10. 桜草の咲く丘
やがて季節が廻り、暖かい春が来た。
アシュリーはお腹の大きくなったエリザと二人で、桜草の咲き乱れる丘に来ていた。
淡いピンクの花の中に寝転んだエリザのお腹を愛おしげに撫でながら、アシュリーは彼女の頬に口づけた。
エリザは嬉しそうに微笑みながらアシュリーを見つめている。
「わたしね、孤児だったから、ずっと幸せな家庭に憧れていたの」
アシュリーはエリザの鮮やかな緑の瞳を見つめながら耳を傾けていた。
「ねえ、たくさん子供が欲しいわ。あなたによく似た子が。たくさんの子供達とあなたに囲まれて、いつまでも幸せに暮らしたい」
「たくさん? その細い体で?」
軽く目を見開いたアシュリーに、エリザが口を尖らせながら答える。
「頑丈なのが取り柄だから、大丈夫よ」
「じゃあ、俺はせっせと美味しい料理でも作るかな。愛する妻と可愛い子供達のために」
視線を絡ませ合ったアシュリーとエリザは、どちらからともなく顔を近づけて唇を重ねた。
満開の桜草がさわさわと風に揺れる中で、二人はその優しい香りに包まれて、穏やかな時間を過ごしていた。
「……風が出てきた。冷えるといけないから、そろそろ帰ろう」
「そうね」
アシュリーの手を借りて、エリザはゆっくりと立ち上がった。
名残惜しそうに桜草を見ているエリザの傍らに寄り添ったアシュリーが、彼女の肩に肩掛けをかけた。
幸せそうに微笑みながらエリザはアシュリーを見上げて、それに気づいたアシュリーがそっと腕の中にエリザを包んだ。そして、こつんと自分の頭をエリザの頭にくっつけて目を閉じた。
アシュリーは幸せだった。
生まれてきて良かったと心から思えた。
腕の中のエリザの温もりを感じながら、アシュリーは幸せを噛み締めていた。
ドンッ。
エリザをその腕の中に包んで幸せに浸っていたアシュリーが、突然、体に強い衝撃を感じて目を開けた。
目の前には、不気味に吊り上がった真っ赤な唇があった。
「……え? クリスティ伯爵夫人?」
アシュリーは、エリザの肩越しに突然現れたクリスティ伯爵夫人の顔を呆然と見ていた。
クリスティ伯爵夫人は眉を吊り上げて目を見開いたまま、アシュリーの目を覗き込んでいる。アシュリーはその恐怖に声を失った。
「あなたがいけないのよ、アシュリー。いつまでもわたくしを蔑ろにするから」
一歩ずつ後ろに下がりながら、クリスティ伯爵夫人が真っ白な顔を歪めた。
アシュリーから視線を逸らすことなく、じりじりと後ろに下がったクリスティ伯爵夫人が、やがて高らかな笑い声をあげて身を翻して走り去っていった。
何が起きたのか分からずに呆気に取られていたアシュリーは、クリスティ伯爵夫人の姿が見えなくなるとやっと我に返った。
その時、腕に抱いていたエリザの体が、ずるっと力を無くして崩れた。
「……エリザ?」
慌ててエリザの体を支えたアシュリーが、指先に何かぬるっとしたものを感じて不思議に思いながら見ると、エリザの体を支えていた手が真っ赤に染まっていた。
エリザの後ろの足元に、血に染まったナイフが落ちていた。
「エリザ!!」
真っ青な顔をしたエリザが、がくっとその場に膝をついた。その周りの地面がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「……ア、シュリー……」
「エリザ!! すぐに医者を!」
「……待って……、行か、ないで」
駆け出そうとするアシュリーの腕をエリザが掴む。
「ここに、いて。……どこにも、行かないで。アシュリー、お願いよ」
エリザの目尻から一筋の涙が流れる。
アシュリーはエリザの体を抱きかかえながら、その手を握りしめた。
「エリザ! どこにも行かない! ここに、君の側にいる!」
弱弱しく微笑んだエリザが、震える手でアシュリーの頬に触れた。
「……愛しているわ、アシュリー。あなただけよ」
「俺もだ、エリザ。心から君を愛している。君だけだ」
アシュリーの目から涙が溢れる。
涙に濡れた瞳でエリザを見つめながら、アシュリーは自分の頬に触れるエリザの手を取り、強く押し当てるように口づけた。
「エリザ、俺を置いていかないでくれ。お願いだ。離れたくない。……君が、もしも君が行くなら俺も一緒に行く」
「いいえ、だめよ」
苦しそうに息をしながらエリザは小さく首を振った。
「わたしは精一杯生きたわ。あなたに出会って心から愛した。あなたの腕の中で行けるなんて幸せ」
アシュリーの目から次から次に溢れる涙がエリザの頬を濡らす。
泣きじゃくるアシュリーの頬にそっと触れたエリザが、微かに微笑んだ。
「アシュリー、あなたも精一杯生きて。もう一度、誰かを愛して、愛されて生きるのよ。こんな絶望の中で、あなたの人生を終わらせないで。いつか幸せな気持ちでわたし達に会いに来て。それまでずっと待っているから」
ふぅーっと息を吐いたエリザが、その鮮やかな緑の瞳で愛おしそうにアシュリーを見つめた。
「アシュリー、愛しているわ」
