700 7月のおわりのこと
【1.皇女セラフィーヌは確信する】
わたくしは目を閉じ、意識を研ぎ澄ませ――。
そして、心の中で言葉を発します。
――クウちゃんだけに、くう。
――クウちゃんだけに、くう。
クウちゃんだけに――。
くう!!!
「……どうでしたか?」
「はい――。先程の計測より魔力値が約10%上昇しています」
入学時、わたくし、セラフィーヌの魔力値は70でした。
それから4ヶ月が過ぎて、今、わたくしの魔力値は74になっています。
そして――。
たった今、計測装置に現れた数値は、81。
「やはりですか」
「殿下、これはいったい……。どういうことで……」
計測に協力してくれた魔術師団の方が、驚きを隠せない表情で聞いてきます。
「真言の力です」
「それは――。ハイカットやヤマスバのことでしょうか?」
「いいえ。クウちゃんだけに、くう、です」
「クウちゃんさまは、本日はお越しではありませんが……。あ、いえ、クウちゃんさまに関わるお言葉なのですね」
「クウちゃんだけに、くう、です」
「食事……でしょうか」
深く説明するつもりはありません。
なぜならきっと、わたくし以外に理解することは難しいでしょう。
クウちゃんだけに、くう。
それこそがまさに、世界の真理であると。
「もう一度、やります。計測をお願いできますか?」
「はい。どうぞ」
わたくしは再び目を閉じて、精神を集中します。
そして、ただ一心に祈るのです。
クウちゃんだけに、くう。
クウちゃんだけに、くう。
クウちゃんだけに――。
くう!!!!
「こ、これはっ! 魔力値85! 15%の上昇です!」
「計測、ありがとうございます」
自分自身でも実感があります。
やはり、クウちゃんだけにくう、には、一時的にわたくしの魔力を高める力があるようです。
クウちゃんだけに、くう。
その言葉を胸に抱き、わたくしは聖国に赴こうと思います。
ただその前に、まずはパーティーですが。
今日もこれからわたくしは、たくさんの人にあって、たくさんの挨拶をしなければいけません。
正直、挨拶は苦手です。
だけどわたくしは皇女。
この公務からも、逃げるわけにはいきません。
今日のパーティーはわたくしが主役です。
今日は、聖都に向かうわたくしを励ますために、主に地方から多くの貴族の方が集まってくれました。
キチンと挨拶して、キチンと感謝しなくてはなりません。
クウちゃんだけに、くう。
その言葉を胸に抱き、わたくしは挨拶も頑張る所存です。
【2.皇女アリーシャは姫様ロールを頬張る】
「アリーシャ、貴女……。また太りましたね?」
「そ、そんなことはありませんわ、お母様! ほらこの通り、ちゃんと普通に着れていますでしょうっ!?」
「それならいいのですが。同じ失敗を繰り返すようであれば――」
「わたくし、散歩をしてまいりますっ!」
危ないところでした。
実はお腹を精一杯に引っ込めていることなど――。
バレるわけにはいきません。
わたくし、アリーシャは、以前にもスイーツの食べ過ぎでドレスが入らなくなる失態を犯しているのです。
帝国の第一皇女として、2度目は許されません。
奥庭園に出ると――。
今日は、人が多くいました。
そういえば今日のパーティーは地方から多くの方が来ていて、もてなしとして奥庭園が解放されているのでした。
皆、パーティーが始まるまでの時間を楽しんでいるようです。
「はぁ……。甘いものが……。姫様ロールが恋しいですわ……」
我慢しながら1人で歩いていると――。
ふと気になる男性を見つけました。
今ではすっかりセラフィーヌの定番の居場所となっている、願いの泉のほとりのベンチです。
脇に置いた紙袋は――。
ええ。
姫様ロールのお店のものですね。
わかります。
そして、その男性が、一口ずつ確かめるように食べているのは――。
間違いありません。
姫様ロールです。
わたくしも学院帰りに散歩できる時には必ず食べるので――。
ふんわりとした生地の味わい――。
とろけるクリームの広がり方――。
すべて、よく知っています。
ええ。
姫様ロールは、とても良いものです。
ゆっくり味わいたくなるのも、よくわかるというものです。
あ。
いけません。
あまりに見ていたものだから、気づかれてしまいました。
目線が重なってしまいました。
わたくしは内心では大いに慌てましたが、見た目的には落ち着いて、レディとして優雅に一礼しました。
「あ、すいませんっ! こんなところでっ! ここって、ものを食べてはいけない場所でしたかっ!?」
男性が、全身であわあわとします。
よく見れば10代後半の方ですね。
落ち着いた物腰に見えたので大人かと思いましたが、正面から顔を合わせればそうでもないようです。
「いいえ。そのようなことはありませんわよ」
「そうですか……。よかったです。あ、おひとついかがですか? これはびっくりするほど美味しいですよ」
彼は間違いなく、地方から来たのですね。
わたくしの顔を知らないとは。
わたくしも彼には見覚えがないので、中央貴族や学院生ではなさそうです。
そして、マナーにも疎いようです。
初対面の女性に、いきなり食べ物を薦めるなんて。
「そうですね。せっかくだし、いただこうかしら」
でもわたくしはベンチに腰掛けてしまいました。
なぜなら――。
姫様ロールが美味しそうだったからです。
ええ。
年齢の近い男性と並んでものを食べるなど、人に見られれば誤解しか生むことのない愚行ですけれど――。
甘味の誘惑には勝てるわけもありません。
わたくしは丁度、死ぬほどこれが食べたかったのです。
あと、彼の態度が新鮮で面白かったのもあります。
ぱく。
ぱくぱく。
ああ……。
姫様ロールが染み渡ります……。
至福ですわ……。
