7
神代家に伝わる秘術、”詫証文の強制誓約”を習得するための修行が始まった。
「―――纏え。黒身魂」
蓬は千獄斎へと姿を変える。
「まずは自分の身体の中にある妖気を感じるところからだね。目を瞑って、妖気を感じてみて」
「妖気を、感じる……」
蓬は言われるがままに目を瞑る。視界が真っ黒に染まり、世界が暗黒に包まれる。
鳥のさえずりが妙に冴えて聞こえる。黒い視界の中だと、聴覚や触覚など、視覚以外の感覚が鋭くなっていくのを感じる。
「自分の身体の中に冷たい感覚を探して」
累の声が隣から聞こえてくる。鈴の音のような声が蓬の身体に浸み込むように溶けていく。その感覚が蓬はなんだか心地よかった。
しかしいつまでもこうして浸ってはいられない。蓬は感覚を研ぎ澄まして、身体の奥へと探りを入れていく。
自分の中にある妖気を捉える。累は簡単そうに言うが、そう簡単なものではない。今まで生きてきた十数年間にはなかった感覚なのだ、新しい感覚を掴むということ自体初めてのことだ。
―――そもそも、妖気ってなんだ?
蓬は心の中で首を捻る。目を瞑り、感覚の全てを身体の奥に注いでも、ピンと来るものはない。
「うーん……」
自然と考え込む声が漏れる。
何か手掛かりはないものかと、今までのことを振り返ってみると、昨日の夜、鎌鼬を前にしたときのことを思い出す。
理性を無くし、目の前で咆哮する鎌鼬を見て、蓬は背筋が凍るような感覚がしたのを今でもよく覚えている。これが俗に言う妖気なのかと、そう思う薄ら寒さだった。
「そうか……あれが妖気だったのか……」
あの感覚が自分の中にも存在しているのだろうかと、蓬は身体の奥へと深く入り込んでいく。
奥へ奥へ、奥へ奥へと入り込んでいくうちに、自分の中に冷たいモヤモヤとしたものが感覚として捉えられた。実際に冷たいわけではない。この感覚に触れたからと言って蓬自身の体温が下がっているわけではないだろう。夜に物音がしたときのような、夜道に一人で歩くときのような、そんな冷たさを感じる。
「掴めたみたいだね、蓬」
「うん……な、なんとか」
掴んだ感覚を離してなるものかと、必死に掴み続けようとする蓬は累の声掛けに答えるのがやっとの状態だ。
「それじゃあ、目を開けてみよっか」
「ええ……この状態で……?」
掴む感覚を必死に維持している蓬からすると、悪魔のような提案だが、累は楽しそうだ。
「ほら、はやくはやく」
「……う、うん。あ、開けたけど……」
目を開けた蓬は全身に力が入り、ぎこちない動きで立ち上がる。蓬の様子を累は満足げに見ている。
「よし、そしたら午前中はその状態をずっと保っててね。保てなかったら、ハリセンでお尻叩くから」
「ええぇ!?噓でしょ!?あ、妖気が……」
蓬は驚いた拍子に妖気の感覚を離してしまった。
「はいハリセンね、お尻出して、パンツ脱いでね」
「う、うん?え、じか……?」
困惑する蓬に、パァンと、大きな音がご近所に響いた。
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「妖気を掴んだ状態にも大分慣れてきたんじゃない?」
「う、うん。まあ、なんとかね」
妖気の感覚を掴む練習が始まってから数時間、蓬たち三人は昼食を取る最中だった。
ハリセンで叩かれること数十回、ヒリヒリと継続する痛みに我慢しながら、蓬は昼食を口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼しているときも、蓬は妖気の感覚を忘れない。妖気の感覚にも大分慣れてきたところだった。
「この調子だったら、午後からは強制誓約の修行に入れるかもね」
「ほ、ホント!?良かったー」
蓬と累の二人が談笑しながら、食事をする。鎌鼬は蓬の横で細々と食べている。
「どうしたの、ポチ?美味しくない?」
「いや、美味しい。少し考え事をしていてな……あとポチって言うな」
「考え事って?」
「……いや、大したことじゃない。気にしないでくれ」
ふーん、と一言だけ返すと、蓬は再び食事に戻る。
言わないという選択をしたのであれば、それを無理に聞き出すほどのものでもないだろう。蓬はそう考え、代わりに違う内容を口に出す。
「ねえ、レンって恵ちゃんとはどれくらいの付き合いなの?」
蓬の質問にレンの箸が止まる。
