第1話 夢見るケモノは呪われている
胸の奥。燻るように蠢く、闇
焦げ臭い焔を纏って
俺の中で、俺を狙う闇がある
昏い瞳が、俺を見る
その時、俺は俺でなくなるのだろう
そうなる前に狩れ
誰かが叫ぶ、こびりついた記憶の中で
鵺を、狩れ
◆ ◆ ◆
見たことすら覚えていない夢がある。
唯蕾生。この春高校生になった彼には不便な体質がいくつかあった。
まずひとつは、睡眠障害。
寝つきがよく、寝起きが悪い。
目覚まし時計をいくつ仕掛けても、携帯電話を幾度設定しても、彼を起こせる利器は存在しない。
こんなに起きられないのに、蕾生は自分が眠った実感を持てない。
ずっと何かの「黒い夢」を見ている。それが何かは覚えていない。
黒い、黒い何かが蕾生の中で蠢いて、今にも蕾生を食い破りそうに身動いでいる。
そんな夢を見た気がするのだが、目覚めた時にはもう覚えていない。頭の中は黒い靄がかかったようだった。
「ラーイ、蕾生くーん」
蕾生を目覚めさせるモノは存在しないが、ヒトは存在する。
それがこの少年の声、蕾生の幼馴染、周防永である。
同い年の永に出会ったのは就学前のごく幼い頃。
当時蕾生はまた別の不便な体質のせいで塞ぎ込んでいた。
そこから引っ張り出してくれたのが永であった。
危ぶまれていた「朝、ちゃんと起きて学校に行く」ことも、永と出会ったから可能になったと言っても過言ではない。
「ライくーん、起きたぁ?」
この声。
永の声を蕾生はどこでも聞き取れる。それで目を覚ますことが出来るのだ。
今も、永の声は外から聞こえている。
蕾生は二階の自室で窓を開けずに寝ているが、永はその自宅の外から普通の音量で声をかけている。
それでも蕾生は永の声を聞き取れる。そこに疑問を持つべきなのかもしれないが、蕾生は不思議に思ったことはない。
永の声、というよりも永の存在を常に感じることは、蕾生にとってはごく自然なことだった。
「ライくんてばぁ……っ!」
三度目の永の声かけは、少し焦りが混じっていた。
その違いを感じ取った蕾生は、そこでようやくパチリと目を開け、ガバッとベッドから跳ね起きる。
頭で考えるよりも早く、その手は窓を開けていた。
見下ろした先には、すでに制服を着込んだ小柄の少年が立っている。
「あ、やっと起きた。ほらほら、支度しておいでよ」
永は少し笑って揶揄うような口調でそう言った。隣にいる人間に語るように普通の音量で。
数メートル上にいるのに、それでも蕾生には永が何を言っているのかわかる。
「ああ、すぐ行く」
蕾生も蕾生で、遅刻しそうなほど寝坊しておいて、迎えに来てくれた幼馴染に声を張るような性格ではなかった。
いつも通りボソリと呟くだけだったが、永の方もそれを聞き取って笑顔で手を振る。
「焦らずに、急いでね」
なかなかの無理難題をにこやかに言ってのける幼馴染の姿に不満を抱きながら、蕾生は窓を閉めた。
立ち上がってシャツを脱ぐ。
テキトーに引っ掛けてあったワイシャツを着て、ズボンを穿く。
ネクタイは丸めてズボンのポケットに入っているのでそのままに。
最後に椅子の背にかけてあるブレザーを羽織って身支度は終了だ。
部屋には一応姿見があるが、長身の蕾生の顔はここには映らない。
どうせいつもの、半分寝ているような目つきで、真っ黒でやぼったい短髪に寝癖がついているだけだろう。
蕾生はおそらくそこに発生しているであろう寝癖の場所を撫でつける。
それからカバンの中身を確認せずに引っ掴んで、部屋を後にした。
大股で歩くから蕾生が階段を降りる音は家中に響く。
台所の方でテレビの音がしていた。父親が出勤前に見ているのだろう。
