5. 空気を読まないナルシスト
数ヶ月前に一度、オペラ座からの帰りに馬車で送っただけだが、エリザの家は覚えていた。
下町にあるそのエリザの家に向かって、アシュリーは必死で駆けていた。
エイベル男爵夫人のあの様子では、エリザに何をするか分からない。
自分が何気なく吐いた言葉のせいで、エリザに害が及ぶかもしれないと考えると、アシュリーは居ても立ってもいられなかった。
エリザは関係ない。あの子はただの仕立て屋だ。
アシュリーが息を切らしながらエリザの家に着くと、中から大きな物音が聞こえた。
やはりここだったかと半開きになっていたドアを開けて入ると、中は灯りが点いておらず薄暗かった。人が揉み合っているような音が聞こえて、アシュリーは目を凝らした。
「やめて! 放して!」
男に手で口を塞がれていたエリザが、男の手を振りほどいてどうにか逃げ出したところを、後ろから髪を掴まれて声を上げていた。
それを見たアシュリーが、思わず男に向かって突進していった。
アシュリーに体当たりされた男が、床に引っ繰り返り、呻き声を上げた。その男の上に馬乗りになったアシュリーが、震えているエリザに向かって叫ぶ。
「早く逃げろ!」
アシュリーがよそ見をした隙を見て、男が下からアシュリーの顔を殴りつけた。よろけたアシュリーの腹を男が蹴り飛ばす。床に転がったアシュリーの胸倉を掴んだ男が腕を振り上げた時、エリザの大声が響いた。
「誰か来てっ! 誰かっ! 助けてっ!」
男は軽く舌打ちすると、アシュリーを突き飛ばし、そのまま駆け出して逃げていった。
エリザは男が出て行ったのを見て、慌ててドアを閉めて鍵をかけた。そして、そのままドアの前にへなへなと座り込んだ。
「……痛いっ! もっと優しくしろ!」
エリザは、アシュリーの殴られて痣になった顔の手当てをしていた。
大事な顔を殴られたアシュリーは気が立っていて、いちいち声を上げ騒いでいた。
「大袈裟ねえ」
「大袈裟じゃない! 俺の顔に傷がついたんだぞ!?」
「……口は達者だけど、喧嘩は強くないのね」
「何か言ったか!?」
「何も」
アシュリーの手当てを終えたエリザは、荒れた部屋の片づけを始めた。
男に襲われて部屋中を逃げ回ったせいで、テーブルも椅子も倒れて、物が散乱していた。
そんな自分を放って黙々と片づけをしているエリザに、アシュリーは腹立たしそうに声をあげる。
「俺の美しい顔に傷がついたのに、どうしてそう平静でいられるんだ!?」
「……そう言われればそうね。あなたって顔だけが取り柄なのに、これからどうするの?」
真顔で心配するエリザにカチンと来たアシュリーは、売り言葉に買い言葉で答えた。
「お前が俺の面倒を見ろ。お前のせいでこうなったんだからな」
「助けてくれなんて頼んでない!」
「うるさい。俺が来なかったらどうなっていたと思ってるんだ」
自分の言葉をエイベル男爵夫人が勘違いしたためにエリザが襲われたことを棚に上げて、アシュリーは偉そうにふんぞり返った。
エリザはそんなアシュリーに呆れて言葉を失くしていたが、以前にも彼に助けてもらったことを思い出して、諦めたように溜息を吐いた。
「分かったわよ。痣が消えるまで、ここに居たらいいわ」
翌朝、アシュリーは耳をつんざくようなエリザの悲鳴で目を覚ました。
「何事だっ!? また誰かが襲ってきたのかっ!?」
ベッドから飛び出したアシュリーを見て、エリザが更に大きな悲鳴を上げた。顔を背けながら、近くにある物を手当たり次第にアシュリーに向かって投げつける。
「……痛っ! 何をするっ!?」
「早く服を着て! どうして裸で寝ているのよ!? 信じられない!」
エリザが投げつけたシーツやコートや帽子やハンカチといった山の中からアシュリーがもぞもぞと顔を出した。
「寝る時は裸に決まっているだろう。服というのは起きている時に着るものだ。仕立て屋のくせにそんなことも知らないのか」
「人の家に泊まる時は服を着なさいよ!」
「気にするな。見られることには慣れている」
「馬鹿なことを言っていないで早く服を着て!」