レンはしばらく待つと、そうだな、と語り始めた。
ずっと仏頂面だったレンがその時は、少しだけ笑ったような気がした。
「あいつとあったのは二、三か月前くらいか。俺が仲間とはぐれて行き倒れているところを恵に拾われた、というのは蓬には話したか?まあ、それからはあいつの家で厄介になっていたよ」
恵とも日々の暮らしを語るレンの姿は、聞いているだけで楽しかったことが伝わってくる。
ポチがいなくなったと、悲しむ恵の姿を知っている蓬からすれば、何としても再会させてやりたいと、そう強く思った。
「恵ちゃんとの思い出は分かったけど、流石に自我を失うまで我慢し続けたのはやりすぎだと思うよ?」
「ああ、そうだな……人間と接するなど、随分と久々でな。自分でも想像以上に未練がましくなっていたんだな。本当はもっと早くに、恵の元から離れるべきだったと分かってはいたんだがな……」
累の言葉にレンは自嘲するように笑う、人間と妖怪が一緒にいるなど有り得ないと言いたげな表情で。
「そんなことないよ」
だからこそ、そんなレンの考えを蓬は否定したかった。
「一緒に居たいと思う人と、一緒に居ることは何もおかしくないよ。レンは何も間違ってない、何も間違っていないことを証明するために、僕がいるんだ」
呆気に取られるレンを尻目に、蓬はごちそうさまでしたと、手を合わせ、立ち上がる。
「修行を再開しよう累。午後からは、いよいよ術の実践だよね」
やる気を見せる蓬に、累は嬉しそうに微笑んだ。
「うん!気合い入れて頑張ろうか。午後はポチにも手伝ってもらうからね。ほら立った立った」
累に促されたポチは、急いでご飯を平らげると、仕方がないという風に少し笑いながら立ち上がり、中庭へと向かっていった。
「だから、ポチって言うな」
その声は、少しだけ弾んでいるような気がした。
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「それじゃあ、さっそく始めるよ。私と同じように詠唱してね」
蓬の足元に巻物が広げられ、レンと向かい合っている。詫証文の強制誓約には、ある程度の詠唱が必要らしい。最も、そこまで長い詠唱でもないから大丈夫と、累は言っていたが蓬からすれば不安ではある。
「―――我、鎌鼬レンに命ず」
「―――わ、我、鎌鼬レンに命ず」
強制誓約の詠唱が始まった。身体の奥に感じていた妖気が薄い膜のように全身へと広がっていくのを感じる。蓬はその膜を途切れさせないように必死にコントロールする。
「―――”汝、妖気の容量、半分を千獄斎に受け渡す”。これ強制誓約とし、神代千獄斎の名の下に課す」
「―――”な、汝……!妖気の容量、半分を千獄斎に受け渡す”……!これを、き、強制誓約とし……!」
膜のように広がっていく妖気が、蓬の外へと滲み出てくる。外へ放出されていく妖気が輪のような紋章を形作っていく。
この紋章が完全に完成した時、この術は完成するのだろう。説明もされていないことだが、なぜか今の蓬にはそれが理解できた。
「ぐぅ……!!」
言葉を紡ぐごとに体内の妖気が波打ち、暴れだす。妖気が形作る紋章が波打つ妖気が破壊しようとするのを、蓬は必死に抑えようとする。
外の気温は高くもないのに、真夏に運動でもしたかのように汗が流れ出る。
「―――か、神代千獄斎の名の下にッ……!」
あと少し、あと少しで完成するその間際、形作られていた紋章がバチッと千切れ、紋章が蜃気楼のように消えていく。
失敗したのかと、息を切らせながら考える蓬は気づけば、膝を地面についていた。
「え……?」
膝だけに収まらず、両手も地面に着き、蹲るようになっている。
「はあ……はあ……」
息が苦しい、心臓が痛い。掻き毟るように胸を抑える蓬に、レンが慌てて駆け寄る。
「おい!大丈夫か!?何があった!?」
「術に失敗した影響だね」
心配するレンに累は落ち着いた声で話しかける。
蓬が苦悶していても、累はそこまで心配した様子はない。精々眉を寄せるくらいだろうか、それがレンには解せなかった。
「なぜそこまで落ち着いていられる!?明らかに異常事態だろう!」
「まあ、こうなるかなとは思ってたからね。大丈夫、命に別状はないよ」
レンは累に目線をやり、無言で説明を求める。累も仕方ないと、息を吐き、説明を始める。
