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蝶の詩  作者: 雲英
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6. 意外に使える男

 アシュリーを一人家に残して、エリザは大通りにある店へ仕事に行った。


 恩人の先代店主ベネットから店を引き継いだものの、大勢いた針子は既によそに引き抜かれてしまっていた。自分一人でどうにか稼がなければ、ベネットさんが守って来た大事な店が潰れてしまうとエリザは必死だった。


 今は、以前アシュリーの服を仕立てた際の代金とその時のウェリントン公爵夫人からのご褒美で、なんとか食いつないでいる状況で、エリザはアシュリーにかまけて店を休むわけにはいかなかった。


 

 何もない部屋にぽつんと残されたアシュリーは、お腹を空かせていた。

 自分の朝食の準備もせずに出て行ったエリザにぶつぶつと文句を言いながら、アシュリーは棚戸を開けて食べ物を探していた。


 もともと物が無い部屋では探す場所も限られているのに、それでもそこにはパンどころか、何の食料も見当たらなかった。

 紅茶すら見つけられないアシュリーが、腹立たしそうに髪を掻きむしる。


「どうして食料が何も無いんだ!? 見つからないように何処かに隠しているのか!?」


 ウェリントン公爵夫人が亡くなってしまった今、まさか食事をしにウェリントン公爵家別邸に戻る訳にもいかない。

 かと言って、いつも利用している貴族御用達のレストランに行って、こんな青痣のある顔を誰かに見られるのも嫌だ。


 悩んだアシュリーは、仕方なく下町をぶらつくことにした。

 適当にパンと飲み物を調達して、エリザの家に戻るつもりだった。ウェリントン公爵夫人に引き取られるまでは自分で料理することもあったので、アシュリーは一通りの家事は出来た。



『おかえり、母さん。遅かったね』

『アシュリー、お願いよ。わたしを助けて。お前しかいないの』


 たくさんの人が行き交いざわつく下町に、アシュリーは一人でいた。

 賑わう通りの石畳の上を、靴音を響かせながらうつむき歩いていると、とっくに忘れたはずの過去が急に彼の脳裏に蘇って来た。


「……今頃どうして」


 怪訝そうな表情で顔を上げたアシュリーは、いつのまにか自分が市場の近くに足を踏み入れていたことに気づいた。


 立ち並ぶ屋台には、野菜や果物がずらりと並び、奥の方には肉を焼いている店もあるのか、美味しそうな匂いが風に乗って漂ってくる。

 酒や香辛料や売り物の花といった色んなものの匂いが混ざった独特の匂いが、彼の古い記憶を呼び覚ましたのだった。


『ただいま、母さん。はい』

『ああ、アシュリー、いい子ね。愛しているわ』

『僕もだよ、母さん』


 アシュリーは市場の入り口で足を止めて、ぼんやりとしていた。

 古い記憶が、少しずつ彼の頭の中を支配しかけていた。


「きゃあっ! ちょっと何この綺麗な男!」

「本当! こんな綺麗な人、見たこと無い!」


 アシュリーの場違いな服装に目を留めた屋台の女が、その顔を覗き込んで悲鳴のような声を上げた。その声につられた女達が次々に集まり、いつの間にかアシュリーの周りには人垣が出来ていた。


