくれて、尚かつ、誰も思いもしない機転の利いた冗談を言っただろうに。

 

 

 ふとすると、すぐにそんなことを考えていた。

 

 

(やっぱりエルドが好き)

 

 

 だけど、きっとエルドは、自分のことなんか愛想を尽かしてしまったに違いない。

 

 廊下の壁に大穴をあけて、それですっきりしてしまったに違いないのだ。

 

 だから、何も言ってくれないのだ。

 


 元々、エルドはベルティスのことなんて好きではなかったのだから、もう、どうでも良くなってしまったのだ。

 

 

 ガラス張りの床にしゃがみ込むと、何かとてつもなく重たい物をズシリと頭に載せられたかのように気持ちが沈んだ。

 

 ひんやりと冷たさが体に染みてくる。

 

 寒い。

 

 ガラスの向こう側で星々が瞬いて、ベルティスに涙を促した。

 

 

 

 

 カン、カン、カン。

 

 

 

 軽い音を響かせ、階段を何者かが上げって来る気配に、ベルティスはハッとなった。

 

 

(エルド?)

 

 

 この場所にいるベルティスを迎えに来るのは、決まってエルドだ。

 

 だけど、そんなはずがない。

 

 エルドはミトラに参加しているのだから。

 

 


 エルドのはずがない。

 

 

 

 めったに人の来ない場所。

 

 宇宙空間に身一つで放り投げ出された感覚に陥るから、皆この場所を好まないのだ。

 

 

 好んでちょくちょく足を運んでいるベルティスが、誰かとこの場所で鉢合わせしたことは、未だかつて一度もない。

 

 こんなこと初めてだ。

 

 この場所でエルド以外の人と会うなんて。

 

 

 ベルティスは腰を上げて、階段を上がってくる人物を待った。

 

 漆黒の髪。

 精悍な顔立ちは明らかに男のもので、ベルティスは一瞬怯んだ。

 

 父親や教師以外の男と、自分一人で向き合うのは、これが初めてだった。

 

 

「君、ベルティスだよね? ここにいるんじゃないかって、エルドが言うから迎えに来たんだよ」

 

 

 階段を上りきったキルキスは、ベルティスを見つけ柔らかく微笑んだ。

 

 怯えたベルティスの表情を宥めようとしているかのような笑みだった。

 


 二学年上のキルキスは、男になれた多くの者がそうするように、高等学校を卒業後は大学に進学している。

 

 

 船では高等学校までが義務教育で、大学は通いたい者だけが進学するという仕組みになっている。

 

 

 進学試験はない。

 

 ただし、卒業試験に合格しないと、卒業できない決まりだ。

 

 

「迎えって? どうして?」

 

 

 仰ぐほど背の高いキルキスを、ベルティスは首筋をぐっと伸ばして見上げた。

 

 

「エルドの奴が、君が観覧席から消えたって騒いで大変だったんだ。すぐに自分の試合が始まるっていうのに、君を迎えに行くって」

 

「まさか」

 

「いや、本当のことだ。――きっと君はこの場所にいるから、迎えに行ってすぐ試合に戻ると言って聞かない。数人で取り押さえて、何とか試合には出したけどね」

 

 

 信じられない? と小首を傾げたキルキスに、ベルティスは無言で頷いた。

 

 彼は笑った。

 

 

「俺もそうだけど、誰かのために戦っている奴は、そいつに自分の戦いを認めて貰えないのなら、戦っても無駄だと思ってしまうんだ。――もう、どうでも良くなってしまうんだよ」

 

 

 キルキスの手が、ぽんぽんっと、ベルティスの頭を軽く叩いた。


 大きな手。

 暖かい。

 

 ふと、キルキスの左手首を飾る腕輪が目に映った。

 

 キルキスの太い腕にその腕輪は細く、だが、存在を主張しているかのように銀色に光り輝いていた。

 

 ベルティスの視線に気付いて、キルキスは軽く左腕を上げて見せ、微笑を浮かべた。

 

 

「特別に見せてあげよう。ほら」

 

 

 いいの? と聞き返すと、目だけで頷かれる。

 

