4. 恩人との別れ
それから数ヶ月程経って、アシュリーの新しい服が仕立て上がった。
鮮やかな水色のコートの襟や袖口には金糸で精緻な刺繍が施され、白い絹地のウエストコートには同じく金糸をふんだんに使って全面に植物模様を刺繍をした上に、小さな宝石を花の蕾に見立てて縫い込んであり、それは豪華で贅沢な物だった。
アシュリーの美しさを引き立てるようなその仕上がりにウェリントン公爵夫人がたいそう喜んで、エリザに特別に褒美を取らせた。それほどの素晴らしい出来栄えだった。
しかし、せっかくのその服をアシュリーが社交界で披露する日は訪れなかった。
ウェリントン公爵夫人が病の床に就いたのだ。
アシュリーは貴族令嬢達からのすべての誘いを断り、ひたすらウェリントン公爵夫人の看病をしていた。
彼は、薔薇が好きなウェリントン公爵夫人の為に、毎朝摘みたての朝露に濡れた薔薇で部屋を飾った。そして弱ったウェリントン公爵夫人の体を支えながら薬を飲ませ、痩せ衰えた小さな手を握っては励ましの声をかけ続けた。
けれど、アシュリーの献身の甲斐もなく、ウェリントン公爵夫人は日に日に弱っていった。
少しずつ意識の無い時間が増えたウェリントン公爵夫人の傍らに、憔悴したアシュリーがいた。
幾晩も眠らずに寄り添っているアシュリーは、眠っているウェリントン公爵夫人の手を取り、骨の浮き出たその甲にすがるように口づけた。
アシュリーにとってウェリントン公爵夫人は掛けがえの無い人だった。
身寄りのない自分を引き取って育ててくれた、優しく温かい母のような存在だった。
その大切な人が、今まさに永遠に自分から離れていこうとしている。
アシュリーの胸は張り裂けそうだった。
「……」
祈るようにウェリントン公爵夫人の手を握っていたアシュリーの耳に、かすかな声が聞こえた。
アシュリーが顔を上げると、うっすらと目を開けたウェリントン公爵夫人がこちらを見て優しく微笑んでいた。
ベッドの傍らに膝をついていたアシュリーが、数日ぶりのその目覚めに喜んで立ち上がろうとすると、ベッドの上に置かれていた彼の手を、すっかり肉が落ちたウェリントン公爵夫人の手が握った。
その弱弱しさにショックを受けているアシュリーの耳に、追い打ちをかけるようなウェリントン公爵夫人の声が響く。
「マクシミリアン」
それは、ウェリントン公爵夫人の実の子の名前だった。
それを聞いたアシュリーの表情が固まった。
「愛しているわ、マクシミリアン。わたくしの愛しい子」
立ち上がりかけて中腰になっていたアシュリーが呆然として、ふらふらとウェリントン公爵夫人の傍らに再び膝をついた。言葉を失くして、見開いた目を揺らしながら、ただウェリントン公爵夫人を見つめている。
「マクシミリアン、愛しているわ」
ウェリントン公爵夫人が消え入りそうな声で息子の名前を呼びながら、アシュリーの頬に触れた。
無言でそれを見ていたアシュリーが、しばらくして意を決したようにウェリントン公爵夫人を見た。そして自分の頬に触れているウェリントン公爵夫人の手を取ると、それを大切そうに両手で包みながら微笑んだ。
「私もあなたを愛しています、……母上」
アシュリーは、その言葉に満たされたように静かに瞼を閉じるウェリントン公爵夫人を黙って見つめていた。
そしてそのままウェリントン公爵夫人は永遠の眠りについた。
「……さようなら、母上」
まるで眠るように旅立ったウェリントン公爵夫人の顔を覗き込んだアシュリーの目から涙が溢れる。それはアシュリーの頬を伝い、ウェリントン公爵夫人の頬を濡らした。
自分の涙で濡れたウェリントン公爵夫人の顔に頬を摺り寄せて、アシュリーは声を殺して泣き続けた。
翌日、アシュリーは亡くなった先代ウェリントン公爵夫人の実子であるウェリントン公爵に呼び出された。
ウェリントン公爵は普段は本邸で暮らしており、この別邸を訪れるのは年に数回、季節の変わり目に実母に挨拶をするときだけだった。
「失礼致します」
ドアに背を向けて窓から庭を眺めていたウェリントン公爵は、アシュリーが部屋に入ってくるとゆっくりと振り返った。
濃い金色の髪にブルーグレイの瞳というウェリントン公爵のその容貌は、亡くなったその母によく似ていて、それが思わずアシュリーの目を潤ませる。
けれど、今際の際に自分ではなく実子の名を呼んだマダムの顔が脳裏に浮かび、それがアシュリーの胸に影を落とした。
そんなアシュリーの胸中を知らずに、ウェリントン公爵は穏やかに彼を見つめ、その口を開いた。
