第7話 日常が割れる音
「……以上が研究棟の中では主なものであります」
銀騎研究所の見学会は、副所長からの講演会を終えて次のプログラムに移っていた。数人ずつが職員に連れられて、構内を散策しながら研究棟のいくつかを見学する。
事務的な言葉で案内係の男性が締めくくると、一団の中には微かに溜息を漏らす者もいた。そりゃそうだ、と蕾生は思う。
副所長の銀騎皓矢による壮大な生物学的講話、とてつもなく強烈な印象を残した所長の銀騎詮充郎の演説。それらから受けた印象のまま研究所の散策が始まった。
参加者は逸る気持ちを抑えながら、まるでお化け屋敷にでも向かうような期待を寄せていた。だが、結果は期待外れのものだった。
分野ごとに分かれている研究棟を三棟ほど回ったが、どこもエントランスから先は通してもらえず、蕾生ですら期待していたバイオテクノロジー研究の植物だったり、複雑な名前の薬品を使った実験だったり、新生物研究のヒントだったり等の心躍るような光景には全く出会えなかった。
パンフレットに沿ってただ研究所内をウロウロしただけで、せめて庭木や花でも植えてあれば季節がら目にも楽しいのだろうが、それすらも見かけることは叶わなかった。
全体ががっかりした面持ちでいると、いたたまれなくなったのか案内係の男性は少し明るい声で皆に話しかける。
「では、最後に私共の食堂で昼食を召し上がっていただきます。今日は職員の中で一番人気の高いメニューをご用意させていただきました。サラダバーには当研究所が監修しましたドレッシングの全種類をご用意しておりますので、ぜひお楽しみください」
「サラダかあ……」
少し盛り上がった周囲とは逆に蕾生が肩を落とす。それを見た永は嗜めるような口調で言った。
「もう、ライくんもたまには野菜を食べないと。普段、肉と米ばっかりなんだから」
「家では食ってるよ。外食で野菜食べる意味がわからん」
「そんなんだからこーんなにでかくなるんだ? うらやましいわー」
ふざけて言う永の様子は普段通りだった。
講演会が終わって研究所の散策中も特に変わったことはなく、あの変な違和感も蕾生の中では薄れていた。
後は飯を食って帰るだけだ、とほっとする。こんな所はさっさと出て、いつもの日常に戻りたい。そう強く願っていた。
食堂に入ると、さすがに内部は普通だった。椅子もテーブルも簡素ではあるが、窓も研究棟に比べればかなり大きく、陽の光が充分に差している。
休憩に使う施設ならばこれくらいは欲しい所だ。全体的に病院の食堂の様な雰囲気だったとしても。
人気ナンバーワンと謳うだけあって、おかずは豪華だった。ハンバーグにクリームコロッケと唐揚げがつけ合わされている。それにご飯と味噌汁。サラダは各々好きに盛り、おかわり自由だと言うことだった。
「野菜がおかわり自由でもなあ……」
「文句言わないの。それからサラダを野菜って呼ぶのやめなさい」
蕾生がサラダを盛らないのは当然としても、永もサラダバーに向かう気配がないまま二人は席に着いた。
「永。サ、ラ、ダ、よそわねえの?」
蕾生がお返しするように、指さしながらわざとらしく言うと、永は周りを気にしながら小声で短く言った。
「ライくん、急いで食べて」
「は?」
「頼んだよ」
蕾生の返答も聞かずに、永は急いで箸を動かした。口に詰め込めるだけつめて、急いで飲みこむ。
蕾生にも目配せして「早く食べろ」と促した。
「なんなんだ……」
首を捻りつつも、それきり永は何も言わず黙々と食べ進めるので、蕾生もそうするしかなかった。食堂には鉄製の洋食器がなく、怪力持ちである蕾生が苦手な割り箸しかない。普段であれば、そっと持つ練習をしているのでゆっくり食べる分には問題ない。
だが今は、永の指示に困惑もしつつ、焦ったため途中で割り箸を折ってしまった。
そのパキッと割れた音は、周りの楽しげな雰囲気に一見紛れたようではあった。だが、蕾生にはその音が頭にこびりついた。
