798 閑話・皇帝ハイセルに届いた緊急の案件
「……は。なんだと?」
思わず眉間に皺を寄せてしまったのは、午前10時を少し回った頃だった。
俺は、この国の支配者たる皇帝。
ハイセル・エルド・グレイア・バスティール。
その俺の下に来た緊急の案件が――。
悪魔による襲撃でも、魔物の大発生でも、ド・ミ新獣王国やトリスティン王国での情勢変化でもなく……。
カレーの製作。
「ははは。平和でよろしいですな」
共に執務室にいた盟友にして公爵たるバルターは笑うが、俺は正直、微妙に怒りを感じていた。
なにしろ今、国際情勢は風雲急を告げている。
ほとんど毎日のように、ザニデア山脈を越えた東側諸国からは、驚くような情報が飛び込んでくる。
新獣王国の戦士長ナオ・ダ・リムによる新生宣言と、その余波。
リゼス聖国やジルドリア王国の反応。
新獣王国に攻められっぱなしだというのに、事実上の内乱状態に入ったという窮地のトリスティン王国。
もちろん、俺はそれらの情報をすでに理解している。
なにしろ4カ国会談を行ったのは、まだほんの数日前のことだ。
今、入ってきている情報は、それ以前のものだ。
大陸の東側は遠い。
どうしても情報にはある程度の遅れが出る。
俺はすでに、聖女ユイリアの口から、戦士長ナオの口から、薔薇姫エリカの口から各国の事情や方針を聞いている。
対悪魔を通じての緩やかな協力体制も約束した。
更には戦士長ナオの口からハッキリと、帝国の獣人を煽動する行為は決してしないとの確約を得ている。
とはいえ、安穏とはしていられない。
今朝には魔道具による、こんな急報が入っていた。
リゼス、ジルドリア、トリスティン、ダイシンリン、ド・ミ、ガ、トモニセンセイノオシエヲウケタトノホウアリ。センセイニチュウイセヨ
それは、リゼス聖国に在住する外交官からのものだった。
通信の魔道具は、ダンジョンからのドロップ品でしか存在せず、量産の利かない貴重な品であった。
なので、余程のことでなければ使われない。
すなわち、4カ国会談がおわって――。
まだ数日しか過ぎていないというのに――。
余程のことが起きたのだ。
しかも、大森林という珍しい名前が通信には記されていた。
大森林はジルドリア王国とトリスティン王国の間に広がる。
金虎族が治める密林の領域だ。
ヒト族が入り込めば、容赦なく処分される。
その強固な閉鎖性は、悪魔が居た頃のトリスティン王国ですら本格的には侵略できなかった程だ。
……それが、他国と共に「センセイ」の教えを受ける?
正直、意味がわからなかった。
センセイとは何なのか。
先生で良いのか?
それとも、宣誓――。
占星――。
先世――。
それまでの常識や定説をひっくり返すような超古代の聖典が、どこかで発見でもされたのだろうか。
バルターと考えたが、答えは出なかった。
思わずクウのことを疑ってもみたが……。
クウは最近、普通に工房を開いていたとの報告を受けている。
留守にしていた日もあるようだが――。
すべて夜には帰っている。
さらにはマリエ嬢と遊んでいただけとの報告もある。
いくらクウでも、そんなお気楽な生活のついでに、5カ国もの間に何かを成すことなどできるはずもない。
そもそも今日とて、普通に映像の鑑賞会に来ているのだ。
あと――。
これは、娘のアリーシャとセラフィーヌ。
加えて、妻のアイネーシアに強く言われていることだが……。
事件が起きる度に、クウのせいにしてはいけない。
クウのことは、疑うのではなく、信じる。
それを最大にして基本の方針とすべきだ。
と――。
俺は、それについては同意している。
ただ現実が、それを否定しているだけだ。
なにしろ実際……。
調べてみれば結局、クウが原因だったということばかりなのだから。
だが、今回はさすがに違うのだろう。
故に、この件については、続報を待つしかないのだろう……。
いずれにせよ――。
本当に、東側諸国の情勢は、目まぐるしく変化していく。
西側の帝国にとっては、他人事――。
と、考えることはできない。
間違いなく、確実に、時間差を置いて、それは強い影響を及ぼしてくる。
故に――。
一日でも早い政治の対処が必要になる。
俺にとっては、本当に胃の痛くなる日々だった。
それでも今日は、愛娘セラフィーヌの夏の記録を皆で楽しむ日なのだ。
楽しむために俺は――。
昼までに政務をおえようと必死に仕事をしていた。
そんな中の緊急案件がカレーなのだ。
俺のこの怒りは、まさに自然、いや、当然と言って良かろう。
ただ……。
怒っても、それは八つ当たりだ。
クウに罪はない。
クウはただ、皆にカレーを振る舞いたいと言っているのだ。
「料理長には確認を取ったか?」
「はい。料理長は、かの名高き主宰様の腕前を是非とも拝見したいと、大変に乗り気のご様子でした」
「ならば問題はあるまい。今日の昼はカレーとしよう」
「畏まりました」
敬礼した後に踵を返して、文官が執務室を出ていく。
頭の痛い問題は、間近にもある。
クウが適当にでっちあげた食の権威、美食ソサエティ――。
今や帝国料理人はこぞって、その会員入りを目指していた。
食の都たるサンネイラやハラヘールからは、美食ソサエティについての問い合わせが後を絶たない。
クウのことを知っている大宮殿の料理長でさえ、何故か真剣にクウのことを主宰様と呼んで尊敬している。
今やク・ウチャンは、帝国を代表する美食家だ。
わけがわからない。
だが権威とは、そもそも、そういうものでもあるのだろう……。
俺はため息をついた。
まあ、いい。
実は俺も、カレーは今までに食べたことがない。
どれほどの美味なのか。
俺も楽しませてもらうとしよう。




