3. 気まぐれな蝶
しばらくしてエリザが、出来上がったアシュリーの新しい服のデザイン画を持って再びウェリントン公爵家別邸を訪れた。
しかしアシュリーが客間へ行くと、そこには難しい顔をして長椅子に腰かけているウェリントン公爵夫人と、今にも泣きそうな顔をしたエリザがいた。
「どうしました? 何か問題でもあったのですか?」
微妙な空気を察したアシュリーが、あえて極上の笑顔でウェリントン公爵夫人に尋ねた。
そんなアシュリーにウェリントン公爵夫人は困ったように軽く頭を振りながら、手に持っていたデザイン画をテーブルの上に置いた。
「腕は良いらしいけど、店主が病気から回復するまで待つべきかしらね」
テーブルの上に置かれたデザイン画に目を落としたアシュリーが、唖然とした表情でウェリントン公爵夫人とエリザを見た。その様子を見たウェリントン公爵夫人が肩を竦める。
「アシュリー、どうするかはあなたに任せるわ。延期するも別な店に変えるも、あなた次第よ」
そう言ってウェリントン公爵夫人は侍女に体を支えられながら立ち上がり、ゆっくりと部屋を出て行った。
アシュリーはウェリントン公爵夫人を見送ると、テーブルの上に置かれていたデザイン画を手に取った。
そこに描かれていたのは、特徴のない黒の無地のコートに白のウエストコートという、普段のアシュリーの服装からすると有り得ないほど地味なものだった。
よくもこんな酷いデザイン画を平気で持って来たものだと、アシュリーは呆れながらその場に立ち尽くしているエリザを見た。
エリザは、ほんの数日前にアシュリーの喉元にペン先を突き付けたのと同一人物とは思えないほど、その身を小さくして怯えたような目でこちらを見ていた。
「……いつもの店に頼むことにする。それを持ってさっさと帰れ」
アシュリーは手に持っていたデザイン画を手から離した。ひらりと床に落ちたデザイン画を慌てて拾い上げたエリザが、アシュリーを見上げてまるで食らいつくように口を開いた。
「どこがお気に召しませんか!? 生地は最高級の物を使わせて頂きます!」
「当たり前だ」
吐き捨てるように言い放ったアシュリーが、冷たくエリザを見下ろした。
「お前の目はどこについている。この俺の、この美しい顔が見えないのか? この俺に、こんな執事みたいな地味な服を着せる気か?」
混乱した様子で瞳を揺らすエリザを、アシュリーが面倒くさげに手で追い払う。
「理解出来ないのなら、お前に用は無い。さっさと出ていけ」
そう言うとアシュリーは長椅子にどさっと腰をかけて、長い脚を組んだ。背もたれに腕を乗せながら、呆然とした表情で床に膝をついているエリザを冷ややかに見下ろしていた。
瞳を揺らして今にも泣きそうな顔をしていたエリザは、突然、キッと強い目でアシュリーを見たかと思うと、彼の足元にすがりついた。
「お願いします! 一度だけわたしにチャンスを下さい!」
いきなり足にすがりつかれたアシュリーが、不快そうにその足を払い、エリザの体を突き放した。体をよろけさせたエリザはそれでも諦めきれない様子で、再びアシュリーの足にすがりついた。
「お願いします! もう一度だけ! この仕事を無くしたら本当に困るんです!」
「俺には関係ない」
「今度は絶対にお気に召すようなデザイン画を描いてきますから!」
「しつこい!」
苛立たし気に長椅子から立ち上がったアシュリーは、エリザを睨みつけた。
目に涙を溜めながら自分を見上げるエリザを煩わしく感じたアシュリーは、無言でドアに向かって歩き出した。無情なその背中に向かって、なおもエリザが声を張り上げる。
「ベネットさんは孤児だったわたしを拾ってくれた恩人なんです! この仕事がダメになったらお店が潰れてしまう!」
その悲鳴のようなエリザの声に、アシュリーがぴたりと歩みを止めた。
ドアの前で立ち止まったアシュリーは、ゆっくりと振り返ってエリザを見た。
「……孤児、だったのを拾ってくれた? ……恩人?」
アシュリーの表情が変わったことに気づく余裕もないエリザが、すがるように言葉を続けた。
「ええ、そうよ。孤児だったわたしをベネットさんが拾って育ててくれたの。一人でも生きていけるようにって縫物も教えてくれた。でも、ベネットさんが病気で倒れてから、他のお針子は引き抜きにあって皆いなくなってしまって、この仕事がダメになったらお店が潰れてしまうわ」
アシュリーの美しい顔がみるみる曇っていった。
「何でもします! だから、お願い! もう一度だけ、わたしにチャンスを下さい!」
まっすぐに自分を見るエリザの緑の瞳を見たアシュリーは、忌々しそうに髪を搔きむしると、彼女のもとへ歩いて行った。そして床に膝をついているエリザを見下ろすと、面倒くさげに溜息を吐いた。
「……一度だけ、チャンスをやる」
ぱっと顔を輝かせたエリザを無視して、アシュリーはテーブルの上に置いてあった真鍮製のベルを手に取って鳴らした。
そしてベルの音を聞きつけて部屋に入って来た侍女に、エリザを顎で指し示した。
「この娘を、外に連れて行っても恥ずかしくないよう整えてくれ」
呆気に取られるエリザを、侍女たちがまるで引き立てるように部屋から連れ出して行った。
その日の夜、アシュリーはエリザを連れてオペラ座を訪れていた。
