第8話 懐かしい、憎い、愛おしい
「……わかった」
蕾生は頷いた。元より永からの頼みを断ることなどあり得ない。
そうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるだろう。永が初めて見せた表情の意味も。
教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
日常は、消え失せた。
蕾生が退かしたプランターは、永をこちらに繋ぎ止める堤防だった。
それがなくなった今、永はどこか蕾生の知らない場所へ行こうとしている。
そしてそこは、どす黒い運命が待ち受ける、苦しく険しい世界かもしれない。
けれど永が行くと言うのなら、自分は従うだけだ。
それが蕾生には自然な感情だった。
「ありがとう」
小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
「永!」
蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。
近づくにつれて同じ感覚が胸の内からも湧き上がってくる。
懐かしい。
とても懐かしいものがそこにあるような……
いざ辿り着いて見ると、それはガラス張りで大きな正方形を模った温室のようだった。
大手の農業家でもここまでの規模はそうない。研究用なら尚更こんな大きさは必要ないように思われた。
温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。
中に入った蕾生は驚くとともに、意識が少し混乱した。
そこは建物の中のはずなのに、自然そのものの景色だった。
明るい陽が差し、空気も澄んでいる。普通の温室なら植物棚でもありそうなものだが、木々や花々は全て地面から生えていた。
箱庭。
そんな形容が相応しいほどに、その空間は完璧に人工物が排除されていた。
ガラス張りの壁は自由に伸びた枝や蔓の合間から見えているのみ。天井のほとんどは青く茂った木の枝が張り巡らされているため、その存在を忘れそうになる。
ガラスの空を覆い隠している木の枝を辿ると、中央へと視線が誘われた
大樹が、温室の中央で、この世界の主人であるかのように聳え立つ。
それは箱庭の中で、母のような慈愛を示しながらさやさやと枝葉を靡かせていた。
「あ……」
永が小さく声を漏らす。その声が向けられた方を見た蕾生は、心臓がドキリと跳ねた。
その大樹の下の人影へ、永が一歩近づく。
一人の少女が小さなテーブルと椅子に腰掛けていた。本を開きながら目を見開いてこちらを見ている。
肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ていた。
その年頃は蕾生達よりも幾つか年下に見える。
「リン……か?」
永の言葉に、蕾生の跳ね続ける心臓が今度は痛む。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響いて、目眩がした。
「ハル様、ですか?」
少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
「そうだよ」
「何故、ここが……?」
少女は狼狽していた。小さな唇を震わせて、ようやく言葉を紡いでいるようだった。
「何故ってここは銀騎の研究所だろう? お前まで居たのは知らなかったけど」
永は蕾生の知らない事実を幾つも飛び越えて、少女に語りかけていた。永の言葉の意味は、蕾生には何一つ分からなかった。
「そうですね……さすが、ハル様です」
少女の表情は険しい。褒め言葉を言うような調子ではなかった。
皮肉のような、落胆するような、そんな感情を向けられて、永の方も訝しんでいた。
「……リン?」
永がその少女を呼ぶ度に、蕾生の胸がざわつく。
懐かしい。
憎い。
愛おしい。
訳の分からない感情が、代わる代わる湧き上がる。
しかも、それはおそらく蕾生の感情ではない。
蕾生が己の感情を、少女に向けるべき感情を探していると、その視線が飛んできた。
「そこにいるのは、ライですね」
鋭い視線を受けて、蕾生はヘビに睨まれたように体が固まってしまう。
初対面の少女に馴れ馴れしくそう言われて、答える言葉が浮かばなかった。
「……ああ」
代わりに永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな瞳に戻って言う。
「何をしに来たのですか?」
「それは……お前ならわかるよな?」
少女の言葉に、永は動揺していた。
頭の回転が誰よりも速い永が、相手の言わんとすることを理解できない事があるなんて。
蕾生はそんな永の様子から不安が募る。同時に、少女の増していく迫力に呑まれそうになっていた。
「いいえ、私にはわかりません」
少女は目を伏せて首を振る。永を拒絶しているような仕草だった。
「お前がいないと始まらないじゃないか。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
永の質問は脈絡がないように思えた。少なくとも蕾生には。
何が始まらないって?
いつもより若いって、何?
二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
少しの間を置いて、少女は突き放すような口調ではっきりと言う。
「ハル様、私はもう協力できません」
「──え?」
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
「な、に、言ってんの、お前?」
永の動揺は更に酷くなり、その少女に一歩近づいた。
「近寄らないでください。人を呼びます」
「お前、どうしたんだよ! 何があった? お前こそどうしてここにいる?」
詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットを探る。防犯ブザーのようなものを取り出して、そのスイッチを押した。
途端に温室の中が赤い照明に変わり点滅を始めた。それからけたたましいサイレンが鳴り響く。
頭に直接響くような不思議な音だったが、蕾生はそれに恐怖を感じた。
「リン!」
戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言った。
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
とんでもないことを言われたが、何故かそれが嘘だとは思えなかった。
また、少女の決死の表情には従わざるを得ない迫力があった。
「永、一旦帰ろう」
蕾生は震えそうな声でそう言うのが精一杯で、少女に対して「お前は誰だ」と問う余裕は既に無かった。
「馬鹿言うな! せっかく会えたのに!」
永は駄々をこねる子どもようにそこに留まり続ける。
こんなに狼狽している永は初めて見た。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
「早く! 走って!」
悲痛とも思える叫び。
少女の声と、響くサイレンの音が、不協和音のように奇妙に混ざる。
「──クソっ」
頭の中でどんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
「離せ、ライ! リンが、リンが──ッ!」
とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
「これで、さよなら……」
少女の少し穏やかな声が胸に響く。その台詞は、以前にも聞いたような気がした。
思い出せないまま、その顔をもう一度振り返る。
そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。
「二人は、少しでも平穏な人生を生きてください」
その言葉に胸がひどく痛くなる。
けれどサイレンの轟音に追い立てられて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
白い道路が見えるまで、振り返らずに。
その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく涙を、見なかったことにして。
蕾生は、そこから逃げ出した。