第4話 白き門の向こうに黒い予感
白い建物、その中に渦巻く黒い雲。
その少女は長く黒い髪を翻して泣き崩れる。
しわがれた手が、彼女に差し伸べられた。
だめだ、その手をとってはいけない。
だけど俺にはそれを伝える術がもう、ない。
ああ、何故。お前ばかりが苦しまなければならない?
お前こそ、この呪いから解放されるべきだ。
「これで、さよなら……」
彼女は静かに目を閉じる。
その体は闇に囚われていく。
お前のその望みは、俺達に届きはしないのに。
お前は黙って咎を背負うのか……
◆ ◆ ◆
「……」
目覚ましのアラームはとっくに止まっていた。
何か夢を見たような気がする。けれど、どんな夢だったかは覚えていない。
まだ覚醒しない頭をゆっくりと動かして、蕾生は携帯電話の時刻を見る。
永と待ち合わせた時刻、まさにその時間だった。
「やべ……」
急いで起きて、窓を開ける。外では永がにこやかに手を振りながら立っていた。
制服ではなかった。蕾生のよく知るシャツと布のパンツを纏う、普段着の永だ。
「今、起きた」
「うん。見ればわかる」
永は寝癖のついた蕾生の姿を見上げて苦笑していた。
今日は連休に入った初日、永が勝手に二人分申し込んだ銀騎研究所の見学会に行く。
「まあ、ライくんが寝坊するのは折り込み済みだからさ」
イタズラっぽく永は笑う。蕾生が時間通りに起きられないのを見越して、早めの時間を指定するのは永のいつものことだ。それで蕾生は少しホッとして窓を閉めた後着替えるためにベッドから降りた。
永の時間管理は完璧だけれど、それに甘えてノロノロと支度はできない。蕾生は普段通りのTシャツとジーンズを履いて、ポケットに携帯電話だけをねじ込んで部屋を飛び出した。
空は快晴で、風も吹いていない。今日は暑くなりそうだとテレビの天気予報が言っていた。
さすがに休日なので母はおにぎりを用意してくれなかった。永を待たせている事へのお小言をもらいながら、蕾生は玄関を出る。永は挨拶などしていないのに何故わかるのかという疑問は無駄である。蕾生が出かけるという事は永も一緒だという事だし、蕾生が時間通りに行動するなど不可能だからだ。
合流した永に少しだけ急かされながら、連休でどこかへ出かける人達を追い越して歩く。
高校へ向かういつもの通りを過ぎて、森林公園を横目に歩き、公園から楽しげな声が聞こえなくなった頃、真新しい無機質な道路が顔を出す。
急に現れる白塗りの大きな鉄の門の向こうは、連休で浮かれる世間とは別の世界のような静けさがあった。
「さむっ」
突然、蕾生の背筋に悪寒が走った。
「いい天気なのに寒いの? 風邪?」
永が問うと、蕾生は首をかしげながら答えた。
「いや、やっぱり寒くはない」
「なにそれ」
微かに笑った永の目の奥、緊張しているような光を湛えているような気がして、蕾生は居心地が悪くなる。
視線を先に移せば、寒々しい道路と冷たい鉄の門。どうしても歓迎されているようには見えない。見学会なら門を開けても良さそうなものだが、高い鉄格子はピッタリと閉められている。
拒絶されているような空気をわざわざ掻い潜ってここへ入るのだと思うと、やはり背筋が寒くなった。
少しの沈黙。
隣で黙っている永を見ると、無意識なのだろうが、拳を握りしめて指が少し赤くなっていた。
「なあ、やっぱり今日……」
やめないか、と蕾生が言う前に、永は一歩踏み出し振り返ってにっこりと笑う。
「じゃあ、行こう。受付あっちみたい」
そうして門の横、守衛のいる小さな詰所を指さした永の表情はいつも通りだった。
「あ、でも具合悪くなったらすぐ言いなよ?」
「ああ、わかった……」
言葉尻もいつもの永のものだったが居心地の悪さは拭えない。蕾生は気乗りしないまま永の後をついていった。
永は守衛に参加証が記された携帯電話の画面を見せ、身分証明カードを提示する。すると何かの機械でそれを承諾も得ずに撮影された。子どもだから舐められたのかと、蕾生は嫌な気分になった。