 女達のはしゃぐ声が、アシュリーを現実に引き戻した。

 はっとした顔で、彼は自分を囲む女達を見回した。


 本音はこんな青痣のある顔を人目に晒したくなかったが、それでも普段から貴婦人達に囲まれているアシュリーは、相手が平民だろうと女の扱いには慣れていた。

 黄色い声を上げる女達をゆっくりと眺めたアシュリーは、極上の微笑みを浮かべて軽く瞬きをした。


「きゃああっ! 素敵! もうどうにでもしてえ!」


 女達は競うように店から売り物を持ち寄って、一斉にアシュリーに貢ぎ始めた。

 呆気に取られる男達を後に残し、アシュリーは悠然とその場を離れた。

 必要な食料は手に入れたし、目の保養もさせてやったとアシュリーはご満悦だった。




 その日の夕方、仕事を終えたエリザが家路につくと、少し手前の辺りで家に灯りが点いているのが見えた。

 ベネットさんが亡くなって以来、一人暮らしが続いていたエリザにはそれが妙に新鮮だった。

 自然と弾む心を感じながらエリザがドアを開けた瞬間、中からふわっと美味しそうな匂いが漂ってきた。


「……わあ、いい匂い!」


 ちょうどテーブルの上に花を飾っていたアシュリーが、エリザの声に気づいて振り返った。


「おかえり」


 いつもと同じはずの我が家に、貴族のような仰々しい服装をしたとびきりの美しい男がいて、自分におかえりと微笑んでいるその絵面が、エリザには不思議だった。


「……あ、えっと、……ただいま」

「食事の用意は出来ているから、早く座れ」


 見ると、木が剝き出しだったはずのテーブルの上には白いクロスがかけられていて、白いお皿の横にはカトラリーがきちんと置かれている。


 ……お金持ちが行くレストランみたい。

 

 外から中を覗いては溜息を吐いていた大通りのレストランを思い出しながら、エリザが席に着こうと椅子の背に手を伸ばすと、アシュリーがそれを制した。

 代わりに静かに椅子を引いたアシュリーが、エリザを見て微笑む。

 その意図を理解したエリザが、顔を赤くしながら椅子の前で軽く腰を屈めると、アシュリーがそれに合わせて椅子を動かした。


 下町で生まれ育ったエリザは、男性にこんなことをされるのは生まれて初めてだった。

 エリザは顔を赤くしながらアシュリーの後姿を目で追っていた。


 アシュリーが料理を盛った皿をエリザの前に置くと、白い湯気が立ち上って美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。


「美味しそう! これ、何て言うお料理? あなたが作ったの?」

「鶏のフリカッセ、……まあクリーム煮だな。炒めて煮るだけだから誰にでも出来る」


 話をしながらアシュリーは自分の分も用意して席に着き、大したことじゃないと肩を竦めた。そして言葉とは裏腹に、少し鼻高気に目の前に置いてあったグラスを手に取ってワインを飲んだ。

 あんなワイングラス、我が家にあったかしらと首を傾げながら、エリザはアシュリー作のフリカッセをスプーンですくって一口食べてみた。


「美味しい! こんな美味しいお料理初めて! あなたってすごいのね!」

「そうだろうそうだろう」

「……ちょっと待って」


 二口目を食べたエリザが、ぴたりと動きを止めて、ドヤ顔で自分を見ているアシュリーを見た。


「これ、どうしたの?」

「だから、俺が作ったんだ」

「そうじゃなくて、この食材よ。……こんな鶏肉も野菜もパンも、この花も、そのワインも、何ならそのワイングラスも、うちには無かったはずよ」


 エリザの質問を理解したアシュリーが、小さく顔を縦に振りながら答えた。


「ああ、市場の女達が持って来たんだ」

「どういうこと?」

「美しい俺の気を引こうと、女達がこぞって贈り物を持って来たんだ」


 唖然とするエリザに、アシュリーは市場でのことを楽しそうに話し始めた。

 黙って話を聞いていたエリザは、やがて席を立って自分の鞄から小袋を取り出すと、それをアシュリーの前に置いた。


「馬鹿なことを言っていないで、明日ちゃんとお金を支払ってきて」


 アシュリーは笑いながら、その小袋をエリザの方に押し返した。


「必要ない。貰ってやった方が喜ぶんだ」

「わたしの言うことが聞けないのなら、ここから出て行って」


 アシュリーは、急に態度を変えて強い口調で言い放つエリザにたじろいだ。

 けれど、この青痣のある顔では他の貴婦人のもとに行くわけにもいかず、アシュリーは納得いかないながらも渋々エリザの言うことを聞くことにした。


 