「”詫証文の強制誓約”は相当な妖気のコントロールが必要なの。蓬の身体はまだ妖気に慣れてないし、その状態で失敗すれば、術の反動は大きくなる。今の蓬は全身の血管が破裂したような痛みにさらされてるんじゃないかな?」
累は蹲る蓬のもとに近づき、しゃがみ込む。
「もうしばらくしたら痛みは治まると思うけど、修行はどうする?今日はもう辞める?」
累の質問に蓬はかすれた声で返した。
「や、やる……これ以上、レンに誰かを襲わせるわけには……」
「そっか、じゃあ、少し休憩したらまたやろっか」
呻き声をあげながら頷く蓬に、累はクスッと微笑む。
「まだやるのか?生半可な痛がり方じゃなかったぞ」
「決めたのは蓬だよ。蓬がやめたいって言うまでやめる気はないよ」
それから数十分後、痛みから解放された蓬は再び足元に巻物を広げて、レンと向かい合っていた。
「おい……本気でやるつもりなのか……?」
「うん。累お願い」
レンは心配そうに蓬を見ているが、蓬の意思は変わらない。
蓬の希望通りに累は詠唱を開始する。
「―――我、鎌鼬レンに命ず」
累の詠唱が始まった。遅れて蓬も言葉を紡ぎ始める。
「―――我、鎌鼬レンに命ず」
体内の妖気が一気に活性化する。ドクドクとうねりを上げる妖気に蓬は苦しそうに顔を歪めた。
「―――”汝、妖気の容量、半分を千獄斎に受け渡す”。これ強制誓約とし、神代千獄斎の名の下に課す」
「―――な、”汝、妖気の容量、はん、ぶんを、千獄斎に受け渡す”……!これ強制誓約とし、神代千獄斎の名の下に……!」
暴れ乱れ、激しい津波のように波打つ妖気に、コントロールするだけで脳みそが煮えくり返るような気分だった。
「か、カ、カァ……!」
あと数文字、数文字唱えるだけで術は完成する。それでも、そのあと数文字が驚くほど遠い。しかし言わなければ終わらないのだ、蓬は残りの詠唱を強引に言い切ろうと口を開いた瞬間、ブチッと何かが千切れる感覚がする。さっきのよりも強い、激しい痛みが蓬を襲う。
「―――ア」
痛みに脳が支配され、一瞬にして視界が真っ白に染まる。気づけば蓬は地面に伏せ、気を失っていた。
慌ててレンが駆け寄るが、蓬は白目を向いて、涎がダラダラと垂れている。
「……駄目だ、完全に意を失ってるな。これじゃ修行にならない、訓練は中止だ。いいな?」
「……そうするしかないみたいだね。蓬を部屋まで運んでもらっていい?」
家の中に入っていく累の姿を見ながら、レンは地面に延びている蓬を見る。その表情はどこか思いつめたようだった。
「すまない、蓬。俺が恵と一緒に居たいなどと考えたばかりに……」
レンは蓬を抱えると、累の後に続き、家の中に入っていった。
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夢を見ていた。
どこかで少年が泣いていた。
何が起きたかも分からず、何で起きたかも分からず。
人ではない、異形の姿をした友達を失って。
心に深い傷を負って、ただただ泣いていた。
まだ幼い、小学生の頃の記憶だった。
チリーンチリーン
風鈴の音が聞こえる。
冷たくなってきた風に吹かれて、肌寒さを感じたところで蓬は目を覚ました。
なにか、変な夢を見ていた気がする。まだ夢から醒めない蓬は、ぼやけた視界に目を擦る。
なんだか、妙に柔らかい感覚の後頭部に違和感を覚えながらも目を開けると、累の顔が目の前にあった。
累は蓬が起きたことに気づかず、外を見つめながら物思いに耽っている。
―――息が止まるかと思った。
蓬の視線に気づいたのか、累は視線を下にやると二人の瞳が交じり合う。
心臓がギュウっと締め付けられる感覚に蓬が戸惑っていると、蓬が起きたことに気づいた累が口を開く。
「あ、やっと起きた。随分、気持ちよさそうに寝ていたね。ここのところの疲労が一気に来たのかな?」
そう言って累は蓬の髪をさわさわと触れる。心地よい感覚に目を細めていると、ふと、なぜ自分は今ここで累にこんなことをされているのだろうと蓬は考える。
神代家の秘術の習得に励んでいたことは覚えている。その練習に失敗して、気を失ったのだろうことも想像がつく。
問題はそこではない。問題は今の自分の状況がどうなっているかだ。
下は柔らかくて、上は累の顔で、今頭を撫でられている状態ってなーんだ?
