2
味噌の香りが鼻をくすぐる。味噌汁でも作っているのだろうか、でも緋紀の作る味噌汁とは少し香りが違う気がする。毛布に包まれ温かい感覚の中、蓬は目が覚めた。開いた視界に映るのは木造の天井、自宅のとは造りが違う。どうやら蓬は誰のかも知らぬ家の中で布団の上で寝ていたらしい。
「なんで?」
状況が理解できない。ここで、布団の上で寝る前、自分は何をしていたのか、蓬は過去の記憶を遡る。記憶の中にあったのは、自分がなにやら髪の白い女の子、累と契約したこと、緋紀と意識が合わさって祓い屋を追い払ったこと、そして自分はそのまま―――
「そのまま、意識を失った、のか、僕は」
蓬が思い出すのは意識を失う間際の視界、微笑む累の姿だった。彼女が介抱してくれたのだろうか、それじゃあ、ここは彼女の家なのか。蓬は部屋を見渡す。床は畳が敷かれており、壁掛けの古時計がチクタクと時を刻んでいる。随分と年季を感じる古風な部屋だった。寝起きで定まらぬ思考の中、ぼーっと部屋を眺めているとふすまが開く、部屋に入ってきたのは一つ目の大男だった。
「緋紀!」
「おお、蓬!起きたのか!ちょうどよかったぜ」
あの夜の公園で急に消えた緋紀だったが、部屋に入ってきた緋紀はいつもと変わらず元気そうな様子で蓬は笑みがこぼれた。
「元気そうでよかったよ、緋紀。あの夜、急に消えたもんだからびっくりしたよ」
「ああ、あれな。俺もめちゃくちゃびっくりだよ。未だに説明もないしな」
緋紀は苛立った様子で舌打ちをする。
「説明……?そういえば!あれって結局何だったの!?急に自分の姿は変わるし、なんか緋紀に憑依されるし!そもそもここって誰の家なの!?」
「落ち着けって……!ここはあの真っ白女の家で、俺は消えた時、気づいたらここにいた。憑依云々はなんとなく感覚で分かったっつーか……俺も詳しくはまだ説明されてねぇんだよ」
詰め寄る蓬に緋紀は頭を掻きながら対応する。緋紀も詳しくは把握してはいないらしい。事態を把握してるのは累一人だけなのだろう。
「つーわけで、真っ白女がお呼びだぜ。これからこのわけわからん状況の説明をしてくれるらしい、さっさと行こうぜ」
そう言って緋紀は歩き出す。少し遅れて蓬も立ち上がり、緋紀の背中を追いかけるのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
丸いちゃぶ台に食器が置かれる。白米に焼き鮭、味噌汁と三菜と、和定食の王道とでも言うべき食事が蓬の目の前に置かれていた。食事の準備をしていたのは累だ。累はエプロンをつけた状態で三人分用意している。累のいる居間に入ったかと思えば、あれやこれやとこうしてちゃぶ台の前に座らされているのだ。運ばれてくる食事を蓬と緋紀の二人はポカンと眺めている。やがて食事が運び終わり、累がちゃぶ台の前に座ると、手の皺と皺を合わせた。
「それじゃあ、みんなで、いただきます」
「じゃねぇよ!!吞気に飯食ってる場合か!!」
緋紀がちゃぶ台を叩く、バンっと音と共に食器が揺れる。
「今は朝の七時だよ?十分に朝ごはんの時間でしょ。あと行儀悪いよ」
「うるっせぇ!説明するって言ったのはお前だろ!さっさと説明しろ!」
怒鳴る緋紀に累はうるさそうに目を細める。累の緋紀を鬱陶しそうにするその態度が緋紀の神経をさらに逆撫でる。二人の様子に蓬は慌てて間に入る。
「まあまあ、緋紀も落ち着いて……ちゃんと説明してくれるんだよね?ええと、累さん、であってるよね?」
問いかける蓬に累はニコリと笑う。
「累でいいよ。私と蓬の仲じゃない」
―――いや、そんな仲良くなった覚えはないが。
相変わらず掴めない子だ。蓬はそう思った。
