2.フラフラする僕と、全く動かない彼女
教室にいる時の柚子さんは、息苦しそうだ。教室独特の空気が肌に合っていないように思う。クラスメイトと話していると、会話のリズムが合わずに、言葉が途切れてしまうことがしばしばあった。その姿が、水泳で息継ぎがうまくできていない様に似ていた。
自分も人に言えるほど、うまく過ごせているわけではない。中学はじめの頃なんて特に、息継ぎの仕方はわからなかった。
でも、肩の力を抜くことを覚えた。皆がクロールを泳いでいるからって、同じようにクロールを泳ぐ必要はない。背泳ぎでも、平泳ぎでもいいのだ。別に遅くても他人に迷惑はかからない。
教室では、そんな小さなミスの積み重ねで、友達の数といった目に見えるステータスが決まる。ステータスによって階級も決まる。階級なんて気にしないで生活することはできる。でも、僕ら子どもは気にせずにはいられない。
僕らの心が、未成熟だから、小さい事でも傷ついてしますから、安定を求めて階級の上位を目指す。
コミュニケーション能力が低い人に残された、ステータスを上げる方法が、勉強だ。確実、とは言えないが成績が上位だと、より上の階級に属することができる。
たぶん、柚子さんもそのことがわかっていたのだろう、勉強には必死に取り組んでいた。
先生たちは、勉強はやればやるだけ結果が返ってくるというが、本当にそうだろうか。陸上競技のように、常に一人でタイムという指標と向きあうスポーツならそうかもしれないが、勉強は違うと思う。勉強での成績はテストで決まる。テストの評価は点数ではなく主に順位だ。相対的な評価なのだ。
結論を言えば、柚子さんの努力はまだ報われていなかった。相対的な評価のもとでは、彼女の成績は中の下だった。まだ一ヶ月しか経っていなから、結果が出てないだけかもしれない。
§
複数のイベントが重なると、まとめて行われる事が多い。
例に漏れず、僕の誕生日祝いとお正月はまとめて行われていた。
「それじゃ、お年玉に誕生日プレゼント分を上乗せされて渡されたの?」
関君が頬杖を付きながら、同情を含んだ目で僕を見た。同情を受けるべき、かわいそうな境遇かもしれない。僕はいままで、誕生日プレゼントを現金でしか受け取ったことがないのだ。
その現金のおかげで、欲しかったおもちゃや本を好きに購入することができた。小さなうれしさの後、大きな虚しさをよく感じた。
”モノより思い出”と有名なフレーズを聞いたとき、思い出が付随したモノを持っていたら最強なんだろうな、そう思った。
人からもらったプレゼントは、その人とのつながりそのものであり、その人との思いでを示すモノとなる。つまり、最強になりうる可能性が高い。そして、僕はそれをひとつも持っていない。
一般的な高校生だったら、部屋を探したら、何個もプレゼントが見つかることだろう。
「いいなぁ。俺の場合は毎年誕生日プレゼントをもらっているけど、自分が欲しいものだったことがないよ。何回、現金くれって言ったことか」
悪意のない、本心からそう言っていることがわかる関君の表情を見て、苛立ちを覚えた。もちろん、自分本位の身勝手な感情だってわかっている。どうしても、イライラは止められない。止めるすべを身につけていない、が正解かもしれない。
大人になる過程で、こういった感情のコントロールはできるようになるのだろうか。
希望的な見方をしすぎ。もしくは、問題の先送り。
たぶん、この考えは間違っている。大人は誰しも万能ではない。
それを僕はすでに知っている。
小学生のとき、中学生は大人に見えた。中学生のとき、高校生は大人に見えた。でも違った。
小学生の延長線に中学生、高校生がある。入っている入れ物が違うだけで、入っている人はそんなに変わらない、子どもだ。
だから、このまま大学生、社会人と移り変わっても、中身はそれほど変わらないのは当たり前じゃないか。
昼休み終了5分前を告げるチャイムが鳴る。弁当を片付ける人、会話を終了してお手洗いに立つ人がいた。
一定のリズムで動く歯車のようだと思った。チャイムがメトロームのようにリズムをとるための音となり、そのリズムで動く人が歯車だ。
自分のその歯車だが、きちんと歯車になりえているか疑問に思う。
歯車は動く方向、動く理由――次の歯車に力を伝える――を持って動くもの。でも、僕は動く方向も理由もあやふや。
確固たる自分がない。
…それもまた、言い訳か。
大人になりたいと願いつつも、子どもでいたいと、そう思ってしまう。
§
「おはよう」
「こんばんは」
学校で、塾で、座嶋さんからあいさつをされるようになった。小さいけど、大きな意味を持つ変化。
あいさつのあとに日常会話が続くほど、まだ打ち解けてはいなけど、今度話してみようかな、毎回そう思う。
「おはよう、草群君」
「おはよう、座嶋さん」
今日もまた学校で挨拶を交わす。今日の座嶋さんはセミロングの髪をひとつに結いあげていた。ポニーテールというのだろうか。低い位置でまとめているので、おさげと呼んだ方がいいのかもしれなかった。
四月が終わり、五月となってから、だんだん気温が高くなってきたから髪型を変えたのだろうか。
――その髪型、似合っているね
喉元まで言葉が出かかったが、それが音となって発せられることはなかった。羞恥心がブレーキとなって、喉を動かさなかったのだ。
女の子の容姿を褒めることは難しい。相手からも変な目で見られる可能性があるし、周囲からも”アイツは気障な野郎だと思われるかもしれない。
ハイリスク、ローリターン。
教室の中では浮かず沈まずを心情としているので、それにしたがって行動する。
あいさつが終わったあとも、座嶋さんを見続けていたため、少し不思議そうな顔をされた。チャンスだと、思った。
「あ、あの。髪型、いつもと、違うね」
どもった喋り方になってしまい、顔が熱くなる。
「…うん。こうしてる方が、楽だから」
僕と座嶋さんの距離は、1m位だったけど、それでもギリギリ聞こえるほどの声の大きさ。
座嶋さんは、慌てた様子で席にすわろうとして、机の足に自分の足をぶつけた。
その衝撃で机の中のプリントが一枚、床に落ちる。
”僕・私はこんな高校生活を送りたい”
入学当初に配られたプリントで、これからの高校生活をどういったものにしたいかを書いて提出するためのもの。
このプリントと一緒に”高校ではこんなことできます”という部活紹介や学校紹介が配られ、それを参考に書くことになっていた。
プリントを拾うとき、記入欄をのぞく。
大きく三つ記入欄があったが、どれも白紙だった。書くことができなかったのか、忘れていたのか。
座嶋さんにプリントを渡そうとする前に、奪い取られてしまった。
彼女らしくないその動作から、見られたくなかったことがわかる。
たぶん、書けなかっただろう。
髪型を褒めようとしたときとは、違う理由で言葉が出てこない。
それに、話かけるタイミングは一瞬しかなく、それはもう過ぎていた。
奪い取った瞬間、席についた彼女は、他人との接触を断つように素早く教科書を取り出し机に入れて、読書を始めた。
本を見つめる目は真剣そのものだったが、物語に集中しているという風ではなかった。