朝からキンキンと響くエリザの声にうんざりしたアシュリーが、渋々とシャツに腕を通した。むかむかしながら背中を向けて衣擦れの音を聞いていたエリザに、アシュリーが後ろから声を投げる。
「おい、ボタンを留めろ」
「は?」
エリザが振り返ると、アシュリーはベッドの端に腰かけて両足を投げ出していた。
アシュリーは絹の長靴下の上に膝丈の長さのブリーチズを穿いていて、その膝横にある縦に並んだボタンを留めろとエリザに言っているのだった。
「自分で留めなさいよ」
「侍女の仕事だ」
「……一人で着られないような服をどうして着るのよ」
「美しい俺には着飾る義務がある」
「訳の分からないことを言わないで」
腹立ちを感じながらもエリザは、さっさと着替えを終わらせてこの面倒くさい男を追い出そうと、アシュリーの足元にしゃがんでブリーチズのボタンを留め始めた。
前にも助けてもらったし、痣が消えるまでは居ても構わないと昨夜言ったばかりだったが、こんな煩い男にこれ以上関わるのはごめんだとエリザは腹を決めた。
「終わったわ」
エリザが何気なく顔をあげると、そこにはアシュリーの息を呑むほど美しい横顔があった。
これまでにも何度か顔は合わせていたが、窓から入ってくる朝日を受けた髪がきらきらと金色に輝いてアシュリーの顔を彩り、その美しさは神々しい程だった。
エリザの中にあったアシュリーに対する腹立ちはいつの間にか消え去り、今はただその美しさに圧倒されていた。
エリザがブリーチズのボタンを留めている間、アシュリーは部屋の中を見渡していた。
質素な部屋にはベッドが二つとテーブルが一卓と椅子が二脚置いていあるだけだった。親か恋人との二人暮らしかと思ったが、エリザには誰かの帰りを気にする素振りも見られない。
ならば、若い娘が一人でこんな所に住んでいるのかと、アシュリーは自分の足元にしゃがんだままのエリザを見た。
アシュリーの横顔に目を奪われていたエリザは、急に自分に顔を向けたアシュリーの目の周りにある喜劇役者のような青紫の痣に、一瞬吹き出しそうになるのを堪えながら、慌てて横を向いた。
「ねえ、やっぱりあなたみたいなお貴族様にこの家で過ごすのは無理よ。お屋敷に帰った方がいいわ」
「……昨夜の男がまた来るかもしれない。お前一人じゃ心細いだろうから、俺がいてやる」
エリザは言葉に詰まってしまった。
一緒に暮らしていた恩人のベネットさんは病気から回復することなく亡くなってしまい、アシュリーの言う通り、ここには今はエリザ一人だった。
若い女の一人暮らし、まったく不安が無いと言ったら噓になる。
実際に、昨夜はアシュリーがいてくれるというそれだけで妙に安心して眠れた。
もしも昨夜の男がまた襲ってきたら、自分一人でどうしたらいいのか。
エリザは不安に惑いながらアシュリーを見上げた。
アシュリーのドヤ顔が妙に癪に障るが、いないよりはいた方がいいのも事実だった。
「側にいてやるから心配するな」
「……弱いくせに」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
腰かけていたベッドから立ち上がったアシュリーが、ウエストコートを着て、その上にコートを羽織った。
アシュリーの華やかなその姿に、エリザは一度だけ訪れたオペラ座での夢のような時間を思い出した。彼の背後に、あの夜の輝くようなオペラ座と美しく着飾った貴婦人達が見えるような気がした。
けれども冷静になって見れば、アシュリーが今いるのはオペラ座ではなく粗末な我が家で、あまりの場違いさに何故か、乾いた笑いがエリザの口から漏れる。
確かに以前、美しいものを見て目を肥やせとアシュリーに教えられた。
けれど、美しいけれど面倒くさい男には正直言って関わりたくないし、美しいものは遠くから見ているだけで充分と、エリザはちらり横目でアシュリーを見た。
アシュリーはそんなエリザの胸中に気づく様子もなく、手鏡を見ながら髪を整えていた。
これからしばらくはこの男の相手をしなければならないのかと思うと、エリザは先が思いやられるのだった。