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蝶の詩  作者: 雲英
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2. 悪戯の反応

 クリスティ伯爵夫人と一夜を共にしたアシュリーは、翌朝にはいつものようにウェリントン公爵家別邸に戻っていた。


 彼はウェリントン公爵夫人と過ごす時間を何よりも大切にしていた。

 例えどこぞの令嬢と夢のような一時を過ごしていたとしても、ウェリントン公爵夫人との食事の時間には決して遅れることは無かった。


 ウェリントン公爵家は一人息子が既に成人して爵位を継いでおり、先代公爵夫人であるマダムは息子夫婦と離れて別邸で暮らしていた。


 アシュリーは六歳の時から、そのウェリントン公爵家別邸に住んでいた。

 年老いたウェリントン公爵夫人を母のように慕う彼は、食事は必ず一緒に取り、庭を散歩する時は足の弱ったウェリントン公爵夫人の杖がわりになって支えていた。

 また、眠りの浅いウェリントン公爵夫人に付き合って夜通し話をしていることも度々あった。


 一歩屋敷の外に出れば、高齢の夫人の年若い愛人と色めいて噂されるアシュリーだったが、屋敷の中では使用人も驚くほどの献身ぶりだった。



 食事の間には、ウェリントン公爵夫人とアシュリーの二人分のカトラリーが既にテーブルの上に準備されていた。

 先に席に着いていたウェリントン公爵夫人が、空いているアシュリーの席をちらりと見て、傍らに控えている侍女に尋ねた。


「アシュリーはまだ眠っているの?」


 侍女がそれに答えようと口を開きかけた時、ドアが勢いよく開いてアシュリーが入って来た。


 アシュリーは両手にいっぱいの淡いピンク色の薔薇を抱えていた。

 驚くウェリントン公爵夫人の前に歩み寄ったアシュリーは、その美しい顔に満面の笑みを浮かべて手に抱えた薔薇を見せた。


「朝露を受けてとても綺麗に咲いていたので、どうしてもマダムにお見せしたくて切ってきました。薔薇はお好きでしょう?」

「まあ、アシュリーったら」


 目を細めて頬の皺を増やしながらウェリントン公爵夫人は、アシュリーと薔薇を交互に見ている。

 そしてその薔薇の香りを確かめるように深く嗅ぎながら、ぽつりと呟いた。


「アシュリー、無理をしてわたくしに付き合わなくても良いのよ。わたくしは、あなたを籠の鳥にする気はないわ」


 その言葉に唖然として目を見開いたアシュリーが、薔薇を手にしたままウェリントン公爵夫人の前に膝をついた。


「いいえいいえ、決して無理などしていません。私が望んでしているのです」

「あなたにはもう充分に尽くしてもらったわ」

「……あの時マダムに拾って頂かなければ、今頃私はどうなっていたことか。御恩は忘れません。どうか一生お側にいさせて下さい」


 すがるように見上げるアシュリーの絹のような髪を、ウェリントン公爵夫人がそっと手を伸ばして撫でた。


「わたくしの可愛い子」


 その言葉にアシュリーが嬉しそうに微笑み、そして自分の頬に触れているウェリントン公爵夫人の手を取って、その甲に唇を当てた。

 それを見ていたウェリントン公爵夫人の視線が止まった。


「アシュリー、あなた、指から血が出ているわ。薔薇の棘が刺さったのね」


 すぐに傍らにいた侍女にアシュリーの手当てをさせて、その後、二人はいつものように和やかに会話をしながら食事を始めた。

 そしてウェリントン公爵夫人が、お気に入りの紅茶を飲みながら思い出したように口を開いた。


「そうだわ、午後に仕立て屋が来ることになっているのよ。アシュリー、ずっと看病をしてくれていたお礼に、あなたに素敵な服を作ってあげましょうね」





 昼過ぎにアシュリーがウェリントン公爵夫人に呼ばれて客間へ行くと、すでに仕立て屋が来ていた。


 いつもの白髪頭の体格のいい仕立て屋が来るものとばかり思っていたアシュリーは、長椅子に腰かけているウェリントン公爵夫人の前に立っている若い娘を怪訝そうに見た。

 ウェリントン公爵夫人の様子から、その娘が今回依頼した仕立て屋らしかった。