「ひ、ひ、ひ、ひざまくらぁぁー!?」
蓬は慌てて起き上がる。急いで累の方へ振り返ると、累は驚いたように目を丸くしている。累の太ももに蓬の視線が行く。
あの太ももに今の今まで、自分の太ももが―――。ごくりと蓬は唾を飲み込んだ。
「ど、どうして、なにがあっ―――」
累に詰め寄り、事情を聴取しようとした蓬は、妙に辺りが薄暗いことに気づく。累から視線を逸らし、外を見ると、既に西日で日が落ちそうになっている。
「も、もう日が落ちそうに……!累、レンはどこに……!?」
一体何時間寝ていたのだろうか。蓬は自分の行いを呪いながらも、辺りを見渡してレンの姿を探す。しかし、どこにもレンの姿は見えなかった。
早く自分が強制誓約の秘術を課さなければ、レンは今夜また人を襲う可能性が高い。蓬の中の焦りは時間が経つほどに増大していく。
「レンなら、ここを去ったよ」
「え……?」
累から出た言葉に、一瞬理解が遅れる。
「な、なんで……?」
信じられない、意味が分からない。声が震える蓬に、累はそっと手紙を差し出した。手紙には”蓬へ”とそう書かれていた。
蓬は手紙をゆっくりと開ける。
『蓬へ
これを読んでいるとき、俺はもうお前の前から姿を消しているだろう。
まずは言わせてくれ。ありがとう、そしてすまない。
これ以上、俺のために苦しむ姿は見たくない。なにしろ神代家の秘術だ。お前が気を失っている間にお付きの白い女に聞いたが、歴代の千獄斎の中でも、一日で習得したものはいないらしい。習得は厳しいだろう。
俺はどこか、人間のいないところにでも行こうと思う。もとより、俺は妖怪。人間と一緒にいたこの数か月が異常だったんだ。もう俺のことは気にしないでくれ、絶対に人間を襲わないようにする。
一日だけだったが、お前と会えて楽しかった。これからも達者でな。
レン』
「ふざけんな……!」
蓬は手紙を読み終わると、その手紙を握りつぶす。握りつぶした手紙をゴミ箱へと捻じ込むと、蓬は玄関へと歩き出した。
「どこに行くの?」
背後から累の声がする。
「レンのところ。このまま放置なんてできない」
「どうしてそこまでするの?レンはもう人のいるところには近づかない、もう誰も襲われることもない。なら一件落着じゃない?術だって完成してない、次上手くいくとも思えない。暴走した鎌鼬の前でまた失神でもしたら、今度こそ死ぬよ。それでも行くの?」
累の言うことはごもっともだ、全くの正論だ、何も間違っていない。そんなことは蓬にだって分かる。それでも、蓬は首を横に振った。
「僕さ、小学生の頃、仲の良かった妖怪がいたんだ」
思いだすのは、昔の記憶。思い出すのも苦しい、忌々しい記憶。
「その子とは、まあ、なんていうか、離れ離れになっちゃって、僕、凄い悲しくて、その日一日中泣いてたんだ。だからもう、これ以上僕みたいに傷つくのを見たくない。レンも、恵ちゃんも」
この力をどのように使うべきか、ずっと考えていた。もし叶うことならば、自分は誰かを助けるために使いたい。
蓬は振り返って、累と向かい合う。
「だから、行くよ。レンのところに」
「……ご飯」
「え、なんて……?」
ボソッと呟いた累の言葉を聞き取れず、蓬は反射で聞き返す。
「夜ご飯作って待ってるから、ちゃんと帰ってきてね。いってらっしゃい」
累の言葉に蓬は笑顔を浮かべる。
「うん!いってきます!」
蓬は玄関を開けて外に出る。
空には斜陽が静かに輝いており、蓬の目を刺激する。
もう時間は少ない、レンの行くところにヤマを張るとしても精々一か所だろう。
自前の端末からマップを確認して当たりを付けると、蓬は走り出した。
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日が沈みかけ、夕焼けの名残が残る、紫色の空を風のように走る獣の姿があった。