 ベルティスはそっと触れながら、その腕輪に見入った。

 

 

 既婚者はその証として腕輪を身に着けることになっている。

 

 古くは結婚指輪というものがあったのだが、一夫多妻制を敷いてから指が足らないと言い出す者が現れた。

 

 故に、お互いの名前を彫った腕輪をお互いに身に着けることで結婚の証とするようになったのだ。

 

 

 決まりはないが大抵、腕輪は左腕にする。

 

 左腕に収まりきらない場合、右腕に。

 

 それでも足りない時は、足首にしても良いことになっている。

 

 

 ただし、これは男の場合であり、女は左腕に一つしか身に着けられない。

 

 一夫多妻制の社会だからだ。

 


 ほっそりとした腕輪の外側に彫られた文字を見つけて、思わずベルティスは声に上げてそれを読んだ。

 

 

「シン……?」

 

「そう、シン。――俺の大事な女。今度エルドと一緒に家に来いよ。会わせてやるから」

 

 

 頷きかけて、ベルティスは怪訝な顔をした。

 

 

「一つだけ?」

 

 

 腕輪の数のことだ。

 

 レース優勝経験者であるキルキスならば、さぞかしもてるだろうに、どうして一つしか腕輪をしていないのだろう?

 

 

 男であるキルキスから求婚を断ることはできない。

 

 キルキスがシンをたった一人の妻だと心に決めていても、キルキスのことを好きになってしまう女がシンの他に現れれば、キルキスの腕輪は増えていくはずなのだ。

 

 だが、キルキスの腕には一つしか腕輪がない。

 

 キルキスが婚姻を結べる年齢になってから2年も経っているのに、だ。

 

 

 キルキスの瞳がふっと和らぐ。

 

 

「この一つだけの腕輪を手に入れるために、俺はミトラで優勝したんだよ。――エルドもきっとそうだ」

 


「どういう意味?」

 

 

 困惑がベルティスの顔に浮かぶ。

 

 優勝することに意味なんてあるのだろうか?

 

 

(そりゃあ、ずっと訓練を続けてきたのだから、自分の強さを示すために優勝を目指すのは当然だろう)

 

 

 誰だって負けたくない。

 やるからには勝ちたいと思う気持ちは正しい。

 

 エルドだって、人一倍負けず嫌いなのだから、参加するからには優勝したいのだろうと思う。

 

 このくらい勝ち進めば男になれるだろうというところまで勝てたとして、その次の試合をわざと負けるってことは、普通、しないものだ。

 

 勝てるところまで勝ちに行く。

 

 そういうものだと思う。

 だけど――。

 

 

「優勝することに意味があるわけ?」

 

「しなければ意味がないのさ」

 

 

 キルキスが己の左腕を愛おしげに見つめ、腕輪に軽く唇を当てた。

 


「優勝すると、その場でホルモン剤を貰えて、求婚できる。――つまり、そうしたい相手がいる者こそが優勝する資格があるってわけだ。人は自分のために戦うよりも、誰かのためを想って戦う方が強くなれるものだからな」

 

 

 例えば、自分のためだから勉強をしろと言われても、する気になれないだろう。

 

 だが、もし、君が次のテストで満点を取らなければ大切な友人を殺す、と言われたら、必死で勉強するだろう?

 

 そんなおかしな例え話を上げて、キルキスは淡く笑った。

 

 

「俺もエルドも、シンや君のためなんだ。誰にも負けない力でシンを守りたいから、俺は強くなったし、レースで優勝した。――それほどにまで想っている女がいる男を、普通、他の女は敬遠するものだろう?」

 

 

 ハッとして、ベルティスはキルキスの顔を見上げた。

 

 

「だから、腕輪が一つ?」

 

 

 その人のために強くなりたい。

 そう誰よりも願った者が優勝し、結ばれる。

 

 そうやって結ばれた二人の間に、いったい誰が割り込もうと考えるだろうか。

 


「もちろん過去の優勝者全員が、たった一人しか妻を持たなかったわけじゃない。だけど、一人の女のみを愛することのできない社会の中で、唯一そうすることのできる方法は、ミトラで優勝することだけだ」