遅刻ギリギリである、加えてそこそこの反抗期年齢である蕾生はそこに立ち寄ったりしない。
そのまま玄関を目指して、「行ってきます」も言わずに出るつもりだった。
だがその襟を掴んで蕾生を止める者がいた。恐る恐る振り向くと母親が鬼のように凄みながら笑っている。
しかしながらお説教をされる時間もない。朝食代わりの特大おにぎりを持たされて玄関を出された。
「……はよ」
頭はぼさぼさ、ぬぼっと眠そうな顔。右手には閉まっていないカバン、左手におにぎり。
外で待っていた永にとっては毎朝の風景である。いつもの蕾生を見上げて永は笑った。
「相変わらず大きいねえ、おにぎり」
「別に、フツー……」
大きいのはおにぎりだけではないが、永はわざとそう強調した。
身長が百八十センチもある上背を一番気にしているのは蕾生自身だ。
無口で、鋭い目つき、真っ黒で無造作な髪。それらが高い背丈にくっついている蕾生の風貌は、本人にその気がなくても敵を作りやすい。
比べて永の方は平均よりも少し低い身長と、常に清潔に気を使っているサラサラで明るい茶色の髪の毛。物腰も柔らかく、人当たりもいい。
そんな二人は絵に描いたような凸凹コンビだ。
お互いがお互いの足りないところを補う、「地元じゃ負け知らず」と自称するほどイタくはないけれど、そんな雰囲気を周囲に与えている。
二人が通う高校は、徒歩でほど近い所にある。
蕾生は歩きながら黙々ともぐもぐとおにぎりを咀嚼していた。
横を歩く永にも、別に今蕾生としたい話題もないから黙って歩く。
それでも全く気まずいことがないのが、幼馴染の空気感であった。
「あ、ライくん。そろそろネクタイちゃんとしようか」
眼前に校門が見えたところで、永が蕾生を見上げてそう言った。
言われた蕾生はちょうど特大おにぎりを食べ終えたところ。
「あー、めんど……」
「つまんないことで怒られたくないでしょ? ただでさえライくんは目立つんだからさ」
「わかってる……」
今日は水曜日。校門には風紀指導の教師が立っていた。早朝の服装検査である。
蕾生は永に言われて渋々ポケットからネクタイを取り出した。
入学して一月しか経っていないのに、すでに何年も使ったかのようにくたびれたネクタイを蕾生は手早く結ぶ。
しかし、あまり機敏な動きをするような性格ではないため、早く結べるだけで、ネクタイは結果歪むのだが。
校門に差し掛かる頃には、永が前方を堂々と歩き、蕾生は少し猫背になって後ろをついていく陣形に変わっている。
そして永は大袈裟なほどハキハキと明るく教師に挨拶をした。
「おはようございまーす」
そうして永が教師に笑いかけて視線を奪う隙に、蕾生はだらしない制服のまま足早に校門を通る。
今週もまんまとクリアした。永は勝ち誇ったような笑みを浮かべて悠々と蕾生の後を追った。
「アハハ、今日も余裕だったね」
「……まあな」
一連の動作は打ち合わせなどをした事がない。最初から二人は呼吸を合わせてやってのけていた。
誰かに自慢できるような事ではないが、二人の間には満足感が広がっている。
「ていうか、ライくんがもっとちゃんとしてくれれば必要ないんだけどぉ?」
「無理。起きるだけでしんどい」
登校した後も、蕾生はまだ眠そうだった。
「そっか。そうだね……」
永はもちろん蕾生の「不便な体質」の全てを知っている。
それから蕾生の中に蠢く「黒い闇」の正体も。
蕾生はどこまで気づいているだろう。
今回はいつ教えるのがいいだろう。
蕾生の中の闇。
永が抱える闇。
今は静かに蠢くだけ。
不気味なほど、静かに。
「あー……ねみぃ……」
不機嫌に眠気と闘う蕾生の背。
ひとまず、何も起こらない日常を送るべく、永はその横に並んだ。