彼の名前はレン。レンはつむじ風に乗りながら、ある所へ一直線に向かっている。
「すまない、蓬」
レンから声が漏れ出る。申し訳ないとは思う、でも後悔はしていない。自分一人が消えれば、全て丸く収まるのだ。こうするのが最も簡単で、最も確実な選択だった。
「もうすぐか……」
前方を見るレンの視界に大きな山が映る。人を襲わない為にレンが選択した場所は、神代家から一番早く訪れることが出来る山だった。山であれば、暴走する夜に人間が入ってくることは稀であるし、妖怪もたくさん暮らしているはず、間違いなくベストの選択だろう。
レンは駆ける。
山の入り口が見えてきた。敷地内に入れば、もう人間と関わることはない。山の入り口を目をやると、入り口の前で人影が立っていた。レンは思わず立ち止まる。
「なんで……お前がここにいる?蓬」
「ああ、良かった。やっぱりここに来た」
入口に立っていた人影、蓬はホッとしたように笑みを浮かべていた。
「……なぜここが分かった?どうして俺より早くここに居る?」
レンは狐にでも化かされたような表情で蓬を見る。蓬がこうして目の前に立っている事実が信じられないようだった。
「そんな難しい話でもないよ。近くにある人が来なさそうなところが、近くじゃここくらいだったから。レンよりも早くに来れた理由はもっと簡単だよ、さしもの鎌鼬でも、電車には速さで負けるらしい」
ブウウウンッ、と近くで電車の通る音が響く。
なぜ蓬がここにいるのか、レンも事態を飲み込めたようだ。そのうえで、レンは怒りを滲ませる。
「……それで?お前は一体ここに何しに来た?……何故来た蓬!?どうして!?」
レンは苦悶するように胸を押さえながら叫ぶ。日がそろそろ完全に沈む、レンの魂が目の前の人間を刻めと囁き始める。
「どうして!?俺はお前を思って……!ここまで……!!」
「うん、ありがとう、不甲斐なくてごめん。でもそんな気遣いならいらないよ。僕は、僕がしたいことをしているだけだから」
レンが頭を掻き毟る。身体が、思考が、魂が、理性から本能から塗りつぶされていく。鎌鼬へと変貌していく。
「グワアアアアアアアアアァ!!」
鎌鼬が月に向かって咆哮する。鎌鼬の目からはもう、理性は完全に消え失せていた。
「来い、鎌鼬。僕が相手をしてやる」
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「むりむりむりむりむりむりむりむりむりっ!!」
目に涙を浮かべた千獄斎が一心不乱に山を駆け上っている。
後方を見ると、つむじ風が山の木々を刈り取りながら千獄斎へと迫っている。
鎌鼬との戦闘が始まってから数分、千獄斎は一度も攻撃に移れず、逃げに徹することしかできないでいた。
迫りくるつむじ風がじわじわと千獄斎との距離が近づいてくる。木々が倒れていく騒音に千獄斎が後ろに振り向いた時、激しい突風に煽られる。
「うわああああ!?」
つむじ風に巻き取られ、千獄斎の身体が地面から離れ、宙に浮く。千獄斎を巻き込んだつむじ風はそのまま空を舞い、山の巨木へと激突する。地面が割れるような衝撃と振動に、鳥たちが慌てて飛び立つのが見える。
「ううぅ……!」
呻き声を漏らす千獄斎はつむじ風の中にいるときに全身を切り刻まれ、血だらけの状態で蹲っている。
目の前には鎌鼬がグルルルルと声を唸らせ、立っている。まさに絶体絶命の状態だった。
全身が焼けるように痛い、頭がぐらぐらする。地面が揺れているような感覚の中、千獄斎はふらふらの状態でなんとか立ち上がる。
「はあ……はあ……」
乱れる呼吸をなんとか正しながら、鎌鼬と見合う。
涎を垂らし、その瞳には理性が見えない。先ほどまでの攻撃は全て、本能の赴くがままに行っているだけであって、そこに脳みそは介していないだろう。ならば、やりようはある。