 

 

 優勝して、想いの深さを他に示す。

 それしかない。

 

 そう言って、キルキスはベルティスの肩に手を置いた。

 

 階段を下りるよう促す。

 

 

「時間だ。決勝戦が始まってしまう」

 

 

 いつの間に、そんなに時間が経ってしまったのだろうか。

 

 迎えがなくとも、決勝戦には武道場に戻るつもりだった。

 

 だけど、心のどこかでは、自分の預かり知らぬところで事が終わってしまえば良いのにと思っていた。

 

 迎えが来なかったら、戻らなかったかもしれない。

 

 

 迎えが来れば良し。

 来なければ一生ここに居たっていい。

 

 そんな気分だった。

 

 

 ガラスは肌に冷たく、徐々に体温を吸い取っていくけれど、そのまま凍り付いてしまっても、ベルティスは構わなかった。

 


 しかし、迎えは来た。

 エルドではなかったけれど。

 

 

 キルキスは再び階段を下りるよう促して、静かに口を開いた。

 

 

「エルドは強い。だが、君がいなければエルドは勝てない。勝てたとしても意味がないからだ。――ベルティス、武道場に戻ってくれるね?」

 

 

 ついに頷いて、ベルティスは階段を下りた。

 

 

 

 観覧席に戻ろうとして、キルキスに引き留められる。

 

 エスカレーターを途中で降りたベルティスの体を引き戻すと、武道場のサポーター席に行こうと言うのだ。

 

 キルキスは、エルドのコーチ兼サポーターとして午前中からずっとそちらの席にいたらしい。

 

 本来ならば、ベルティスがその席に座っているべきなのだ、と彼は眉を顰めた。

 

 

「最後の試合くらい君が座っているべきだと思うよ」

 

「エルドは……俺なんかが座っていて喜ぶかな?」

 


「ベルティス」

 

 

 当たり前だろう、という批難の色が滲んだ声が響く。

 

 だが、エルドが自分を確かに好きでいてくれているのだという確信が、ベルティスにはなかった。

 

 エルドはベルティスのために戦っているのだと、キルキスは言うが、ベルティスにはそれ自体が信じられない。

 

 

(だって、エルドは好きだと言ってくれない!)

 

 

「マーフを呼んだ方が……」

 

「ベルティス。エルドも悪いが、君も良くはない。君はエルドの何を見てきたんだ?」

 

 

 振り向くと、キルキスは顔から笑みを消していた。

 ひどく硬い表情をしている。

 

 

「人は、自分に関しては鈍くなるものだが、君は特に鈍いんだな。それではエルドが哀れだ。――もっとエルドを信じてやれ。そして、君自身の想いも大切にしてやれ」

 


 分厚い扉が、キルキスの両手によって開かれると、ムッとした熱気がベルティスを襲ってきた。

 

 続いて、喧噪。

 

 数年ぶりに立った武道場の床は堅く、足の裏に確かな感触を与える。

 

 キルキスに背を押され一歩踏み出した時、エルドの顔を見つけた。

 

 灰色の瞳が大きく見開かれる。

 

 そして、すぐにヒマワリのような笑みを満面に浮かべて、ベルティスに向かって両手を広げた。

 

 

「ベルティス!」

 

 

 反響する。

 居たたまれない心地になった。

 

 気恥ずかしかったのだが、それだけではない。

 

 この武道場のどこかにいるエルドを想う者へ後ろめたさ。

 

 そして、エルドへの疑心が、彼の胸に素直に飛び込む行為を拒んだ。

 

 

 キルキスに促されながらエルドの側まで行くと、俯いて、頑張ってとだけ小さく告げた。


 試合開始直前の合図が鳴り響き、エルドが武道場中央に歩み出す。

 

 ミトラは、何一つ予想を裏切らずに進んだらしい。

 

 エルドの決勝戦の相手は、やはりアータルだった。

 

 

 アータルは、鮮やかに赤い前髪を片手で軽く掻き上げると、その腕を、歓声を上げる同級生たちに向かって掲げた。

 

