1. 蝶のような男
「アシュリー!」
その夜のオペラ座は、たくさんの照明で飾られて夜の暗闇に煌々と浮かび上がっていた。
その正面に次々と馬車が停められて、中からへ美しく着飾った貴族達が降りてくる。
そしてオペラ座正面の大階段の前で挨拶を交わしていた令嬢達が、その名を耳にした瞬間に一斉に後ろを振り返った。
令嬢達の食い入るような視線の先にいたのは、柔らかな金色の絹のような髪を夜風になびかせながら馬車から優雅に降り立った一人の美しい男だった。
男は、縁に厚みのある金刺繍が施された濃紺の滑らかなベルベットのコートの下に、白の絹地に色鮮やかに植物模様が刺繍されているウエストコートを着ていた。
けれど、非常に贅沢で華やかなその服装よりも人目を引いたのは、男の容貌だった。
彫りの深い顔立ちに秀でた額、高く通った鼻筋。
長い睫毛に縁取られた深い青の瞳は穏やかに澄んでいて、形の良い唇は微かに微笑んで女性達を甘く誘っているかのようだった。
そして艶やかに輝く金色の髪が、男の顔立ちを華やかに彩っていた。
まるで神話の中の男神が舞い降りたような美しさに、その場にいた令嬢達がほぅっと溜息を洩らした。
ゆっくりと男が歩みを進めるたびに、令嬢達はその姿に熱を帯びた視線を送りながらも一歩、二歩と後ろに下がって男に道を開けるのだった。
「アシュリー」
その場にいた貴族の中でも一際豪華なドレスを着た女性が、その男アシュリーに近寄ってきた。
白金の髪を優雅に結い上げて、豊かな胸元を強調したドレスを纏ったその女性が、親し気にアシュリーに話しかける。
「お久しぶりね。あなたがこんな所にいるということは、ウェリントン公爵夫人の容態はもう宜しいようね」
「御機嫌よう。クリスティ伯爵夫人」
アシュリーは差し出されたクリスティ伯爵夫人の手を取り、その甲に口づけた。
「はい、もうすっかり。ずっと屋敷で自分の看病ばかりさせては不憫だと仰って、マダムが私をここに送り出して下さったのです」
「それなら、今宵はわたくしの相手をしてもらえるかしら。あなたが来るのを首を長くして待っていたのよ」
甘えるような目つきで見上げるクリスティ伯爵夫人の紫の瞳をしばらく見ていたアシュリーは、やがてゆっくりと口角を上げて微笑んだ。
「ええ、喜んで」
アシュリーは手のひらを下にして右手を差し出し、クリスティ伯爵夫人がその上に自分の左手を重ねた。
固唾を飲んでその様子を見守っていた令嬢達の羨望の眼差しを背中に受けたクリスティ伯爵夫人が、満足げに微笑みながらアシュリーを見上げた。
「今宵は、あなたはわたくしのものよ」
アシュリーは、ウェリントン公爵夫人の愛人としてその名を響かせていた。
この国の高貴な女性にとって、若く美しい愛人はステイタスシンボルの一つだった。
誰の愛人がどれだけ美しいか。
それは常に貴婦人達の重要な関心事であり、そして美しさという点に置いては、アシュリーに敵う者はいなかった。
七年前、当時十五歳だったアシュリーが初めてウェリントン公爵夫人に連れられて公の場に姿を現した時、社交界は大変な騒ぎになった。
突然現れた傾国の美少年アシュリーのベールに隠された素性を誰もが知りたがった。けれど人目も憚らずに「わたくしの可愛い子」と溺愛するウェリントン公爵夫人の様子に、やがて年若い愛人なのだと皆が納得してその騒ぎは収まった。
とはいっても、ウェリントン公爵夫人はすでに高齢で、誰がその後を引き継いでアシュリーを手に入れるか、老いも若きも男も女も、虎視眈々とその後釜を狙っていた。
そして今宵のアシュリーの相手、クリスティ伯爵夫人もそれは同じだった。
夫を数年前に亡くした彼女は、遊び相手には不自由していなかったが、社交界の華であるアシュリーをどうにかして自分だけのものにしたいと考えていた。
体調を崩して寝込んでいるウェリントン公爵夫人が回復したら、アシュリーは必ずこのオペラ座に姿を現すはず。そう考えてクリスティ伯爵夫人は待ち構えていたのだった。
馬蹄型になった広いホールの正面二階の貴賓席で、アシュリーと念願の二人きりになったクリスティ伯爵夫人は、せっかくの機会を逃すまいとアシュリーの胸にしなだれかかった。
「ねえ、アシュリー。いつになったら、わたくしのお願いを聞いてくれるの?」
「お願いとは?」
アシュリーは小首を傾げて、少しとぼけた表情で返した。
