第1話「桃から生まれるもの」
杉本隼人が東京を去ったのは、春の雨の日だった。
広告代理店でデザイナーとして働きはじめて五年。華やかな仕事に見えて、その実態は徹夜続きの戦場のような日々だった。プレゼンのために徹夜で描いたデザインが一瞬でボツになる。上司の怒号とクライアントの無茶な要求。気づけば食事もろくにとらず、気力も体力も削れていった。
限界は突然やってきた。オフィスで意識を失い、救急車で運ばれた。医師から告げられたのは「過労による自律神経失調」。その言葉は、隼人の心を空っぽにした。
退職を決意し、行き場を失った隼人が向かったのは、ふるさと田主丸だった。祖父母が暮らしていた家。久しく帰っていなかった場所。
帰郷してまず目に飛び込んできたのは、かつて祖父が手入れしていた田んぼだった。今は草に覆われ、荒れ果てた耕作放棄地に変わり果てている。
「もったいないな……」
口にした声は風にかき消され、空に溶けた。だが、それ以上にどうすることもできなかった。体も心もまだ重く、ただその広さを眺めるしかない。隼人は日々、空っぽの時間を埋めるように畑の縁を歩いて過ごした。
そんなある日、地元の知人から声をかけられた。
「幼稚園でワークショップの手伝いをしてくれないか? デザインの経験があるなら、きっと子どもたちも喜ぶ」
気乗りしないまま隼人は幼稚園を訪れた。小さな教室に入り、机を並べると、園児たちが無邪気な目で取り囲んだ。
「お兄ちゃん、都会ってどんなとこ?」
「東京って、本当にビルばっかり?」
質問攻めにあい、隼人は苦笑いしながら答えていった。だが心の奥には、自分が都会で挫折した現実がちらつく。
そのとき、一人の女の子が手を挙げた。
「桃太郎のお話、読んで!」
声に押され、隼人は絵本を開いた。ページをめくりながら、子どもたちに聞かせていく。
――おじいさんとおばあさんが川で桃を拾いました。
――桃を割ると中から元気な男の子が生まれました。
園児たちは目を輝かせ、声をあげて笑った。
「やっぱ桃から生まれるなんて面白い!」
無邪気な笑い声。その眩しさが、隼人の胸を強く突き刺した。
帰り道、隼人はまた耕作放棄地の前に立った。夕暮れの光に照らされた荒地は、ただ無言で広がっている。しかし今の隼人には、別のものに見えた。
――これは、真っ白なキャンバスだ。
子どもたちの笑顔が頭をよぎる。桃太郎の物語が重なっていく。
ちょうどそのとき、近所の幼なじみの亮がドローンを飛ばしていた。
「隼人、見てみろよ。上から見ると面白いぞ」
差し出されたタブレットに映っていたのは、上空から捉えた畑の姿。整然と区切られた区画が、まるで絵本の見開きのように並んでいた。
その瞬間、電流のような閃きが走る。
「……畑に、桃太郎を描けるかもしれない」
思わず口にした自分の声に、隼人自身が驚いた。だがその言葉は、心の奥底に眠っていた炎を呼び覚ました。
その夜、隼人は久しぶりにスケッチブックを開いた。
広告のロゴでも、商品パッケージでもない。
鉛筆を走らせる先には、耕作放棄地を舞台にした桃太郎のシーン。川に流れる桃、おじいさんとおばあさんの姿、犬・猿・キジが並ぶシルエット。
夢中で描きながら、隼人は呟いた。
「子どもたちに夢を見せたい。町を元気にしたい」
ペン先が震えながらも、線は力を帯びていく。
かつて東京で挫折した青年が、ふるさとの畑で新しい挑戦を始めようとしていた。
夜の静けさの中、スケッチブックに描かれた桃太郎が、まるでページから飛び出すように輝いて見えた。