千獄斎は息を止め、鎌鼬へと駆け出した。
「はあああああああ!!」
こちらへと向かってくる千獄斎は鎌鼬からすると、酷く隙だらけに見えた。鎌鼬は本能に従い、両手に持った小鎌を同時に振るう。千獄斎の身体に小鎌が二本、突き刺さった。
「がっっっ……!!」
痛みに叫びたくなる衝動を必死にを抑え、千獄斎は正面の鎌鼬を見る。
今の鎌鼬は千獄斎の身体に刺した小鎌で両手が塞がっている。鎌鼬はすぐさま小鎌を千獄斎の身体から抜こうとするが、その腕を千獄斎が両手を使って止める。両者、両手が塞がった状況で千獄斎は鎌鼬に向かって頭を大きく振りかぶった。
「はあっ!!」
「ゴガッッ!……!!」
頭突きによろめいた鎌鼬の顔面に、千獄斎は拳を握りしめ、思いっきり振りぬいた。
「よしっ……!」
顔面に拳が突き刺さったのを見て、ニヤリと笑みを浮かべる千獄斎。しかし、攻撃された鎌鼬は拳を顔面で受け止めたまま千獄斎を強く睨みつけていた。
鎌鼬は素早く千獄斎の身体から小鎌を抜くと、千獄斎に向かって小鎌を切りつける。
「がっ……!!」
吹き飛ばされた千獄斎が地面に転がる。千獄斎の全身は傷だらけで、腹が大きく裂かれ、血以外の物も出てしまっている状態になっていた。もはや立ち上がる力も残っていない。
鎌鼬はその場で小鎌で空を切る。すると鎌鼬の周囲に風の刃が形成されていく。一、二、三、鎌鼬が小鎌で空を切るごとに風の刃が増えていく。
「……そ、そんなこともできるの……?」
千獄斎が驚いている間にも風の刃はどんどん増えていく、十を超えたあたりで千獄斎は数えるのをやめた。
鎌鼬が小鎌を振るう。その瞬間、十以上の風の刃が千獄斎へと一気に襲い掛かった。避けたい気持ちはあるが、身体を動かすほどの気力もない。迫りくる死の気配に千獄斎はギュッと目を瞑る。
「――――――?」
しかし、どれほど待っても痛みはやってこない。千獄斎は恐る恐る目を開けると、そこには風の刃を背中で受けて、血だらけになった緋紀が立っていた。
「よお、蓬。無事か……?」
緋紀は強気な笑みを浮かべるが、額には冷や汗を搔いており、強がりなことは透けて見えた。すぐに緋紀は崩れるように膝を地面につける。
「緋紀……!!」
崩れ落ちる緋紀を咄嗟に支える千獄斎。神代家の敷地外にいる緋紀の身体は一般人と変わらない。その状態で風の刃など喰らえば、それだけで瀕死だろう。緋紀からぬめっとした液体が流れ出る。
「緋紀っ……!どうして……!?」
「今日一日……ずっと考えてたんだ……」
緋紀は掠れた声で喋り始める。
「蓬を守りたいって、言っても……一体蓬の何を守りたいのかって……。俺はよぉ、今でも自分の意見は変わらねぇ……妖怪は簡単に信用しちゃいけないものだと思ってる……。でも、蓬、お前が妖怪を助けたいって言うのなら……そんなお前が傷つかないように、俺がお前を守る……!俺は、お前の意思を守りたい」
「緋紀……」
鎌鼬がもう一度、風の刃を生成し始める。千獄斎の顔に焦りが浮かぶ。
「だから……もう一度俺を纏え、蓬!」
風の刃が緋紀たちに迫りくる。
風の刃が激突し、砂埃が舞う。砂埃に覆われ、視界を奪われた鎌鼬は威嚇するように周囲を警戒する。
「わーはっはっは!!俺様とうーじょうー!!ってか、いてー、身体ちょーいてー……!」
砂埃から強気な笑い声が響く。視界が晴れると、そこには黄金の髪に赤い歌舞いた装いの千獄斎が立っていた。
「グワアァァァァァァ!!」
鎌鼬がつむじ風を巻き起こし、風に乗って吶喊してくる。
「来い、白入魂」
ボウッと現れる白入魂から金棒を取り出すと、千獄斎へと向かってくる鎌鼬目掛けて振り下ろす。
つむじ風ごと撃ち落された鎌鼬は地面に強く激突し、目を回す。
(ところでよぉ蓬、こいつを助けるっつったって、なんか手立てはあるのかよ?)
