659 クウちゃんさま、錯乱する
私は、こちらの世界に来て1年と数ヶ月――。
お酒なんて気にすることもなく、この世界を楽しく生きてきた。
お酒が近くになかったわけではない。
陽気な白猫亭に行けば、だいたいみんな、お店でお酒を飲んでいた。
酔っ払ったロックさんたちに絡まれることもザラだった。
なので、お酒は近くにあった。
だけど、気にもしなかった。
今の私の体は、まったくこれっぽっちも――。
アルコールになんて毒されていないのだ。
まっさらクリーンなのだ。
なのに……。
今……。
たった1人の砂浜で……。
目の前に、超高級なブランデーを見た時……。
私の心臓は、それこそ、音でわかるくらいに、はっきりと、ドキン、と、とてもとても大きく波打った。
とてとてだ。
平気なはずなのに……。
お酒になんて、もう負けないどころか……。
気にもしていなかったはずなのに……。
今……。
目の前にお酒がある。
前世で、私を享楽の境地へと導いてくれた禁断のアイテムが……。
目の前に……。
私は息を呑んだ。
震える手で、おそるおそる、芸術品のようなガラスのボトルを握って――。
――持ち上げた。
嗚呼……。
お酒が、ボトルの中で波打つ。
なんて濃縮された、美しい琥珀色……。
この波に呑まれたら、一体、どれだけ気持ちいいんだろう……。
きっと、全身が溶けるくらいだよね……。
私は息を呑んだ。
一口だけ……。
ほんのちょっとだけ、確かめてみようかな……。
その前に、私はボトルやグラスに保護の魔法をかけた。
大切なアイテムだ。
誤って、割ってしまわないように。
…………。
……。
そして、私はゆっくりと、ボトルを元に戻した。
そして、叫んだ。
「ああああああああああ! ダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ! ダメよ私ホントにダメだからぁぁぁぁぁぁ! お願いやめてぇぇぇぇぇ! 同じ失敗なんて繰り返したらおわりだからぁぁぁぁぁぁぁ!」
私は砂の上をのたうち回った。
「うわぁぁぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁん!」
お酒!
お酒が飲みたいよぉぉぉ!
たまらなく、とろけたくなってしまったよぉぉ!
…………。
……。
私は砂の上にうつ伏せた。
砂が熱い……。
その中でかろうじて――。
「……リムーブ・コンフュージョン。
……リムーブ・フィアー」
混乱状態と恐慌状態を取り除く魔法をかけることに成功した。
私は宝箱の蓋を閉めた。
そして、大切に大切に……。
それこそ宝物として……。
アイテム欄の中に収納しようとして……。
私はそれに抗った!
「ああああああああああああああああああああああああ!」
渾身の力で、全力で、海に放り投げた!
宝箱を!
高級ブランデーごと!
私の全力で大空に飛んだ宝箱は、やがて勢いを失くして――。
墜落して――。
大きな水柱を立てて、海面に激突して――。
波に飲まれて消えていった……。
「これでいい……。これで、いいんだ……」
やがて、いつか。
何年か後、きっと、誰かが発見して、お酒は飲んでくれる。
私の知らないところで……。
つい保護の魔法をかけてしまったので……。
ボトルが割れていることはないはずだ……。
それでいい……。
それで、いいんだ……。
…………。
……。
「ひぃ……。ひぃ……。ふぅ……。
ひぃ……。ひぃ……。ふぅ……」
ゆっくりと呼吸して、心と体を落ち着かせる。
恐ろしい……。
危なかった……。
私は、悪魔の甘い蜜の罠に引っかかるところだったのだ。
間違いない。
フォグは、なんらかの手段で、私がお酒に弱いことを突き止め、この宝箱を置いていったのだ。
「許さん……。許さんぞ……!
悪魔あぁぁぁぁ!
この12歳の可愛らしいクウちゃんさまにお酒だとぉぉぉぉぉ!
この私にお酒を飲ませて!
クウちゃんだけにくううぅぅぅぅで喉ごし爽やかだとぉぉぉぉ!
くうううう!
それはビールだブランデーじゃなーい!
高級ブランデーなんて……。
高級ブランデーなんて……。
きっと喉どころか口に入った瞬間に……。
くうううっと果実の風味が広がって……。
樽の風味も広がって……。
天国に決まってるよねええええ!
なんで悪魔が天国なのか意味がわからないよねええええ!
くうううううう!
クウちゃんだけに、くぅぅうううううううう!」
くううううううううううううう!
…………。
……。
いかん。
発狂しかけた。
私のSAN値、大幅減少しちゃったよぉ……。
だけど。
うん。
今の私は12歳。
かわいいだけが取り柄のクウちゃんなのだ。
クウちゃんとして。
お酒なんかに負けちゃいけないのだ。
だけど、本気で危なかった。
私は負けかけた。
私は、悪魔の狡猾さと恐ろしさを、あらためて思い知ったのだ――。
私は海に潜って、宝箱を回収した。




