第9話 滲み出す鵺の影
永を肩に担いだまま、無我夢中で蕾生は走る。
いつの間にか踏みしめるものが土からアスファルトに変わったと知覚した時、あの頭の奥底で響くように鳴っていたサイレンがとっくに止まっていることを蕾生は知った。
「ライくん……もういい。おろして」
永の声はとてもか細く沈んでいたが、語尾が穏やかないつもの調子に戻っていたので、蕾生は抱えていた体をその場でおろした。
自分達の周りを見回したが構内は静まり返っており、追ってくる者なども見えなかった。
「どうなってるんだ……?」
あんなにけたたましく鳴っていたサイレンがまさか誰にも気づかれていないとは思えなくて、蕾生は首を傾げる。
「おそらく、あのサイレンは一部の人間にしか聞こえていない」
「どういう事だ?」
問いかけながら永の方を見ると、その表情は暗く、怒りさえ携えているようで、蕾生の知る永とは異様な空気感をまとっていた。
しかしすぐ、雰囲気に飲まれてしまった蕾生に緩く微笑みかけて、永は静かに言う。
「ごめん、驚いたよね」
「……」
蕾生の心情は複雑だった。とても驚いたし、戸惑いもしている。
不思議なサイレンの正体も気になるけれど、それよりも気になるのはあの温室にいた少女だ。
得体の知れない者ではあるが、あの少女の存在は何故かすんなりと受け入れているような気がする。けれど、その理由がわからない自分に納得できない変な感覚だった。
「とにかく今は食堂に戻ろう? 後でちゃんと説明はするから」
「……わかった」
落ち着きを取り戻した永について食堂まで戻ると、中では何事もなかったように他の客達は談笑している。職員数人もその場にいたが、戻ってきた永と蕾生を特に気に留める素振りもなかった。
「あれだけの騒ぎに何も対処してこないなんてことがあるのか……?」
蕾生の呟きに、永は小声で短く返す。
「つまり、ここはそういう所ってことだよ」
その言葉は軽蔑を孕んでいた。
静かに食堂テーブルについた後、永は蕾生に寄り添うくらいに近寄って囁く。
まるで、誰かに会話を聞かれる事を恐れているように。
「リンが鳴らした防犯ベル、多分だけどアレは普通の品物じゃない」
「……え?」
「サイレンの音、頭の中で鳴ってるみたいだったでしょ? みたいじゃなくてそうなんだよ。普通の人間には聞こえない音だった」
「ええ?」
永の言っている意味がわからない。いつもは頭のいい永がわかりやすく何でも説明してくれる。それなのに、今言われた事は理解出来なくて、蕾生は思わず声を上げてしまった。
「シッ! この食堂にいる人達に変化はないでしょ? 少なくとも、ここにいる人間にはあのサイレンは聞こえてないよ」
「……じゃあ、何のために? あの女の子は『人を呼ぶ』だの、『捕まったら死ぬ』だの言ったんだぞ」
蕾生が大きな肩を竦めながら反論すると、永は深く息を吐いてまた囁き程度の声で答えた。
「リン……あの子のハッタリだろうね。僕らを安全に逃すための方便かもしれない」
「じゃあ、危険なことは無かったんだな?」
蕾生がそう聞くと、永は渋い顔になって首を傾げた。
「どうだろうね。僕らの他にあの音を聴き分けられる人間なら、この研究所にも何人かいるだろうから」
「誰が……?」
あのサイレンの正体は何だったのか。
音が聞こえる人間とはどのような者なのか。
何故、自分達もその部類に入っているのか。
疑問は膨らむばかりで、蕾生は何から聞いたらいいのかわからなくなってきた。
呆然と固まる蕾生の肩を軽く叩いて、永は静かに首を振る。
ここではこれ以上話せない、という意味だ。
「とりあえず、今はここを無事に出られるように祈ろう」
二人が会話を辞めてややもすると、黙って立っていた職員の一人が全員に聞こえるように少し大きな声で話しかけた。
「皆さまお疲れ様でした。当研究所の一般公開プログラムはこれで終了いたします。入館証をこちらにご返却のうえ、出口までどうぞ」
案内に従って客達が動き始める。永と蕾生もその列に紛れてなるべく気配を押し殺して動いた。
職員達は拍子抜けするくらい機械的に人々を出口まで促していく。二人も来た時と同じ、無事に通用口の扉から出ることができた。
職員達は人々を送ることはしたが、その口から御礼や好意を感じられる言葉はついに無く、ただ黙って人々が研究所から遠ざかるのを見守っている。