「お前を呼んだのは他でもない。今日限りでこの屋敷を出て行ってもらいたい」
アシュリーは自分でも意外なほど冷静にその言葉を受け止めていた。
「お前を母上の葬儀に参列させる訳にはいかないし、母上亡き今、お前をここに置き続けることも出来ない」
それは覚悟していた事だった。
亡きウェリントン公爵夫人の実子でもなく、公には愛人という立場のアシュリーは、主のいなくなった屋敷に留まることは許されない。
けれど頭では理解していても、心から慕っていたウェリントン公爵夫人を亡くしたばかりのアシュリーにはつらいことだった。
無言でうつむいているアシュリーに、ウェリントン公爵が言葉を続ける。
「お前が長年に渡り、母上に尽くしてくれたことは決して忘れない。お前の存在に母上はどれほど救われたことだろう。お前のこれまでの奉公に見合うだけの給金を用意した。それと、母上がお前に与えた物はすべてお前の物だ。持って行くが良い」
六歳の時に引き取られて以来ずっと過ごした場所。ウェリントン公爵夫人とのたくさんの思い出の残る場所。振り返ればまだそこにウェリントン公爵夫人の姿が見えるような気がする。
それでも自分がここに居ることは許されないのだと、アシュリーは静かに目を閉じた。
「閣下のお心遣いに感謝致します。長い間、お世話になりました」
アシュリーはウェリントン公爵に深く頭を下げて、部屋を後にした。
その日のうちにウェリントン公爵家別邸を離れたアシュリーは、特に行く当てもなく、ぼんやりと広場の噴水の縁に腰をかけていた。
屋敷に住まわせることは出来ないが、部屋はそのまま残しておくから好きな時に荷物を取りに来て構わないというウェリントン公爵の言葉に甘えて、わずかな荷物だけを手にして屋敷を出たのだった。
いつかはこんな日が来ることは分かっていたが、それでもウェリントン公爵夫人と離れるのがつらくて想像することすら避けていたアシュリーは、半ば放心状態でそこにいた。
「……これから、どうしようか。当ては無いことは無いが、気が重い」
母のように慕っていたウェリントン公爵夫人を亡くしたばかりで、他の女性の所へ行く気にはなれなかった。浮ついた遊びは、今は煩わしく思えた。
「とは言え、いつまでもこんな所にいる訳にもいかないし。仕方ない、どこか宿でも探すか」
ぶつぶつと独り言を零しながらアシュリーが立ち上がると、目の前に一台の馬車が停まった。
それを怪訝な顔でアシュリーが見ていると、ドアが開いて中からゆっくりと女性が降りてきた。
うねりのある黒髪に黒い瞳、それはオペラ座で何度もアシュリーを待ち伏せ、誘いをかけてきたエイベル男爵夫人だった。
何故こんな所にいきなり現れるのかと、呆気に取られているアシュリーの手を取ったエイベル男爵夫人は、真っ赤な唇の口角を上げて弾むような声をあげた。
「この日を待っていたのよ、アシュリー。これでやっとわたくしの所へ来てくれるわね?」
まるで不幸を待っていたかのような言い草に顔をしかめたアシュリーは、冷たい目でエイベル男爵夫人を見下ろした。
「いいえ。残念ながら、私を待っている可愛い人がいるのです」
行く気は無いが、来て欲しいと望む女は星の数ほどいる。
アシュリーは目の前にいる面倒な相手を追い払おうとして、適当な言葉を吐いて、エイベル男爵夫人から顔を背けた。
さっさと消えてくれと心の中でぼやくアシュリーを、エイベル男爵夫人が恨めしそうに睨む。
「……可愛い人……この前の、あの女のことね? あの女がわたくしの邪魔をするのね?」
適当に言った自分の言葉を勘違いした様子のエイベル男爵夫人に、アシュリーは小首を傾げた。
「エイベル男爵夫人?」
「あの女さえ消えてしまえばいいのね?」
「……え? ……何の話を? ……エイベル男爵夫人!?」
焦点の合わない目で、エイベル男爵夫人はふらふらと馬車に乗り込んだ。
雲行きの怪しさを感じたアシュリーが慌てて引き留めようとするが、馬車は猛烈な勢いで走り出して行った。
呆然とそれを見送ったアシュリーは、エイベル男爵夫人の残した言葉を思い出していた。
「……この前の、あの女? 誰のことを言ってるんだ?」
恋の相手に不自由したことの無いアシュリーには、思い当たる女性が多過ぎた。
エイベル男爵夫人と最後に会ったのはいつだったかと、アシュリーは首を捻りながら考えていた。
そして、あっと声を上げたアシュリーの脳裏に浮かんだのは、オペラ座で自分の横で微笑んでいたエリザの顔だった。
「……まさか、エリザ!?」
アシュリーの足はエリザの家へ向かって駆け出していた。