「説明だってちゃんとするわよ。でも蓬だって昨日は激闘で疲れているだろうし、英気を養うためにご飯でも食べながら、説明しようと思ったのに」
累は拗ねたように言う。
―――まずい。蓬は冷や汗を掻く。どうにもこの少女に拗ねた顔をされるとどうすればいいか分からなくなってしまう。とにかく蓬は半立ちの緋紀を座らせ、手を合わせる。
「いただきます」
と、言った。
「はい、召し上がれ」
累はそう言って笑った。その笑顔に蓬は何故だか無性に、安心したのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「蓬が使ったあの力はね、代々私たち、神代家が管理している力なの」
「神代家……じゃあ、累のフルネームは神代累ってこと?」
焼き鮭の身をほぐしながら蓬が問う。
「……そういえば、私の苗字って言ってなかったっけ?ごめんね」
累は申し訳なさそうに舌をだして、てへっと謝る。かわいい。
「蓬はさ、妖怪と祓い屋の関係についてどのくらい知ってる?」
累の顔を見つめていた蓬に声がかかる。どのくらい、と言われても蓬はこの数年間、妖怪とは欠片も関わりを持たないようにしてきたのだ。妖怪や祓い屋と関わったのは小学生の時の一件と、今回ぐらいである。
「そうだなー……妖怪は普通の人には見えなくて、妖怪の見える祓い屋たちはその妖怪を殺そうとしてる。ぐらいしか知らないかも」
「まあでも、大体の認識はあってるよ。祓い屋たちははね、祓い屋連合ってとこに所属しているの。祓い屋連合の方針は妖怪の殲滅。だから、妖怪たちから祓い屋は恐れられている」
累からの説明には蓬も合点がいくものがある。祓い屋連合そのものが妖怪の殲滅を方針としているのなら、幼い頃、問答無用で友達の妖怪たちが殺されたのもそういう理由だったのだろう。
「ほーん、祓い屋連合ねぇ……今の時代そんなものがあるんかい」
緋紀が味噌汁を啜りながら言う。緋紀の発言に蓬は驚きの表情をする。
「え、緋紀知らなかったの!?」
「あ、いや、祓い屋たちの存在は知ってたぜ?でも、殲滅とか、んな苛烈な思想はしてなかったと思うんだけどな、昔は」
「そうね、祓い屋連合が今の方針になったのはおおよそ百年くらい前だからね。緋紀が知らないのも無理ないかも」
「百年って……緋紀ってそんなに長生きなんだ……」
蓬は驚くが、それと同時にそういうことだったのかと納得する。あの夜、祓い屋に遭遇したら命が危ないのに、なぜ迎えになど来ようとしたのか、それは緋紀が祓い屋の現在を知らなかったのだ。だから夜道をノコノコと歩き、祓い屋たちに襲われることになったというわけだ。
「やっぱり、許せないよ。罪のない妖怪たちを問答無用で殺すなんて……」
蓬の中に沸々と怒りが沸き上がってくる。妖怪の殲滅、そんな祓い屋たちの勝手で友達が傷つき、殺されたのだ。そんあことがあっていいわけがないだろう。
「蓬の気持ちはわかるけど、祓い屋たちが完全に悪とも言えないのが現実だよ」
累の言葉に蓬が眉をひそめる。
「蓬は会ったことないかもしれないけど、人間に害のある妖怪だっているんだよ。人を殺したり、食らったり……もう何十人と殺してる妖怪だっているんだ。そんな妖怪たちを殺そうとする祓い屋たちは正義とも言えない?」
蓬は言葉が詰まった。蓬はそんな凶悪な妖怪にはあったことがない。それどころか知りさえもしなかった、否、知ろうともしなかったのだろう。蓬はずっとその妖怪たちから目を逸らし続けてきたのだから。
「例えばだけれど―――」
累は緋紀に目線をやる。
「ここにいる緋紀。凄い身体が大きいよね、それに力がある。祓い屋たちと戦ってた時、拳一つでコンクリートの地面がひび割れてたのを私は見たよ」
「……それがどうした」
