第2話 共依存は絆と呼べるか
何故、こんなことに。
蕾生はマウンドの上に立って首を捻る。
校庭の隅では、永が珍しくオロオロと目を泳がせていた。
やはりこの図体は碌な事がない。蕾生はマウンドの上で棒立ちになって息を吐く。
体育教師の怒号が飛んだ。早く投げろ、とうるさい。
そもそも高一の体育授業で何故硬式野球など。蕾生には理解ができなかった。
まだクラスメイト達はよそよそしい。入学して一月ほどなのでそれは当たり前。
では、皆で楽しめる野球をやろうと言い出す教師は本当にありがた迷惑。
蕾生のように、内に籠るタイプには逆に苦痛である。
しかし生徒の大半は喜んだ。それに反して、背が高く鋭い目つき……と思われている蕾生が溜息を吐いたのが悪目立ちしてしまった。
お前はでかいからいい球を投げるんじゃないか。ピッチャーをやってみろ。
そんな教師の申し出に、意外にもクラスメイト達が乗ってしまった。そこまで盛り上がってしまうと永にもどうにもできなかった。
蕾生はうっかりすると潰してしまいそうな、古びた硬球を握って途方に暮れる。
これを自分が投げたら、おそらく誰かが血を見る事になる。
バッターに当たれば片足が飛ぶだろうし、軽装のキャッチャーに当たればその腕が吹っ飛ぶかもしれない。
そんな想像をして蕾生は思わず身震いした。
「……ライくん、そぉっと、そぉっとね!」
口パクのような動きで永が蕾生に言う。
音声は出ていないが、蕾生にはもちろん永が何を言ったのかはわかっている。
コクリと頷いて、緩く振りかぶった。
まるで風船を子どもに向かって投げるような、そんなイメージで蕾生は球を放った。
それでも、周りの目からすればそれは超のつく豪速球だった。
そんな球が、バッターによって打ち返されたのは本当に奇跡。
しかしそれは鋭いピッチャーライナーになって蕾生の目の前に返ってきた。
「ライくんッ!」
永の悲鳴のような声だけが、蕾生の耳に残った。咄嗟の出来事で、考える余裕もなかった。
蕾生はグローブをした左手ではなく、右に飛んできた球をそのまま右手で獲ったのである。
スピードの乗った硬球を、素手で掴む。
そんな事は人間の成せる技ではない。
「球、離してッ!」
永の声だけがクリアに聞こえた。
「蹲って!」
その声に従って、蕾生は球を手離して膝をつく。
危険なピッチャーライナーだったために、生徒の大半が目を伏せてしまったのが幸いだった。
周りの者が蕾生の様子を確かめようとした時には、蕾生は球を取り落として蹲っているように見えていた。
「ライくーん! 大丈夫ぅうー?」
その場の誰よりも先に動いたのは永だった。
大急ぎで蕾生に駆け寄る永は、実に演技くさく慌てている。
「ぶつけなかった? どこか痛い? 先生! 唯くんを保健室に連れていきます!」
矢継ぎ早にそう言って、永は呆気に取られている体育教師を尻目に蕾生の手を引いて校舎へ向かう。
通り過ぎるクラスメイト達は、少し不安そうにザワザワと騒いでいた。
遠ざかる校庭から、教師が他の生徒達を大声で宥めているのが聞こえていた。
「あー、ビビったぁ……」
校庭を離れ、中庭までやって来た所で永は立ち止まり、大袈裟に肩で息を吐く。
「サンキュー、永」
蕾生はどこも何ともない右手をヒラヒラ振って軽く言った。
言葉通りの感謝はあまり感じられない態度である。
「もう、ライくんが目立つことするから」
「別に何もしてないだろ、嫌だなって溜息吐いただけじゃねえか」
少し憤慨しながら蕾生が口答えすると、永はムッと顔をしかめて蕾生を見上げた。
「その顔と! そのおっきな体で! 溜息なんか吐いたら反抗的だって思われるでしょうが!」
「ええー……」
蕾生は理不尽さを感じて眉をひそめる。永の勢いは止まらなかった。
「頼むよ、ほんとに! ライくんの力で野球なんかやったら校舎に穴が空くからねっ!」
永の言葉は比喩でもなんでもない。
蕾生が全力で球を投げたら校舎のコンクリートを貫くか、その前に球が衝撃で粉々になるかだろう。
「……わかったよ。オレは息を潜めて生きてりゃいいんだろ」
不貞腐れた蕾生がそう言うと、永はふっと表情を柔らかくして謝った。
「ううん、ライくんは悪くないよ。ゴメン」
そういう態度に出られると蕾生も罰が悪い。
結局、誰のせいでもない。ただ、蕾生の持つ力が「不便」だと言うだけの事だ。
蕾生のもうひとつの不便な体質。それが、この常軌を逸した怪力だ。
物心ついた時には、蕾生は家中の家具を壊していた。だが、そこに悪意は全くない。
ドアだってただ開けようとしただけだし、タンスもまたしかり。強大な力を制御できないせいだった。
それでも幼少の頃はまだいい。辛うじて父親でも止められる程度であったのだから。
じわじわと強くなっていく自分の力に、自我が芽生えた蕾生が恐れを覚えた頃、小さな事件は起きた。
その諍いの原因はよく覚えていない。子ども同士の些細なものだったのだろう。
だがその結果、蕾生は相手を傷つけた。骨が折れる重傷だった。
その日から、蕾生は家から出なくなった。
家の中の、さらに奥。クローゼットの中に入って毎日震えていた。
──納得がいかない。俺のせいじゃない。そんなつもりはなかった。
怒りと困惑と情けなさ。そんな感情がぐるぐると頭の中で回り続ける。
──嫌だ。なんで俺は違うんだ。どうして俺が悪いんだ。
胸の奥で、何か黒いものが蕾生に向かってくる。そんな恐怖に怯えていた。
「ねえ」
その声は無遠慮に突然蕾生の中に入って来た。
「君は悪くないよ」
──本当に?
「これからは僕が考える」
蕾生の胸の中、暗い空が晴れた気がした。
「君の力は僕が使うから、僕が考えて君が動けばいい」
──いいのか?
「だから、出ておいでよ。僕には君が──」
必要なんだ、と笑う姿に。
心の底から安心した。
永が蕾生の閉じかけた心を再び開いた。
それは、蕾生にとっては光。進む先を教えてくれる灯火のようだった。
永に出会った蕾生は、永とともに力の制御を覚えていく。
寝すぎる癖も、永の声が緩和してくれた。
蕾生は、永がいなければ「普通の人間」として生活していくことが出来ない。
そう思い込んで永に依存している。その不安を永に正直に言った事がある。すると永は笑って答えた。
──お互い様だよ。
そう言う永の顔が、少し悲しそうだったのを蕾生は忘れることが出来ない。
「また少し、強くなったんじゃない?」
野球の球を素手で獲ったのに、皮すら剥けていない蕾生の右手。
そう聞く永は、いつかの悲しそうな顔をしていた。
「そう……かもな」
「何か、不安に思うことは?」
胸の奥の黒い闇。それが大きくなりかけるタイミングを知っているかのように尋ねる永のいつもの言葉。
蕾生は永の気遣いを感じる度に、その黒い闇が一回り小さく縮むのを感じる。
「別に、ない」
だから、いつもこう答えるのは嘘じゃない。
「永がいれば、俺は大丈夫だ」
「うん。それは僕もだよ」
二人でいれば大丈夫だ。
そうやって蕾生と永は絆を長い間結んできた。
ただ、蕾生と永とでは、その「長い間」の尺度が異なるけれど。