7. 遅く帰った朝
数日後、エリザが弾むような笑顔でアシュリーのいる家に帰って来た。
いつもは病人のように青白い頬が紅潮して、鮮やかな緑の目がきらきらと輝いている。
「アシュリー!」
椅子に座ってのんびり本を読んでいるアシュリーの顔を見るなり、エリザはその首に抱きついた。
「聞いて! あのね、リットン子爵夫人の所へデザイン画を届けに行ったの! そうしたらすごく気に入ってもらえて、出来上がり次第では次もまた頼んでくれるって!」
アシュリーは、息が顔にかかるほど間近で嬉しそうに話すエリザに驚いて目を見開いた。けれど、その話題にさほど関心の無い彼は、すぐに手に持っている本に視線を戻して適当な返事を返した。
「へえ」
「あなたのお陰よ! これで何とかお店が続けられるわ! ありがとう!」
照れたように顔を赤らめながら、エリザはアシュリーに包みを差し出した。
「……これ、あなたに。……お礼のつもりなんだけど、受け取ってくれる?」
受け取ったアシュリーがそれを広げてみると、シャツと足首まで覆う長さのトラウザーズだった。
それは絹やサテン、ベルベットを着慣れたアシュリーには、ごわごわと固い手触りで、漂白を施していない薄茶けた色も野暮ったく見えた。
アシュリーが呆れた顔でエリザを見る。
「こんな服を俺に着せる気か?」
「……気に入らない?」
喜んでくれるものとばかり思っていたエリザは、きょとんとアシュリーを見た。
「この俺に、こんな地味な服を着せる気か? それに何だ、この生地? こんな硬い服なんて着られるか」
「……文句を言うなら返して」
アシュリーは、ついさっきまでの嬉しそうにはしゃいだ顔が消えて、泣きそうになっているエリザに気づいた。唇を噛みながらシャツとトラウザーズを取り返そうとするエリザを見たアシュリーは、取り繕うように慌てて口を開いた。
「あ、いや、俺ほど美しければどんな服でも着こなせるか」
「……無理しなくてもいいわよ」
「そんなに言うなら受け取ってやる」
シャツとトラウザーズと取り返そうとするエリザの手が届かないように、椅子から立ち上がってそれを高く掲げながらアシュリーが悪戯っぽくエリザを見た。
「夕食は鶏のフリカッセでいいか?」
「……え!?」
途端に目を輝かせたエリザが、アシュリーの手からシャツとトラウザーズを取り返すのも忘れて、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねた。
エリザは既にアシュリーの料理に胃袋を掴まれていて、特に鶏のフリカッセがお気に入りだった。
アシュリーがエリザの家に居座るようになってから十日程が経った。
あれ以降、エイベル男爵夫人が何かをしてくる気配も無く、二人は時折喧嘩をしながらも、穏やかな時間を過ごしていた。
そして暴漢に殴られた際の目の周りの青痣もほぼ消えたアシュリーは、暇を持て余していた。
エリザは毎日仕事で日中は家にはいない。
一人残されたアシュリーはすることもなく、料理や掃除をする以外は本を読んで時間を潰していたが、蝶のように美しい花を渡り歩いていた彼に、いつまでもそんな生活が続けられる訳もない。
着替えを済ませたアシュリーは、意気揚々と馬車に乗り込んだ。
彼が向かったのは、オペラ座だった。
アシュリーは、金の刺繍で縁取られたモスグリーンのベルベットのコートに揃いのウエストコートを着て、辛子色のサテンのブリーチズを穿いていた。
アシュリーが馬車から降り立った途端に、正面入り口の前にいた貴婦人達が一斉に嬌声を上げて、彼を取り囲んだ。
「アシュリー! お久しぶりね! 長いこと姿を見せないから心配していたのよ」
「あなたが現れるなんて信じられない! 来て良かったわ!」
「今夜はどなたかとお約束があるの? もしよろしければ、わたくしと……」
競い合うように自分に話しかける令嬢達にアシュリーが微笑んでいると、誰かがするりと腕を絡ませてきた。嗅ぎ慣れた甘い香水の香りが鼻をくすぐる。
アシュリーがちらりと視線をやると、それはクリスティ伯爵夫人だった。
豊かな胸をアシュリーの腕に押し当てるように密着させながら、クリスティ伯爵夫人が真っ赤な唇で囁く。
「あなたの相手はわたくしよ。そうでしょう?」
アシュリーは、甘えるように自分を見つめるクリスティ伯爵夫人と視線を絡ませ、それに応えるように甘く微笑んだ。
朝方、アシュリーが欠伸をしながら馬車から降りると、エリザが家の前に立っていた。
「……エリザ? どうした? 何かあったのか?」
寝不足なのか、エリザの目は赤く、その表情は疲れていた。
只事ではないその気配に、駆け寄ったアシュリーが心配そうに尋ねた。
「……仕事から帰ったらいないし、ずっと待っていても帰って来ないから、心配したのよ」
赤い目で自分を見上げるエリザに、何と答えたものか分からずにアシュリーは黙っていた。徹夜で自分を待っていた様子のエリザに、さすがに他の女と一夜を過ごしていたとは言えなかった。
そのアシュリーの体から漂う甘い香水の香りに気づいたエリザが、自嘲気味に笑った。
「余計なお世話だったみたいね」
そう言うと、エリザは無言で荷物を取り、仕事へ行った。
その後姿を呆然と見送っていたアシュリーは困惑して、その場に立ち尽くしていた。