エリザはウェリントン公爵家の侍女達によって磨き上げられ、ドレスに着替えさせられ、髪を結い上げられて化粧を施されていた。
地味な仕立て屋のエリザはもはやどこにもおらず、見事にいっぱしの令嬢に姿を変えていた。
そんな初めて目にするどこかの令嬢が、アシュリーと同じ馬車から降りてきたことに周囲はざわついていたが、初めてのオペラ座に舞い上がっているエリザには、そんなことを気づく余裕は無かった。
ただの町の仕立て屋に過ぎないエリザには、オペラ座は別世界だった。
絢爛豪華な建物はたくさんの照明で飾られて眩く、集まった貴族の令嬢達のドレスはまるで砂糖菓子のように色鮮やかで美しかった。
裕福な商人の娘のドレスなら何度か手掛けたことはあったが、それとは比べ物にならないほど目の前にいる貴族の令嬢達のドレスは繊細で豪華で美しかった。
初めて目にする貴族の世界に、エリザは圧倒されてぽかんと口を開けていた。
そんなエリザを肘で小突きながらアシュリーが小声で耳打ちする。
「そのみっともない口を閉じろ」
慌てて口を閉じたエリザに、アシュリーが言葉を続けた。
「お前のデザインは退屈すぎる。ここには、流行の最先端が集まっている。死ぬ気で吸収して自分の物にしろ」
華やかな空気に飲まれていたエリザが、はっとした顔でアシュリーを見た。
そしてすぐに気を引き締めて、周りにいる貴族の令嬢達のドレスや、それをエスコートしている男性達の服装を食い入るように観察し始めた。
アシュリーは、そんなエリザの手を取ってエスコートしながら、声をかけてくる令嬢達を優雅にあしらっていた。
そして支配人に案内されて二階にある貴賓室にエリザと二人で入ろうとしていたところに、物陰に隠れていたエイベル男爵夫人がいそいそと駆け寄ってきた。
「アシュリー」
先日のクリスティ伯爵夫人の言葉を思い出したアシュリーは、少し警戒しながらも、いつものように美しい顔に笑みを浮かべて応えた。
「これは、エイベル男爵夫人。御機嫌よう」
アシュリーが自分のことを覚えていたのが余程嬉しかったのか、エイベル男爵夫人はパッと顔を輝かせた。
ついさっきまでは機嫌を窺うようにおどおどと上目遣いだったのが、急に馴れ馴れしい目つきに変わり、今はアシュリーをまるで嘗め回すように見ている。
そしてエリザを無視したエイベル男爵夫人は、不躾にアシュリーの手を取って自分の頬をこすりつけた。
「ねえ、アシュリー。わたくしの席に来て? 今宵はわたくしと一緒に楽しみましょう?」
それに他人行儀ににっこりと微笑んだアシュリーは、エイベル男爵夫人の手を自分の手から離すと、呆気に取られた顔で見ているエリザの手を取った。
「申し訳ありませんが、今夜はこちらの可愛らしい方と先に約束しておりますので」
ちらりと支配人に視線をやったアシュリーは、悔しそうにエリザを睨みつけるエイベル男爵夫人をその場に残して、エリザと二人で貴賓室へ入った。
エイベル男爵夫人の自分を見る目つきに薄ら恐怖を感じたエリザは、ドアの向こうが気になって何度も後ろを振り返っている。
「ドアなんかどうでもいいから、前を見ろ」
無愛想なアシュリーの声に急かされてエリザが振り向くと、奥にある手すりの向こうには華やかな別世界が広がっていた。
優雅に舞う大勢の天使が描かれた天井からはクリスタルの大シャンデリアが垂れ下がり、各階の柱やバルコニーなど装飾の細部に至るまで黄金が使われている。
眼下の一階席の平土間には裕福な商家の令嬢、同じ二階の席には貴族の令嬢達が着飾って真っ赤なベルベットの席に座っているのが見える。
エリザには、自分がまるで夢の中にいるように思われた。
ほうっと思わず溜息を漏らすエリザに、アシュリーが呆れたような声を投げる。
「お前、遊びにでも来たつもりか?」
我に返ったエリザが慌ててアシュリーを見ると、すぐ横にあるテーブルを見ろと言わんばかりに彼は顎で指示していた。そのテーブルの上には、数枚の紙とペンとインク壺が置いてあった。アシュリーが支配人に命じて準備させたものだった。
エリザは、はっとした表情を浮かべた後すぐに椅子に座った。そしてテーブルに向かい、猛烈ないきおいで紙に何やら書きこみ始めた。
そのエリザの横の椅子に腰かけたアシュリーは、何気なく正面の舞台に視線をやろうとして、ふと妙な気配を感じた。
嫌な予感を感じながら見ると、そこには手すりから身を乗り出すようにしてエリザを見ているエイベル男爵夫人がいた。
さすがにそれにはアシュリーもうんざりして長い溜息を吐いた。
そして視線を遮るようにエイベル男爵夫人に背を向けて手すりに肘を乗せると、夢中になって紙に書き込んでいるエリザの顔を覗き込んだ。
「もっと美しいものをたくさん見て目を肥やせ。お前には遊び心が足りない」
その言葉に顔をあげたエリザが、鮮やかな緑の瞳でじっとアシュリーを見つめた。
「……あなたって良い人ね」
「はあ?」
「わたしみたいな小娘なんて切り捨てて他の大きな店に任せれば済むのに、わざわざこんな所まで連れて来てくれて。そんなことまで教えてくれるなんて。あなたって本当に良い人ね。……ありがとう」
はにかみながら礼を言うエリザに、まるで興味無さそうに肩を竦めたアシュリーは、再び視線を正面の舞台に戻した。
舞台の上は、いつのまにか幕が上がっていた。