蕾生もまた身分証明書の提示を要求されたが、急いでいたので携帯電話しか持ってきていない。しかし、以前に永から身分証明書が提示できるアプリを入れさせられていたので、事なきを得た。
何の感情も読めない守衛から「どうぞ」とだけ言われて、入館証と書かれた首から提げるタイプのネームカードを渡される。
すると大きな鉄の門は開かずに、詰所の横の通用口が開いた。視線で促され、二人はそこを通る。
「…………」
蕾生は目の前の光景に言葉を失った。
碁盤の目のように形成された歩道、それに沿って理路整然と建てられている研究棟の数々。
二人がそれまでに街で見てきた企業ビルや国の研修施設などとはまるで違う。ここには一切の無駄も遊びもなかった。
通常ならメインストリートには庭木や芝生を植えていそうなものだが、ここはすべてコンクリートの道路と石畳の歩道だけ。建物も皆一様に白く四角い。白い線と白い箱を並べた模型のような佇まいだった。
異世界に迷い込んだような感覚に、蕾生はもう一度身震いする。
永の方を見ると、携帯電話の画面とこの景色を見比べていた。地図を見ているのだろう、その仕草は既にいつも通りスマートに行っており、やはり自分の感じている違和感を言うことは憚られた。
きっとこの日を楽しみにしていたはずの永に、気味が悪いから帰ろうなどということは言えなかった。
「あっちのちょっと大きい建物で、最初の説明と講演会があるって」
数メートル先の少しだけ背の高い白い建物を指して歩みを進める永に、蕾生は黙ってついていった。
総合棟、と書かれた看板がある建物の前に着くと、入口に何人かの男女が入っていく。ようやく人の気配を少し感じて、蕾生は安心した。永とともに中に入るとエントランスに小さく粗末な机が置いてあり、白衣をまとった女性が二人を見て話しかけてきた。
「こんにちは、見学の方ですね?」
小さな顔に大きな丸眼鏡で長い髪を後ろでひとつにまとめた、いかにも研究者風のその女性は、永と蕾生の首元のネームカードと手元のバインダーを見比べて言った。
「周防永さんと唯蕾生さんですね。良かったわ、もう時間なのになかなかいらっしゃらないから心配しました」
「あ、スミマセン。ちょっと寝坊しちゃって。彼が」
永はにこやかに答えながら、肘で蕾生の胸をつつく。
「……っス」
特に悪びれずに蕾生は会釈だけする。
職員であろうその女性は軽く微笑んで二人にパンフレットを渡した。
「もう皆さんお揃いですから始めますよ。空いてる席に座ってね」
「ハーイ」
永の良い子のお返事に笑顔を絶やさない女性の口元には真っ赤な口紅がひかれており、そこだけが紅く光る月のように際立って見えた。
映画館にあるような重い扉を開くと、小さなコンサートホールが目の前に現れた。ちらほらと人が座っており、微かに話し声も聞こえる。二人は真ん中より少し後ろの列の通路側の席についた。座った途端、永が蕾生に話しかける。
「ネネネ、さっきの女の人いくつぐらいかな?」
「知らねえけど、二十七、八くらいだろ」
女性の顔などもう覚えていない。白い服、黒い髪、赤い口。ぼんやりとその三色が脳裏に浮かぶだけ。
どうでも良かったので、蕾生はパンフレットに目を落としながら答えた。
「だよねえ、それくらいに見える、ネ」
永にしても興味などないだろうに、何故そんな話題を振るのかと蕾生は少し苛ついた。しかし、急に照明が落とされたのでそんな感情はすぐに忘れてしまう。
暗がりの客席。
舞台上の灯りが人々の意識をそこに向けさせる。
大きなプロジェクター画面が奥にかけられた舞台。その袖から先ほどエントランスで会った女性研究員が歩いてくる。
手にはマイク。丸眼鏡の奥でどこを見ているのだろう。照明が反射してよくわからない。
真っ赤に引いたルージュ。彼女が笑みを浮かべると、その口元に紅い三日月が現れたようだった。