震える手でアシュリーの顔を引き寄せたエリザは、血の気の失せた唇をアシュリーの唇に重ねて、そして静かに瞼を閉じた。
次第に冷たくなっていくエリザの唇に、諦めきれずに唇を重ねていたアシュリーは、やがて嗚咽をあげながら唇を離した。
「エリザ! 嫌だ! 置いていかないで! 目を開けて、もう一度、俺を見て……! エリザ!!」
もう動かないエリザの体を抱きながら、アシュリーが悲痛な叫び声をあげた。
それから月日が流れ、何度目かの桜草が咲いた。
満開の桜草の咲き誇る丘にある小さな墓碑の前に、男が一人立っていた。
聖職者がまとう黒いキャソックを着たその男は、淡い金色の髪を風に揺らしながら、墓碑に向かって話しかけていた。
「神父様~! お客様が来てるよ!」
子供が息を切らしながら丘を駆けあがって来て、墓碑の前にいる男に抱きついた。
「客? 私に? ……誰だろう?」
男は、自分の足に抱きついていた子供を腕に抱えて歩き出した。
丘を下ってすぐの所に小さな教会が立っていた。
その教会の横には孤児院が併設されており、庭を駆けまわる子供達の賑やかな声が通りにまで響き渡っている。
「あ、神父様。あの人だよ」
教会の前に一台の馬車が停まっていて、高貴な身なりの男性が既に馬車を降り、通りに立って男を待っていた。
濃い金色の髪にブルーグレイの瞳。かつて母のように慕った人に良く似た容貌。
そこにいたのはウェリントン公爵だった。
「……久しぶりだな、アシュリー」
アシュリーは腕に抱えていた子供を降ろして、その頭を撫でた。子供は嬉しそうに笑顔で返すと、他の子供達のもとへ駆けて行った。
その子供の後姿を見ていたアシュリーがウェリントン公爵に向き直り、静かに頭を下げた。
「お久しぶりでございます、閣下」
そう言って顔をあげて自分を見つめるアシュリーに、ウェリントン公爵は圧倒された。一切の装飾を省いた漆黒のキャソックをまとったアシュリーの美しさは壮絶だった。
社交界で着飾った貴婦人達を見慣れているウェリントン公爵でさえ、凄まじいまでのその美しさに思わず言葉を失って、その場に立ち尽くしていた。
そんなウェリントン公爵を、アシュリーは黙って見ていた。
「……お前は、……変わらないな。子供の頃から末恐ろしいほど美しかった。……昔は、母上が私よりお前を可愛がっているのが妬ましくて仕方なかった」
長い睫毛を伏せたアシュリーが、静かに口を開いた。
「今日はわざわざそのお話をなさりにいらしたのですか?」
「いや、違う。そうではない。……逃亡していたクリスティ伯爵夫人が捕らえられた。身分を剥奪の上、生涯修道院送りとなった。そのことをお前に伝える為に来たのだ」
アシュリーは黙ってその話を聞いていた。
吸い込まれてしまいそうなほど澄んだアシュリーの青い瞳に見つめられたウェリントン公爵が、まるでその視線から逃げるように目を伏せながら言葉を続けた。
「……あれほど母上に尽くしてくれたお前を、守ってやれなくてすまない。今後は何か困ったことがあったら、いつでも私を訪ねてくるといい。力になろう」
「閣下のお心遣いに感謝致します」
静かに頭を下げるアシュリーを、ウェリントン公爵は何も言わずに見ていた。
これほどの美貌でなければまた違った人生があっただろうにと、アシュリーが不憫でならなかった。
その視線に気づいたのか、アシュリーが微かに口角を上げた。
まるですべてを乗り越えたかのようなその穏やかな微笑みを見たウェリントン公爵は、それ以上は何も言わずに静かに馬車に乗り込んだ。
音を立てて走り去る馬車を、アシュリーは一人通りに立って見送っていた。
客人が帰ったのを見た子供達が、通りに立っているアシュリーのもとに駆け寄って来た。
「神父様、もうお話終わったの?」
「だったら一緒に遊んで!」
アシュリーの足元にまとわりついた子供達が、キャソックの裾を引っ張りながら急かす。苦笑しながら歩き出したアシュリーに、子供達がぞろぞろとついて歩く。
そして、どうにかしてアシュリーの気を引こうとして、今度は彼の腕にぶら下がり始めた。
「僕が先だ」
「わたしが先よ。ねえ、神父様?」
目を細めたアシュリーが、屈託のない笑顔を向ける子供を一人、また一人とその腕に抱えて歩き出した。抱えられた子供が嬉しそうにアシュリーの首に抱きつく。
「神父様、だあいすきっ」
その無邪気な笑顔を見ているアシュリーの脳裏に、たくさんの子供に囲まれて賑やかに暮らしたいと、かつて話していた愛しい人の微笑みが蘇ってくる。
『アシュリー、幸せに。アシュリー、愛しているわ』
今も耳に残る愛しい声。目を閉じれば浮かんでくるあの鮮やかな緑の瞳。
子供達の笑い声が響く中、白い雲がたなびく青空を見上げたアシュリーが、穏やかに微笑んだ。
「私もだ、エリザ。愛しているよ」
これにて完結です。
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