「……何なんだ? 何故、エリザが機嫌を悪くするんだ?」
エリザの家で一緒に過ごしているとはいえ、恋人同士ではない。
愛を囁いた覚えも無ければ、そんな素振りをしたつもりも無い。
それなのに何故、エリザは徹夜で自分の帰りを待ち、朝帰りを怒るのか。
マダムですら一度もそれを咎めたことは無かった。
籠の中の鳥にするつもりは無いと言って、自由にさせてくれた。
「……訳が分からない。……エリザに束縛される筋合いは無いぞ」
そうは言っても、エリザのあの悲しそうな目がアシュリーの頭から離れなかった。何をしていても、徹夜で赤くなったエリザの目が自分を追いかけてくるようだった。
「ああもうっ、くそっ」
苛立たし気に髪を掻きむしったアシュリーは、舌打ちしながら着替え始めた。
エリザの店は大通りの端にあった。
もともとは恩人のベネットさんが開いた店を、その死後にエリザが受け継いで一人で続けており、以前は十人程いた従業員も、ベネットさんが病気で倒れた時にすべて大店に引き抜かれてしまっていた。
ほんの半年ほど前までは都で評判だった店も、今は残った僅かな常連がたまに注文をしてくれるだけの寂しい店に成り果てていた。
その店の中を、アシュリーは大通りに面した大きな窓の外からこっそりと窺っていた。
「……どうして俺が隠れる必要があるんだ?」
ぶつぶつと独り言を言いながら、それでもアシュリーは何となく気まずくて、店の中に入っていく勇気は無かった。
恋人でもないエリザに干渉される筋合いは無いし、謝る理由も無い。
かと言って、何と言って声をかければいいのか思い浮かばない。
エリザは椅子に座って縫物をしていた。
窓の外から見ているアシュリーに気づく様子もなく、一心に針を動かしている。
アシュリーはその場から動かずに、じっとエリザを見ていた。
やがて周囲が何やら煩くなり始めて、アシュリーが煩わし気に視線をやると、自分の周りに人垣が出来ていた。
華やかな身なりの令嬢や商人らしき女性に農婦、老いも若きも、貧富も問わずに、大勢の女達がアシュリーを取り囲んでいた。
そして振り返ったアシュリーの顔を見るなり、こぞって歓声を上げた。
「きゃああっ! 何て綺麗な男なの!?」
「こんな美しい人は初めて見た!」
「このお店の人!?」
普段付き合いのある貴族の令嬢達とは違って、ぐいぐいと遠慮なく近づいて来る女達に一瞬たじろいだアシュリーは、ちらりと店内にいるエリザを見てから目の前の女達に向き直った。
「私はこの店の服の愛用者だ」
アシュリーは、エリザが仕立てて贈ったシャツとトラウザーズを着ていた。
「その服は、このお店で仕立てたの?」
「こんな素敵な人が愛用しているのなら、きっと素晴らしい店に違いないわ!」
興奮したように口々に言い合う女達に、アシュリーは得意げに自分が着ている服を見せた。
「ああ、もちろん。ここは、着る人のことを考えた服を作る素晴らしい店だ」
そして自慢げに語るアシュリーを見た女達が、我先にと店の中に流れるように入って行った。
突然押し寄せた大量の客に、縫物をしていたエリザが驚いて顔を上げると、窓の向こうにアシュリーの姿が見えた。
自分が贈った服を見せびらかしながら女性達に話をしているアシュリーを見たエリザは、腑に落ちたように苦笑いを浮かべた。
「……文句を言っていたくせに」
思いも寄らない突然の大量注文の対応に追われたエリザが、戸締りを終えて店を出たのは、外がだいぶ暗くなってからだった。
こんなに忙しかったのは久しぶりと、エリザが肩を叩きながら一歩足を踏み出すと、目の前に一人でぽつんと立っているアシュリーがいた。
所在無さげにいるアシュリーを見たエリザが、仕方なさそうに溜息を吐いて側へ行った。
「……こんな時間まで、ずっと外にいたの?」
「忙しそうだったから帰りが遅くなると思って。一人じゃ危ないだろ」
アシュリーの顔が心なしか青ざめて見えた。口から漏れる息が白い。
エリザが思わずアシュリーの手に触れると、氷のように冷たかった。
「どうして上着を着ないのよ!?」
「俺の手持ちの上着じゃ、お前が作ってくれた服と合わないだろ」
美しく着飾ることに関して妥協するということを知らないアシュリーに呆れながら、エリザはふうーっと息を吐いた。
「……今度、上着を作るわ」
「そうしてくれると助かる」
エリザはほっとしたように微笑むアシュリーを見て、一瞬躊躇ったものの、そっと自分の手をアシュリーの手に絡めた。
凍るように冷たいアシュリーの手に、エリザの温もりが伝わる。
アシュリーがふと見ると、エリザの顔は赤かった。
それが妙に可愛らしく思えたアシュリーは、繋がったその手にぎゅっと力を入れ、そしてゆっくりと歩き出した。
月明りに照らされながらアシュリーとエリザが歩いていると、どこからか大声が聞こえてきた。
怒鳴り合い罵り合うその声に二人が驚いて振り返ると、酔っ払いらしき男二人が取っ組み合いの喧嘩をしていた。数人の男達がそれを取り囲んで、口々に囃し立てている。
それを見て顔をしかめたエリザが、アシュリーの手を引っ張った。
「……向こうに貧民街があるの。多分、そこの人達よ。危険だから近づかないで。あなたみたいなお貴族様には想像出来ないだろうけど、そういう所もあるのよ」
アシュリーは黙って、暗闇の向こうにある貧民街を見ていた。