その眼差しがとても気味が悪く、蕾生は自然と足が早くなった。
「なあ、永」
蕾生の気持ちを察して、永はにこりと笑って言った。
「うん。とりあえず公園まで戻ろう」
まだ昼過ぎの陽も高い時刻。研究所から遠ざかる程に公園で休日を楽しんでいる人の声が大きくなってきて、安心を求める蕾生の足取りはいっそう早くなっていった。
◆ ◆ ◆
公立の森林公園は、マラソンコースが複数あり、ドッグランも併設されている、ちょっとした行楽地として地元民に親しまれている。
今日は連休なのでバーベキューをしている家族連れもいた。大人は食べて飲んで、子どもはバドミントンなどで遊ぶ。そんな典型的な休日の風景が二人の目の前に広がっている。
先程までいた環境とまるで違う景色だ、と蕾生は改めて思う。こうしてベンチに座っているだけでも人々の息遣いを感じられてなんだか安心する。
隣に座っている永はまだ何も話さない。じっと何かを考えこんでいるようなので、その口から語られることはきっととんでもないことなのだろう、と蕾生は少し緊張してきた。
「ライくん、これから話すこと──驚くなって方が無理だと思うけど、出来るだけ落ち着いて聞いてくれる?」
「……わかった」
「途中でなんか変な感じがするとか、具合が悪くなったら絶対言って」
「あ、ああ……?」
蕾生の体の頑丈さは充分知っているはずなのに、今日は朝から随分体調を気にするなと思った。だが、そう言う永の顔がとても真剣で少し怯えているようなので、蕾生は大きく頷いた。
「ええっと、どこから話そうかな……」
「あの子は一体誰なんだよ?」
それでも永は言葉を濁すので、蕾生はまず研究所で会った少女について問う。
「そうだね、まずはそこからだ。彼女はリン、今の名前は知らない」
「今の名前? どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ、僕はまだあの子の今回の生については何も知らない。けど、リンはずっと前から僕たちの仲間なんだ」
開始早々から蕾生の頭の中は疑問符だらけになっている。ようやく返せたのはたった一言だった。
「ずっと、って?」
「うーんと、千年……くらい?」
「は?」
「僕ら三人は、ずーっと昔から何度も転生を繰り返してる仲間なんだ」
「ええー……?」
漫画の話かな、と現実逃避したくなる思考を蕾生はなんとか押し込める。永の顔は冗談を言っているものではなかったから。
「よく知らんけど、仏教とかの教えだと人間は皆生まれ変わってるんだろ?」
なんとかそういう一般的な話として理解したい。
けれど、蕾生のそんな努力は簡単に崩された。
「ああ、うん、まあそうだね。だけど僕らの場合はその転生の回数が尋常じゃない」
「ええー……?」
嘘だあ、と言いそうになったのを蕾生は飲み込んだ。永の顔はどんどん深刻さを増している。
「僕も正確に知覚は出来ていないんだけど、僕らが転生したのは千年の間におそらく三十回以上」
「ちょ、っと待てよ。人の一生って昔でも五十年くらいはあるだろ。千年で三十回以上ってことは単純に割っても……」
「そうだよ、ライ。冷静で嬉しいよ」
永は少し安心したような表情になって、蕾生の疑問にきっぱりと答える。
「僕らは若く死んで、生まれ変わる。そういう運命をずっと繰り返してる」
途方もない事を言われた。
それは本当に現実の、実際に起こり得る事なのだろうか。
蕾生にはその実感がまるでない。永にはあるようなのに。
様々な疑問が浮かぶけれど、蕾生が次に聞けたのは短い問いだけだった。
「何故?」
その問いかけが全てだ。
得体の知れない研究所。世間からは忘れられた新生物。
初めて会うのに知っていた少女。限られた人間だけが反応するモノ。
それら全てが蕾生の中にある疑問であり、その行き着く先は同じ場所だと直感した。
だから、何故。何故、こんな事になったのかと蕾生は永に問うた。
永の回答は短かった。
それは全てに繋がる答えだった。
「鵺に呪われているから」
ヌエ
ぬえ?
鵺
初めて聞くはずの単語なのに、蕾生はその言葉の意味を知っていた。
何か、黒い、闇の中からやってくる化物。
奇妙な声。その獣を確かに知っている。
辺りが急に曇り始めた。冷たい風が吹く。
それに煽られて羽ばたく鳥の、哀しい声が響いていた。