急に褒めだした累に緋紀は嫌な予感がしながらも言葉を返す。累は飄々と言葉を続ける。
「それぐらい力が強かったらさ、人ひとりくらいなら簡単に殺せそうだよね」
「え、」
「俺が人を殺すって言いてぇのか!!」
緋紀がちゃぶ台を強く叩きつけながら立ち上がった。緋紀は累を強く睨みつける。最も累は少しも動じていない様子だったが。
「落ち着いてよ、誰もそんなこと言ってないでしょ?実際、緋紀は殺すことはできるでしょ?ただしないってだけで」
緋紀はぐうぅと言葉に詰まる。実際事実であるからだ。緋紀の大きな腕であれば人の首を捻じ曲げるくらい簡単である。簡単であるが、だからといって人殺し扱いは気に障る。
「つまりね、妖怪なんて誰も彼も人なんて簡単に殺せちゃうんだよ。当然、そんな野蛮な者ばかりじゃないけれど……それを祓い屋たちどう判断すればいいの?妖怪が人を殺してからじゃ遅いんだよ?だったら妖怪はすべて殺してしまおう、って連合の方針も理解できることでしょ?」
理解できる。結局、人と妖怪は相容れないのだろう。祓い屋連合の考えも最もだ。理解はできる。だが、やっぱり納得はできない。
「……だとしても、妖怪を殲滅ってのは、賛同できないよ」
蓬は思いを吐露する。人を殺める妖怪はいる。それでもそれ以上に人間と仲良くできる妖怪だっているはずなのである。だったら蓬はその思いを捨てたくないとそう思ってしまったのだ。悔しそうに下唇を噛む蓬に累は嬉しそうに微笑んだ。
「そう、そのために私たち神代家は戦ってきたんだよ」
蓬の目の前に人魂が二つ現れる。昨日の戦いで力を貸してくれた白入魂と黒身魂だった。
「神代家は妖怪と人とを取り持つために戦ってきた。罪もなく殺される妖怪には祓い屋から守り、荒ぶり人に仇名す妖怪は祓い屋よりも先に鎮める。人と妖怪の境界を司るもの。それが貴方」
蓬の周りを二つの人魂がゆらゆらと揺れる。蓬は黒身魂と瞳が合う。妖怪と人との境界となる力、この力があれば、罪のない妖怪を祓い屋たちから守れるのだろうか。
「この力の担い手は千獄斎と名乗ってきた。この力は世襲制なの。黒身魂を纏う時は神代千獄斎を名乗ってね。本名とかバレちゃうとほら、いろいろ危ないし」
確かに容易に命を狙ってくる祓い屋たちの前で本名を名乗るのはなかなかに肝が冷える。それにしても、千獄斎とは、随分と古臭さと血生臭さを感じる名前だ。その名前こそが時代を感じさせるのだろうか、蓬は白米を口に放り込む。気づけば出された食事も食べ終わり、蓬は手を合わせ、ごちそうさまを言う。
「お粗末様でした。美味しかった?」
「うん、すごくおいしかったよ。毎日食べたいくらい」
そう、良かった。と、累が笑顔で答える。
蓬が満腹なお腹をさすっていると累が食器を洗面台に持っていき、洗ってくれる。時刻はそろそろ午前八時を指す。今日は高校の登校日である。そろそろ準備をし始める時間だ。そうすると蓬は一度自宅に戻る必要がある。
「えーと、何から何までありがとう累。僕はそろそろ学校に行く準備をしなくちゃだから、一度家に―――」
「そっか、もうそんな時間か、制服とか、教科書ならさっき蓬が寝てた部屋にあるから、準備してきなよ。学校に遅れちゃだめだよ?」
―――なぜ男用の制服があるんだ。
蓬が心の中でツッコむ。だが、まあ、あるというのならば、わざわざ自宅に戻って荷物を持ってくるというのも無駄な手間になってしまう。有難く使わせて頂くのが吉だろう。蓬は部屋に戻っていく。
「あ、そうそう、言い忘れてたんだけど、神代家は代々千獄斎が当主を務めてきたから」
「……はい?」
「これからよろしくね、新御当主様?」
蓬から声にならない悲鳴が上がる。
ちなみに用意された制服はサイズがぴったりだった。