自分の気持ちを知っているくせに素知らぬ振りをする男を癪に思いながら、クリスティ伯爵夫人は唇を尖らせて甘えた声を出す。
「ウェリントン公爵家別邸を出てわたくしの屋敷に来て欲しいって、何度もお願いしているのに忘れたの? 決してあなたに不自由はさせないわ」
「何度か伺わせて頂きましたが」
甘い瞳で見つめるアシュリーに、クリスティ伯爵夫人が拗ねた口調で返す。
「……あなたはいつも朝には姿を消してしまうじゃないの」
「マダムとの朝食の時間に遅れるわけにはいきませんからね」
涼しい顔で答えるアシュリーの耳元で、クリスティ伯爵夫人が誘うように甘く囁いた。
「あのお年ではあなたの相手は無理でしょう? あなたはそんなにも美しいのに、いつまでウェリントン公爵夫人に飼い殺されるつもりなの? わたくしならきっとあなたを満足させられるわ」
それを聞くなり、アシュリーは軽蔑したような冷たい目でクリスティ伯爵夫人を見下ろした。急に温度の変化したその視線に、クリスティ伯爵夫人は自分の失言に気づいてはっとした。
「私が心からお慕いするマダムを侮辱なさるような方と、これ以上御一緒することは出来ません。これで失礼させて頂きます」
アシュリーはそう冷たく言い放ち、席を立って後方のドアに向かって歩き出した。その背中にすがるようにクリスティ伯爵夫人が抱きつく。
「待って! 待って! アシュリー! わたくしが悪かったわ。悪気は無かったの。許してちょうだい。もう何も言わないから、今宵だけは側にいて? お願いよ」
ゆっくりと体の向きを変えたアシュリーの顔を引き寄せたクリスティ伯爵夫人が、半ば強引にその唇を重ねた。平然としてそれを受けたアシュリーが、からかうような目でクリスティ伯爵夫人を見る。
「宜しいのですか? このような所でこんなことをして」
「貴賓席の奥は人目に付かないって、あなただって知っているでしょう」
ちらりと手摺りの向こうに視線をやったアシュリーが、コルセットで絞めつけられたクリスティ伯爵夫人のウエストに手を回す。
そして甘えるように自分の目を覗き込んでいるクリスティ伯爵夫人の体を引き寄せて、その真っ赤な唇を塞いだ。
しばらくしてアシュリーと共に席に戻ったクリスティ伯爵夫人が、小さく悲鳴のような声を上げた。
何事かとアシュリーが見ると、クリスティ伯爵夫人は手にしていた扇子で顔を隠しながら、目線で彼に自分の右側を見るようにと促していた。
促されるがままにアシュリーが右側に視線をやると、同じ二階の少し離れた所に手摺りから身を乗り出すようにしてこちらを見ている黒髪の貴婦人がいた。
「……あれは?」
「エイベル男爵夫人よ」
クリスティ伯爵夫人が小声で囁いた。
「あなたがウェリントン公爵夫人の看病でしばらく社交界に顔を見せない間も、彼女、毎夜このオペラ座に来てはあなたを探し回っていたわ」
「私を? エイベル男爵夫人が?」
アシュリーは爛々と目を光らせてこちらを見ているエイベル男爵夫人を見た。
「あそこまで夢中にさせるなんて、あなた一体何をしたの?」
呆れたような口調で尋ねるクリスティ伯爵夫人に、アシュリーは細い指で自分の顎を摘まみながら小首を傾げた。
「別に何もしていませんよ。……確か、一度だけ気分が悪そうにしているエイベル男爵夫人を介抱したことがありましたが、それだけです」
「それだけ? キスは? 手は出していないの?」
「まさか。する訳ない。彼女は私の好みじゃない」
肩を竦めて答えながらアシュリーは、再びエイベル男爵夫人を見た。
アシュリーの視線に気づいたエイベル男爵夫人は、周囲の目も気にせずに手摺りから大きく身を乗り出して、嬉しそうにこちらに向かって手を振っている。
その姿にアシュリーは唖然とした。
たったあれだけのことで、エイベル男爵夫人が毎夜オペラ座に通い詰めて自分を待っていたと知り、彼はどこか空恐ろしいものを感じた。
戸惑うアシュリーの横にすっと並んだクリスティ伯爵夫人は、まるでエイベル男爵夫人に見せつけるかのように彼の胸にもたれかかった。
そして悔しそうに睨みつけているエイベル男爵夫人に得意げに微笑み返すと、クリスティ伯爵夫人はアシュリーの顔に自分の顔を近づけて、手摺りの手前にあるカーテンを引いた。
貴賓席はカーテンを引いてしまえば、誰にも見られることの無い密室だった。