元から早食いが得意な蕾生はすぐに永を追い越して、あっという間に食べ終わる。その間に割り箸が数本折れたけれど。
永はそんな蕾生の様子を珍しく気にしなかった。ただ食べることに集中していて、最後の一口を口に運ぶとそれを味噌汁で流し込んだ。
周りはまだ和気藹々と食事を楽しんでおり、サラダバーには人だかりが出来ていた。それを横目で見ながら永が言う。
「静かに立って、静かに運んで」
「……」
椅子を動かす時の音にすら気をつけて、永は立ち上がってトレイとともに歩き出す。永の後について蕾生も皿の乗ったトレイを返却口に出し、二人はそのまま入口に向かった。永は静かな足取りで、けれど迅速に歩き建物の外へ出た。
「どこに行くんだよ? 解散の前に点呼とるから食堂にいてくれって──」
「シー」
口の前で人差し指を掲げて蕾生の言葉をさえぎった永は、小声かつ早口で言う。
「ここからは時間との勝負」
「え?」
「こっち」
蕾生の疑問に答える暇もなく、永は研究所の歩道を早足で歩き出す。
周囲を警戒しつつ、通る人を見ると方向を変えて、誰にも見られないように歩き続けた。
碁盤の目のような道路が幸いしているのだろう、右に左に進路を変えながら二人は誰の目に留まることもなく進んでいった。
蕾生はついていくのが精一杯で方向感覚もよくわからなくなっていた。だが、永は進むべき方向を知っているかのように歩みに迷いがない。何かに導かれているようにも見えた。
急に白くて無機質な道路が終わる。先に続くのは舗装のしていない道路で、土が剥き出しだった。どう見ても部外者が入っていいような雰囲気ではない。
すぐに煉瓦作りの大きなプランターの列に突き当たる。中には成人男性ほどの背丈の木が植えてあった。
左右には建物が立っている。奥には土混じりの通路があるようだったが、植木が茂っていて目隠しをしていた。その上から辛うじて見えた通路の向こう。芝生の広場とその中央には温室のようなガラス張りの建物があった。
ずっと白いだけの、四角いだけの建物の間を縦横無尽に掻い潜ってきた。無機質なものにすっかり見慣れていたのに。先に見えたのは、どこか長閑な、暖かみのある風景だった。
そのあまりに違う景色に、蕾生は目を丸くして驚いた。
「ねえ、ライ。このプランター動かせる?」
「え?」
それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると相当な重量がありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
だが、蕾生はこれを軽々と持ち上げることができる。怪力を使えば簡単に。しかし、意識してそうすることなど、もう何年もやっていない。
「ちょっと動かしてよ」
「マジで言ってんの?」
蕾生にとっては忌々しい秘密だ。幼少の時からこの並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永はその現場に悉く居合わせ、その度に蕾生を叱り、隠して生活するための様々な練習をしてきた。
この力は隠しておく方が普通。蕾生もそれに疑問を持ったことはない。力があるからと言ってそれに頼るな、とは永がかつて蕾生に毎日のように言ってた言葉だ。
永ももちろん蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
それを。
今、ここで。
やれと言うのか。
「──お願いだ、ライ」
それまでに見たこともない真剣な表情だった。
見たことがない? いや、ある。
記憶にはないのに、この眼差しの永に出会ったことがある。
もうあの日常には戻れないかもしれない。
蕾生の胸の中、また黒い何かが蠢く。
ああ、これだったのか?
闇の中で俺を食い破ろうとするのは、この力だったのか?
そのケモノが叫ぶ。狩れ、と。
声にならない音が、聞こえたような気がした。