「僕は地方から来たんですけど、いやー、帝都はすごいですね。この甘味、庶民が気軽に買える値段で売られていたんですよ。僕の地元なら、間違いなく3倍はすると思います」
一般的に、ケーキを始めとしたスイーツは高級品です。
庶民にとって、気軽に食べられるものではありません。
「値段の秘訣は、この独特なクリームだと思うんですけど……。このクリームは何で作られているんでしょうね……」
「ああ、それは木の根から作られているんですのよ」
「木の根ですか!?」
「ええ」
以前にクウちゃんがそう言っていたので、間違いはありません。
「……それは、すごいですね。牛乳や卵と比べれば、それなら遥かに安価に製造できそうです」
「そういえば自己紹介がまだでしたわね。わたくしはアリーシャ。この帝都に住んでおりますの」
「これは失礼しました。僕は西の都市サンネイラから来ました。そこの領主の息子でトルイドと申します」
名乗っても、特に反応されませんでした。
これは新鮮です。
わたくしはそのまま会話を楽しむことにしました。
「サンネイラというと、食の都でしたわよね」
「その通りです。我がサンネイラは食の都。この帝国にある、多くの食文化の源流となっているのが自慢の都市です。この大宮殿の歴代の料理長も、なんと半数以上がサンネイラの出身なんですよ」
「ええ。よく存じておりますわ」
現在の料理長もサンネイラの出身です。
毎日、美味しく食べさせてもらっています。
「しかし、スイーツについては――。どうやら帝都に遅れを取っているようですね……。これは一大事です」
「トルイドさんも料理を?」
「ええ。僕もいろいろな料理を作っています。とはいえ、まだ料理学校の学生で一人前ではありませんが」
「ご領主の息子さんなのですよね? 帝都中央学院に来て、将来の領主としての勉強はしませんの?」
今日のパーティーに来ているということは――。
おそらく、跡取りのはずです。
「そちらの勉強は、主に家庭教師ですね」
「反対されませんでしたの?」
「うちは父も祖父もそうだったので。代々料理好きで、むしろ料理が出来てこその領主なんて話もあります」
「……そんな貴族家もありますのね」
「我ながら変わっていると思いますよ。自覚があるので、大宮殿のパーティーにもいつもは来ていなくて。今回は、あのセラフィーヌ殿下が聖女ユイリア様のお弟子となる後援のパーティーということで、これは参加しなくてはと思い、怯えながらも出てきた次第なんです」
「その割には、リラックスしていらっしゃいますのね」
思わずわたくしは笑ってしまいました。
「いやー。そうですね。姫様ロールに感動してしまいまして。
……ところでアリーシャさん」
急に真顔になられて、わたくしは少しドキンとしてしまいました。
「は、はい。なんでしょうか」
「あの、アリーシャさんはもしや、この姫様ロールのお店の方と、それなりに親しい関係なのでしょうか」
「ええ……。多少は、ですけれど……」
常連ですし、クウちゃんの紹介もありましたし。
店長とは普通に会話できる仲です。
「も、もしよろしければ――。紹介だけでもお願いできないでしょうか! できればその――。製法というか――。できれば、その、木の根の取引だけでもさせてもらえないものかと……」
木の根は、最近、オダウェル商会が大量生産を始めたと聞きます。
あるいは良い商売相手になるかも知れません。
「わかりました。紹介して差し上げますわ」
「本当ですか! ありがとうこざいます!」
「え、ええ……」
下心がないことは理解できるので、怒りはしませんが――。
いきなり手を握るのもマナー違反です。
「あ。す、すいませんっ!」
「いいえ」
すぐに気づいて離してくれたので、まあ、いいですけれど。
「それにしても、食の都は楽しそうな場所ですわね」
「食を愛する人間には天国ですよ。アリーシャさんなら、きっとすごく気に入ると思いますよ」
「あら。どうしてかしら?」
「だって姫様ロールを一瞬で食べましたよね。すごく美味しそうに」
「……そうですわね」
少し恥ずかしい思いをしてしまいました。
「サンネイラに来ることがあれば、いろいろご案内しますよ」
「ええ。その時には、お願いしますわ」
「ところで、もうひとつどうですか?」
「はい。ぜひ」
もちろん姫様ロールのことです。
わたくし、思わず反射的に即答してしまいました。
ぱくぱく。
ふう。
本当に、至福です……。
「それで、トルイドさん。紹介の件ですが、明日はいかかですか?」
「はい。ぜひ」
今度はトルイドさんが即答します。
思わず笑ってしまいました。
この後、待ち合わせの日時を決めて、わたくしは席を立ちました。
そろそろ戻らないと、お母様が心配するでしょうし。
姫様ロールのお店へはすぐに人を出して、申し訳ないのですが時間を作ってもらうようにお願いしました。
店長は最近、調理ではなく事務仕事中心で働いているようなので、おそらく問題はないでしょう。
ただ一応、午前の開店前の時間にはしておきました。
閉店後では――。
わたくしの門限に引っかかります。
念の為、クウちゃんにも使いを出しました。
クウちゃんがいてくれれば、すべての話は早いでしょうし。
それにしても――。
わたくしの顔どころか名前も知らないなんて。
パーティーでは当然、わたくしは第一皇女として入場することになりますが――。
いったい、トルイドさんは――。
どんな顔をして、わたくしのことを見るのでしょう。
想像すると、なんだか楽しくなります。
今から楽しみです。
ついに700話まで来ました!
ここまでで、1010万PV、4383ブックマーク、17440ptをいただきました。
ありがとうございました\(^o^)/
お話は、まだしばらく、夏休みが続くと思います。
なんて長い夏休みなのでしょうか。
でもよかったらお付き合いくださいっ!