 その娘はアシュリーよりも一つ二つ年下のようだった。

 何の装飾も無い地味な黒い服を着て、赤茶けた髪を無造作に一つにまとめている。化粧っ気のない顔は痩せ過ぎて頬が少しこけて見えた。


 こんな野暮ったい娘に自分の服が仕立てられるのかと疑いの目を向けるアシュリーに気がついたのか、ウェリントン公爵夫人が口を開いた。


「最近、都で評判になっている仕立て屋らしいの。この子は、店主が急病で来られなくなった代わりだそうよ」

「エリザと申します」


 エリザはアシュリーの方へ体の向きを変えて挨拶した。

 顔を上げてまっすぐに自分を見るそのエリザの態度に、アシュリーは不思議な感覚を覚えた。

 その地味な容貌とは不釣り合いなほどに澄んだ鮮やかな緑の瞳は、きらきらと輝いていた。


 社交界の華であるアシュリーは、どこへ行っても常に貴婦人達に囲まれていた。

 アシュリーは、貴婦人達から憧れの眼差しで見られることに慣れていて、皆がどうにかして自分の気を引こうとするのが、彼にとっては当たり前だった。

 けれど、このエリザの目はそれとは違っていた。

 

 他の貴婦人達のように、自分を前にして恥じらうことも、顔を赤らめながら見惚れることもなければ、挙動不審になることもない。

 きらきらと目を輝かせているのに、その目はアシュリーを見ていなかった。

 それがアシュリーの自尊心をくすぐり、悪戯心に火を点けた。

 アシュリーは退屈していた。



 ウェリントン公爵夫人が後は任せたと言って、侍女に体を支えられて客間を出て行き、そこにはアシュリーとエリザの二人が残された。

 エリザはアシュリーを立たせて、彼の肩幅や袖丈などの寸法を測り、それを紙に書き留めていた。

 

 アシュリーは真剣な表情で巻き尺を手にしているエリザを、どうやってからかってやろうと密かにほくそ笑みながら考えていた。退屈していたアシュリーには、エリザは丁度良いからかい相手だった。


 そして前身頃を測ろうと自分の正面に来たエリザの首筋に、待ち構えていたアシュリーがふうっと甘い息を吹きかけた。

 顔を真っ赤にして自分を見るかと思いきや、エリザはそんなアシュリーに目もくれずに、ぶつぶつと独り言を言いながらテーブルの上に置いた紙に寸法を書き込んでいる。


 それならばと、アシュリーは今度は腕回りを測り始めたエリザの体をその腕でぐいっと自分の方へ抱き寄せた。

 その瞬間のエリザの表情をアシュリーは見逃さなかった。

 彼女は煩わしそうに軽く顔をしかめたのだった。


 アシュリーはもっと身分の高い女性にすら、こんな顔をされたことは無かった。

 初めて味わうその屈辱に困惑して、アシュリーは眉をひそめた。


 この女は何だ? この俺の美しさが分からないのか?

 ……ならば、力づくでも分からせてやる。


 アシュリーは測った寸法を紙に書き終えて振り返ったエリザの顔を両手で挟み、そしてそのまま唇を重ねた。


 こんな地味な娘には自分のような美しい男とキスを交わす機会など二度と無いだろうと、老婆心で長めにキスをくれてやったアシュリーは、やがてゆっくりと唇を離した。

 エリザの恍惚とした顔でも眺めてやろうと、ドヤ顔で目を開けたアシュリーが「うっ」と小さな声を漏らした。


 アシュリーの白い喉元に、エリザが鋭く尖ったペン先を突き付けていた。


「……な、何を、する気だ?」

「それはこっちの台詞よ。さっきから邪魔ばっかりして。子供じゃあるまいし、ちょっとの時間もじっとしていられないの?」


 痩せぎすの体にギラギラとした目は妙に迫力があった。

 圧倒されて言葉を失っているアシュリーを無視して、すべての寸法を測り終えたエリザはさっさと片づけを始めた。

 そして荷物をまとめると、一礼して部屋を出て行った。


 アシュリーはぽかんと口を開けたまま、その後ろ姿を見ていたが、やがて気を取り直してドアに向かって叫んだ。


「何なんだ、あの女は!? あれでも女か!? 俺の美しさが分からないなんて! あんな女に俺の服が作れるのか!?」

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