(うん。でも準備に結構時間がかかるから、無力化してもらうのが一番なんだけど、緋紀できそう?)
「ハッ!当たり前だろ!!」
千獄斎は地面に伏せている鎌鼬に金棒を振りかぶる。吹き飛ばされた鎌鼬は空中で姿勢を正し、木の幹に足を付ける。
「グルルルルル……!」
千獄斎を脅威と判断したのか、鎌鼬は戦法を変え、木々の間を飛び移る立体機動に切り替える。風に乗りながら、木々に飛び移る鎌鼬に千獄斎は目で追いきれない。
「あん?面倒くせえなぁ……?」
飛び回る鎌鼬に千獄斎はうっとおしそうに顔を歪ませる。
確かにこのままではいまいち攻め手に欠ける。そのため千獄斎も攻め手を変えることにした。
「―――”山の神よ、力、お借りします”!」
千獄斎は四股を踏むように、地面を足で踏みしめた。その瞬間、山が千獄斎の味方をするように形を変え始める。山の大地が、木々が、鳥たちが、意思を持つように鎌鼬を追い立てる。
「ガウッ……!?」
木々の間を飛び回っていた鎌鼬が、木の枝に絡めとられる。巻き付くように鎌鼬を締め付ける木々は、鎌鼬を千獄斎のもとへと運んでいく。
「サンキュー、神様!借りなら後で返すぜ。”火を焚べろ”!」
山の神にお礼を述べながら、金棒に火を纏わせる。千獄斎は火を纏った金棒を力一杯にぶん回す。
「これが俺の全力だぁー!!」
金棒に巻き取られた鎌鼬は宙を舞い、後方の巨木に強く激突するのだった。
(凄い……!今のなに!?)
(あー、まあちょっと山の神様に力を貸してもらったんだ。お返しに、明日は丸一日パシられるだろうな……。って、そんなこと言ってる場合じゃねぇ!蓬、チャンスチャンス!)
(ああ、そうだった!)