 

 無言で夕食を終えた後、エリザはテーブルでデザイン画を描いていた。

 時折うなるような声を上げて髪を掻きむしるエリザを、アシュリーは関心が無さそうにちらりと見て、手に持っていた紅茶を一口飲んだ。


 ほんのりと漂ってくる紅茶の甘い香りを不思議に思ったエリザが、鼻をくんくんと動かしながら振り返った。そして一人で優雅に紅茶を飲むアシュリーを見つけて、エリザはあんぐりと口を開けた。


 アシュリーは、コートとウエストコートを脱いで、代わりにガウンを羽織っていた。

 金の絹糸で織られた生地に色鮮やかな絹糸で全面に刺繍を施した、目も眩むような豪華なガウンを着た夢のように美しい男が、我が家でくつろぎながら紅茶を飲んでいる。しかも手にしているのは白磁のティーカップ。


 働き過ぎて寝惚けているのかと、自分の瞼をこすっているエリザに、アシュリーが呑気に微笑みかける。


「……こんな時間に紅茶なんて、よく飲めるわね」

「習慣なんだ。……マダムが、よく寝つけなくて夜にホットミルクを飲んでいたから。俺はホットミルクは好きじゃなくて、いつも紅茶を飲んでいた」


 遠い目をしているアシュリーに、それ以上何も言えなくなったエリザは、黙ってデザイン画に向き直り、また呻き声を上げ始めた。

 それをひょいと横から覗き込んだアシュリーが、デザイン画の端に描かれていた名前に目を留めた。


「……オルコット男爵令嬢? こっちはリットン子爵夫人?」

「ちょっと! 勝手に見ないでよ!」


 アシュリーの視線に気づいたエリザが、慌ててデザイン画を隠そうとしてその上に上半身を伏せた。その腕の隙間からするっとデザイン画を抜き取ったアシュリーが、呆れたように声を上げた。


「……最悪だな」


 エリザがアシュリーの手からデザイン画を奪い返した。


「そんな言い方しなくたっていいでしょ」

「いや、百合の刺繍の入った青いドレスなんて最悪だ」

「……どうしてよ」


 エリザが泣きそうな顔で唇を尖らせた。


「オルコット男爵令嬢は、つい先日、婚約を解消したばかりだ。相手のパーシヴァル子爵令息は青い瞳で、家紋は百合。こんなデザインじゃ、元婚約者に未練たっぷりだと周囲に誤解されても仕方ない」


 そんな貴族の事情など知る由もないエリザが、呆気に取られてアシュリーを見た。


「それにリットン子爵夫人は、生まれつき胸に大きな赤痣があって、本人がすごく気にしているから、こんな胸元が開いたデザインじゃ即却下、やり直しだ」

「……どうしてあなたがそんなことを知っているの?」

「気にするな」


 そう言うと、アシュリーは涼しい顔で紅茶を飲んだ。

 目を閉じて鼻腔に広がる紅茶の香りを堪能したアシュリーが、やがて目を開け、戸惑いながらデザイン画を見ているエリザに視線をやった。


「デザイン自体は悪くないから、ドレスの色を赤にして胸元を同色のレースで覆ったらどうだ? 大柄のレースを上手く配置したら、谷間の痣も隠せるだろうし」

「……谷間? 見たことあるの?」

「細かいことを気にするな」


 唖然とした表情でアシュリーとデザイン画を交互に見ていたエリザは、紅茶の香りを楽しんでいるアシュリーの手から白磁のティーカップを奪い取ると、一気に紅茶を飲み干した。


 そして、ぽかんと口を開けているアシュリーにティーカップを返すと、エリザは再びテーブルに向かい、猛然とペンを動かし始めた。


 ぶつぶつとその後姿に文句を言いながら、アシュリーは空になったティーカップに自分の為のお替わりを注いでいた。

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