第6話 再び現れた、畏怖の源
舞台上ではプロジェクターの可動音だけが鳴っている。
スクリーンにはまだ何も映らない。観衆が興奮から冷めるのを待っているように静かだった。
実際、副所長の銀騎皓矢によって希望溢れる研究所の展望を聞かされた観客達は、その興奮のままに続く所長からの言葉を待っていた。
だが、その視線の先にはいまだ何も映らない。虚ろな暗い画面が、否応なしに彼らの思考を鎮めていく。
蕾生はいつまで経っても暗いままのスクリーンに、不安と焦燥を感じていた。
このままここに座っていても良いのだろうか。あれに何かが映ったら、もう戻れないのではないか。
心はそう焦るのに、体が動かない。視線だけを隣の永に送る。永もまた、スクリーンを見つめながら表情を強張らせて、まるで石にでもなったかのようにピクリともしなかった。
「……銀騎詮充郎でございます」
長い沈黙の後、ようやく白い画面が浮かび上がり、老齢の白衣を着た男性が映った。深い皺が刻まれた痩せ型の姿は、見ている者に畏敬の念を抱かせるには充分の鋭い眼差しをしている。
銀騎詮充郎。齢七十四にして、いまだ現役の生物学者。銀騎研究所創設者にして、現所長。
彼が四十三歳の時、ツチノコを新生物として登録してからその名が全世界に轟いた。
しかし一年も経った頃、いつまでも一般に公開されないツチノコは世間の注目から外れていく。同時にその発見および飼育者である銀騎詮充郎もまた、開けたカーテンをゆっくりと閉じるように限られた世界に再び引き籠った。
それからしばらく経って、蕾生の暮らす街に研究所が移転される。銀騎研究所がこの街の景色に馴染むようになるまでの十年間、銀騎詮充郎は表に出ることはなかった。
それが今日、ようやく街の住民達の目の前に現れた。
どう見ても孫の皓矢の態度とは真逆の、尊大で傲慢な口調で画面の向こうの老人は語りかける。
「本日は当研究所にお越しいただき、厚く御礼申し上げる。私は自らの探究心に従い、この世界の真理というものを追いかけ続けている」
その嗄れた声は、不思議にもよく耳に通る。ガサガサと響くのに、言葉のひとつひとつがはっきりと聞こえていた。
聞いた者の魂を抜くような、恐ろしい響き。まるで異次元にいるような老人は、くぼんだ眼孔を見開いて朗々と演説する。
「一般民衆の諸君、疑問に思ったことを放棄するべきではない。何故ならそこには必ず矛盾があるからだ。考えることを止めるな! 考え続けることだけが、我々人間に与えられたただひとつの武器なのだから!」
その思考が別次元に存在している老人は、一方的にまくしたてた。そして突然動画は終わる。
プロジェクターの光源すら消えて、会場は闇と静寂に包まれた。
観客達の浮かれた熱はとっくに冷えている。銀騎詮充郎はさらに畏怖を彼らに植え付けた。
「あ、し、失礼しました! 祖父は研究のことしか頭にありませんで、自分の研究理念を端的に申し上げたつもりなのですが、ご覧の通りの強面なので……」
不気味に静まり返る場に、ようやく体温の通った涼やかな声が響いた。銀騎皓矢の声である。
それに導かれるように、会場全体の照明が戻り柔らかく観客達を照らした。
緊張がとけたのか、「強面」の部分で何人かが笑った。次いで拍手が起こる。
壇上の銀騎皓矢はほっとした表情を浮かべ、ペコペコと頭を下げた。先程までは副所長としての威厳を感じるような振る舞いだったが、今の彼にはそれが見当たらなかった。
本当はこちらの方が素顔なのかもしれない。そう思わせるほど、目の前の銀騎皓矢は人当たりのよい好青年だった。
緩んだ空気が流れている。ガヤガヤと観客達の声が騒めいている。
蕾生はあの老人に与えられた不安と緊張がやっと解けていくのを感じた。肩で大きく息を吐く。強張っていた体も、今は問題なく動きそうだった。
「ではこれからいくつかのグループにわかれて、研究所内をご案内いたします。誘導する職員がお声がけするまでそのままお待ちください」
佐藤が舞台上でにこやかにそう言うと、銀騎皓矢はその場を去った。続けて佐藤も舞台袖に姿を消す。
残された観客達は騒めきの音量を上げて、リラックスして談笑していた。
「さっきのさ……」
不意に永が口を開いた。随分と久しぶりに声を聞いた気がする。それだけ講話に集中していたのかと蕾生は不思議な気持ちになった。
いや、集中していたというよりも、「集中させられた」と表現した方がしっくりくる。いつの間にか、銀騎皓矢と銀騎詮充郎の両極の雰囲気に呑まれていたようだ。
蕾生は自分の意識を自身に戻そうとして首を振ってから、永の方を向いた。
「銀騎博士のこと、どう思った?」
そう尋ねる永の表情はまだ強張っているように見える。蕾生はこれまでの永の様子を思い出していた。
ここへ入る時の緊張。それを押し込めて通常通りに振る舞った永。
銀騎皓矢に向けた視線。いつもの好奇心の奥に隠れた冷たいもの。
銀騎詮充郎から受けた恐怖。固まっていた体。今日の永は蕾生が知っているはずの雰囲気とは違っていた。
それでも、その違和感を直接問いただす勇気が持てない。
だから蕾生はごく平凡な返答をするしかなかった。
「どうって……なんかこえーし、空気読めないジジイだなってくらいしか」
蕾生の答えに永は吹き出して笑った。
「ジジイって……! めっちゃ偉い博士なのに……っ」
「でも圧が凄くて、あんまり会いたくないタイプのジジイだ」
「ハハ! そうだね、写真で見るくらいがちょうどいいよね」
そんな風に笑った永は、蕾生の知るいつもと変わらない雰囲気で。蕾生は安心しかけたが、すぐにまた違和感が顔を出す。
永はひとしきり笑った後、諦観めいた顔をしてボソリと呟いた。
「できるなら、二度と会いたくなかったなあ……」
それは、永が心からの嫌悪を見せた瞬間だった。その表情に、蕾生の背筋に悪寒がぶり返す。
銀騎詮充郎と永に接点はないはずだ。
あっても一方的に、オカルト趣味の永が知っているだけ。そのはずだった。
だがそうではない事を、永の口調が物語る。
会ったことがあるのかと、この場で聞けたら良かったのに。ゾクゾクした感覚に怯んだ蕾生は何も聞けなかった。
ここに。銀騎詮充郎に、何があるのだろう。
それは今日わかるのか? 不安で仕方ない。
もう帰りたい。いや、帰るべきだ。
そう言いたいのに、その言葉が蕾生の口から出てこない。
戸惑っているうちに、事態は蕾生が戻れない所へ進んで行く。
「周防様、唯様、いらっしゃいますか?」
職員らしい男性の声に、永も蕾生も思わず立ち上がった。
数歩先には何人かの参加者の集団が、二人を待ち構えている。
「呼ばれたから行こっか」
そう言う永の表情はいつもの通りだった。
「さ、楽しいオリエンテーリングの始まりだね」
そのくるくると変わる様子に、蕾生は混乱してくる。
十五年の付き合いの中で、こんなに不安定な永を見るのは初めてだ。
この研究所に何かがある。できれば気のせいであって欲しい。でもそれは無理だ。
蕾生の胸の奥、警告するような騒めきが湧き上がっていた。