「―――纏い解除!」
千獄斎は緋紀との纏いを解き、白髪の姿に戻る。元の姿に戻った千獄斎は急いで自分の足元に巻物を広げた。
「―――我、鎌鼬レンに命ず!」
千獄斎が詠唱を始める。
妖気が体内で氾濫し始める。荒ぶる妖気を千獄斎は必死に制御する。
紡がれる詠唱とともに、身体から放出される妖気が紋章を形作っていく。
「―――”汝、妖気の容量、半分を千獄斎に受け渡す”……!」
頭が割れる、血管が沸騰するように熱い、暴れ回る妖気の波が千獄斎を蝕んでいく。
血が流れる、切り傷が痛む、コンディションは最悪だ。昼の時ですら成功しなかったのに、こんな状態で集中などできるわけがない。
苦しい、辛い、すぐにでもこの意識を手放してしまいたい、そう思っても、この身体の全神経は術の完成に力を注いでいる。
笑顔にしたい人がいる。
助けたい人がいる。
助けてくれた人がいる。
膝をついて良い理由がどこにある。
「これ強制誓約とし、神代千獄斎の名の下に課す……!」
紋章が完成し、鎌鼬の周囲を纏うように顕在する。
力一杯に千獄斎は叫ぶ。
今ここに神代家の秘術が発動する。
「―――結っ!!」
周囲を包んでいた紋章が鎌鼬を縛り上げ、眩い光が溢れ出す。
「……なんだこりゃ……?成功したのか蓬?」
「う、うん……多分……」
千獄斎との纏いを解いた緋紀が呆然とした表情で口を開く。成功したのか、と訊かれても、一度も成功したことのない千獄斎は自信を持って答えることは出来ない。
千獄斎の顔に汗が一滴、伝い落ちた。
閃光が収まり、鎌鼬を見ると、通常の鼬と同じような大きさになって倒れていた。
千獄斎の足元に広げられていた巻物を見ると、詫証文の鎌鼬に課した内容が書かれていた。
千獄斎はホッとしたように息を吐く。
「―――纏い解除」
黒身魂との纏いを解除して、白髪から黒髪に戻り、千獄斎は篠宮蓬へと戻った。
戦いで出来た傷が千獄斎だった時以上に痛む。
「おおう!?何が起きたんだ、一体!?」
「神代家に伝わる秘術らしいよ。一度も成功したことなかったんだけど、今回成功して良かったよ」
驚いたように閃光を見ていた緋紀が、蓬の言葉でさらに口をあんぐり開けた。
「何が手立てはあるだよ!?めっちゃギリギリだったじゃねーか!?」
「うん、ドキドキしたね」
「ドキドキしたね、じゃねーよ!?」
緋紀は蓬の頭にチョップを落とす。蓬は涙目で自分の頭を撫でている。
「さてと、あの鎌鼬野郎も持って帰んねぇとな」
緋紀は鼬を抱える。蓬と緋紀、お互いボロボロで、満足に歩くこともままならない。ふらつく緋紀を蓬が支える。
「ねえ、緋紀?」
「あん?どうした」
「助けてくれてありがとう。それと、昨日はひどいこと言ってごめん」
「いいってことよ。俺もお前の考えとか全否定だったしな。お互い様だ」
二人は顔を見合わせると、どちらともなく笑いがこみあげてきた。
「帰ろっか、累の家に」
「ああ、帰って風呂でも入ろうぜ」
山の夜道、肩を組みあって帰る姿を、月だけが見つめていた。
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ピンポーン
インターホンの音が鳴る。
家の中から、どたどたと玄関に向かう足音が響いてくる。
「ポチが見つかったの!?」
玄関のドアを勢い良く開けて出てきた恵は、瞳を輝かせて蓬たちを見る。
「うん、遅くなっちゃってごめんね」
恵の家に訪れたのは蓬と緋紀の二人。累は恵との面識がないため、辞退した。
蓬の腕に抱かれている鼬を見て、恵はさらに瞳を輝かせた。
「ありがとう、お兄さんたち!」
「へっ、いいってことよ。もう迷子になったりするなよ、ポチ?」
揶揄うような笑みで緋紀はポチの頭をぐりぐりと撫でる。
心底うざったらしそうな顔でポチは頭を撫でられていた。
「それじゃあ、僕たちはもう行くね。ポチ、じゃあね」
蓬は玄関の扉を閉める、その寸前、レンが恵にバレないよう小さく頭を下げるのが、蓬の目に見えた。
バタンと、扉が閉まる。その場で緋紀がグーッと伸びをする。
「さてと、そろそろ山に行くかー。本当に付いてくんのかよ蓬?結構マジでパシられるだけだぞ?」
「お世話になったのは緋紀だけじゃないんだし、僕もやるのが礼儀ってものでしょ。累も行くって言ってたよ?」
「マジかよー、あいつも大概暇人だな」
「それ、本人に言っちゃ駄目だよ?多分怒るから」
二人は足並みそろえて、昨日の山へと向かう。
緋紀は蓬に向かって拳を突き出した。
「これからもよろしくな、蓬」
「うん!こちらこそ!」
二人の拳が合わさる。拳に伝わる確かな重みが、二人の絆を証明してるかのようだった。