 そして次に、ベルティスに向かって真っ直ぐ指差す。

 

 エルドの顔が強張ったのが分かった。

 

 当然、アータルがベルティスに言い寄っていることは、エルドの耳にも入っているはずだ。

 

 エルドの手にしている剣が、カチャカチャと音を立てて震えている。

 

 その音が激しく響くほど、エルドの怒りがベルティスには伝わってくるようで、ゾクリと鳥肌が立った。

 

 

 長く笛が鳴った。

 

 ついに決勝戦の幕が上がったのだ。

 


 キィーン、と金属音が鳴り響いた。

 

 笛音と共に駆けだしたエルドの剣がアータルの剣と激しく交わったのだ。

 

 お互いにお互いの剣を押し合っている。

 

 力は互角。

 そのまま膠着してしまい、ギリギリと不快な音のみを発し続けた。

 

 

「まずいな」

 

 

 不意に頭上で舌打ちが聞こえて、驚いたようにベルティスは、キルキスを振り返った。

 

 

「エルドの奴、頭に血が上ってやがる」

 

 

 エルドがひどく怒っていることは、言われなくても分かる。

 

 だけど、それは果たしてまずいことなのだろうか。

 

 ベルティスが怪訝な顔をすると、キルキスは深く頷いた。

 

 

「アータルは、頭に血が上っている状態で勝てる相手じゃない。力で押して勝てる相手なら、冷静さを欠いた今の状態でも十分に勝てるだろうさ。――だが、アータルは他の奴とは違うからな」

 


 負けるかもしれない、とまでは、キルキスは言わなかった。

 

 だが、彼が呑み込んだ言葉は確かにそれだった。

 

 ベルティスは、ぐっと唇を結んで、エルドを見つめた。

 

 

 キィーン。

 響く不快音。

 

 

 一度離れた二人の剣が再びぶつかり合った。

 

 ぐらりと体が傾いだのは、エルドの方。

 

 ベルティスはハッと息を呑んだ。

 

 

「エルド!」

 

 

 ベルティスが上げた悲鳴は、歓声とも罵声とも判断付かない多くの人々の声の中で掻き消えてしまった。

 

 膝を着いてしまったエルドだが、まだ負けてはいない。

 

 勝負は、片方が降参を認めるか、戦闘不能になるか、誰の目から見ても勝敗が明らかになることで決まる。

 

 エルドの瞳は、まだ負けを認めていない。

 

 負けていない!

 

 

「エルド!」

 

 

 再び叫ぶと、後ろからキルキスに抱き止められる。

 

 彼の目には、ベルティスが今にも戦いの中に飛び込んで行きそうに見えたのだろう。

 

 構わず、ベルティスは声を張り上げた。

 


「エルド! 俺、そいつにキスされた! すごく嫌だった!」

 

 

 ひどい喧噪の中だが、エルドの耳には届くはずだ。

 

 エルドがベルティスの声を聞き逃すはずがない。

 

 

「すごく嫌で、すごく悔しかったんだ! だから、エルド! そんな奴、早くやっつけてーっ!」

 

 

 カラン。

 軽い音が響いた。

 

 

 エルドが剣を捨てたのだと分かったのは、一瞬後だった。

 

 皆、唖然とする。

 

 素手で戦っても良いとは言っても、剣で向かってくる相手に剣なしで向かう者はいない。

 

 剣を手放すこと。

 それは同時に負けを意味した。

 

 だが、エルドは捨てた剣が音を立てると同時に、呆けて隙を見せたアータルの胸元深くに飛び込み、その体を力一杯殴り飛ばした。

 

 吹っ飛んだアータルは床に尻を着くと、間を置かず繰り出されたエルドの蹴りで更に遠くに転がる。

 

 瞬く程の早さだった。

 

 アータルの手から離れた剣を拾うと、エルドは転がるアータルを見下して、その首筋に剣先を突きつけたのだ。

 

 

「勝者、エルド!」

 

 

 長く長く笛の音が鳴り響き、それを掻き消すかのような歓声が響いた。


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