860 閑話・商人ウェルダンの試練
今日はこの私、ウェルダン・ナマニエルにとって、まさに試練の日となった。
今日は午後、帝都中央学院での授業がおわり次第、皇太子殿下が厨房機器や調理器具の確認にいらっしゃる。
その連絡は、昨日の午後、突然に受けた。
来たる最強バーガー決定戦において、我がオダウェル商会は、素材と機材の両方の準備を光栄にも任された。
光栄ではあるが、決して失敗の許されない大任でもある。
とはいえ、準備は順調だった。
ウェーバー頭取に加えて、食の都ハラヘールの領主であるハラデル男爵の全面的な協力が得られているからだ。
すでに各地の工房より、最新の厨房機器と調理器具が続々と届いて、我が商会の倉庫に入れられた。
ただ、整理はまるでされていなかったので……。
殿下に気持ちよく見ていただくため、昨日から従業員に整理を命じて、従業員には徹夜させてしまったが――。
なんとか、展示室のように体裁は整えた。
バーガー大会で使用する素材についての選定も、ほぼ完了している。
こちらも急遽、見本を取り寄せて、なんとか揃えることができた。
どれも自慢の野菜や肉だ。
殿下には満足していただけることだろう。
そう――。
我々の準備は、順調なのだ。
会場の準備に加えて運営全般を請け負ったウェーバー商会も、大急ぎながら問題なく作業を進めている。
だが――。
試練は、続々と外側からやってくるのだ。
今、私の目の前には小麦粉があった。
その小麦粉を手に取って猛烈なアピールを続けるのは、旧知の商人だ。
名はウィート。
小太りな中年の男だ。
「どうだ? 何度でも言うが、本当に素晴らしい小麦だろう? この白さ、この絹よりもなめらかな手触り、まさにこの小麦こそ、殿下の主宰される大会に相応しいものだと思わないか?」
「何度でも言うが、すでに小麦は決まっているのだ」
「もう一度だけ聞いてくれ、ナマニエル。この小麦は、あのディシニア高原で採れた最初の小麦なのだ。知っての通り、ディシニア高原はずっと、瘴気に覆われて魔物の徘徊する禁区だった。しかし先年、聖女ユイリア様の光の力によって、瘴気は払われて今では美しい高原に戻った。私は高原の土地を借り受け、この小麦の栽培に成功したのだ。まさにこの小麦こそ、帝国の新しい明日、そして、聖女様のお力の宿る最高の小麦なのだ。どうだ? 今回は無料でいい。なんとか、この小麦でハンバーガー用のパンを作ってほしいのだ」
ウィートのヤツが、早口ながらも聞き取りやすい声でまくし立ててくる。
「もちろん、君へのお礼も忘れることはないぞ」
最後にニヤリと笑ってくる。
袖の下のことだ。
昔なら、金額次第で応じていたことだろう。
だが、今は違う。
私は一度、どん底に落ちた男だ。
再び失敗するつもりはない。
袖の下など、間違いなく、転落と堕落への第一歩だ。
それに、自分の商品を採用してほしいと持ちかけてきたのは、彼が初めてというわけではない。
もう何人目かも忘れた。
次から次へと、商人たちが売り込みにくるのだ。
時には厄介な――。
「会長、また急のお客様がいらっしゃいましたが――」
「断れと言っておるだろう」
「それが――。会長とは旧知の仲で、どうしてもとのことで……。ゴウド男爵とのことなのですが……」
名前を聞いて、私はため息をついた。
昔、世話になった地方領主だ。
断ることは……。
できない……。
「通せ」
「はい。わかりました」
一礼して、事務員が部屋を出て行く。
「というわけだ、ウィート。悪いが帰ってくれ」
「大丈夫、俺のことは気にしなくて良い。話がおわるまで、もちろんここで待たせてもらうとも」
にこやかな笑顔を浮かべてウィートが言う。
まったく、どこまで図太いのか。
私も人のことは言えないが……。
しばらくするとゴウド男爵が、部下をひとりだけ連れて現れた。
ウィートより一回り大きな肥満の中年男だ。
「おおー! ナマニエル、久しぶりではないかっ! 元気そうだな! すっかり大成して、立派になったものだ!」
「ご無沙汰しております、男爵」
私は一礼した。
「ははは! 我々の仲ではないか! 堅苦しい挨拶などいらぬ! それよりも今日は良い話を持ってきたのだ!」
ゴウド男爵の部下が、テーブルに木箱を乗せた。
その中には、まるで男爵の腹であるかのような、でぷんとした緑色の大きな丸い野菜が入っていた。
私はそれがなにを知っている。
ゴウド男爵の領地で採れる、産物のウリだ。
「聞けばナマニエル、君は皇太子殿下主宰の祭りの準備を任されて、各地の素材を集めているそうではないか! であれば、これはぜひ、我が領のウリも混ぜてもらわねばと思い、急いで参上したのだ! なぁに、心配することはない! 今回は皇太子殿下の御為にも、無料で良い! ふふふ。好きなだけ用意してやるから大いに活用してくれたまえ!」
ゴウド男爵もまた……。
早口ながら、はっきりとした口調でそんなことを言う。
私は困り果てた。
無下に扱うことはできない。
だが、どう考えても……。
ウリはハンバーガーの素材にはならないだろう……。
置いておくことだけなら、できるが……。
そんなことをしていると――。
再び事務員がやってきた。
「会長、お客様が――」
「今度は誰だ!」
「はい――。皇太子殿下がいらっしゃったのですが――」
「おおおおおお! 殿下がいらっしゃったのですか!? これは、素晴らしい巡り合わせですな!」
ウリを手に持ったゴウド男爵が大喜びする。
壁際では、ウィートが目を光らせた。
いかん。
この2人が余計なことをすれば、殿下の勘気に触れる可能性がある。
そうなればオダウェル商会の危機だ。
せっかく軌道に乗って、これから飛躍しようという時に、またすべてを失うことになりかねない。
「男爵はこちらでお待ちを――」
「ははは! 早速、挨拶せさてもらわねばなりませんな!」
あああああ!
ウリを手に持ったまま、男爵が行ってしまった。
なぜか当然のような顔をして、小麦粉の入った小袋を手に、ウィートがその後を付いて行った。
私はほんの少し呆けて――。
ハッと我に帰り、慌てて2人の後を追いかけた。
 




