1276 調印
さあ、いよいよ調印式はその時を迎えた。
トリスティン代表のナリユと、新獣王国代表のナオが、それぞれステージに上がって机の上で調印書にサインをするのだ。
まずは机に、大切な書類とペンが置かれる。
その大役は、トリスティン側の人間にお願いしてあった。
役割を果たすのはいつものメイドさんだった。
いつものメイドさんは、いつもトリスティンの王城で、揺るぎなく淡々と、いつも様々な仕事をこなしてくれる人だ。
まだ20歳前後に見える若いメイドさんだけど……。
正式な作法を理解しているだけではなく、ちゃんとこなせるのだから大したものだ。
私は安心して、彼女の仕事を見守った。
いつものメイドさんは、迷うことなく準備を整えてくれた。
私は作法なんて知らないけど……。
彼女の動きは、実に洗練されていて完璧だった。
流石はトリスティン王国で、ラムス王やドラン氏から信頼されて、いつもお茶を淹れてくれていた人だけはある。
「……いい? 机の前に立ったら絶対にしゃべらないこと。貴方はただ、書類に自分の肩書と名前を書けばいいの。わかった?」
「う、うん……。もう倒れそうだけど、君のためにも頑張るよ」
ナリユはオルデから指示を受けていた。
頑張れ、オルデ。
平和の締結は君にかかっている。
対するナオは平然としたものだ。
サインひとつくらい、すでにナオには何でもないのだろう。
「さあ、ナリユ卿、リム戦士長。どうぞ前に」
すでにステージに上がっていたエリカが2人を促す。
ナオは自然な足取りで。
ナリユは、オルデに背中を押されて、よろめきつつも頑張って。
2人は湖に正面を向いて、机の前に並んで立った。
私たちはその背中を見守る。
最初にナオがサインを書いた。
そして、次はナリユ卿だ。
私はドキドキする。
果たしてナリユ卿は、ちゃんと自分の名前を書くことができるのか……。
というのは、さすがに失礼な心配もするけど……。
ナリユ卿のことだ……。
緊張のあまりペンを大きくすべらせて、大切な書類に斜め線を引きかねない。
書類に予備はない。
ユイが光の魔力を込めて制作した書類は、一通のみだ。
その書類に線なんて引いたら、それは終戦の拒否に加えて、ジルドリア王国と聖女ユイリアへの侮辱に他ならない。
大変なことになるのだ。
……頼むよ、ナリユ卿。
……引くなよ。
……引くなよ。
なんていう、コメディだったらフリにしかならないことを真剣に願う中……。
無事にナリユ卿はサインをおえた。
「聖女ユイリア様、帝国皇太子カイスト様、こちらに」
エリカに呼ばれて2人がステージに上がる。
そして書類を確認して、うなずく。
それを見届けて、エリカは私たちに言った。
「今ここに、トリスティン貴族連合とド・ミ新獣王国における戦争は終結しました」
ユイが笑顔で拍手をする。
私たちも拍手で続いて、ついに訪れた平和の始まりを祝福した。
式典はおわらない。
私たちは階段を上って広場に戻った。
広場は、立食パーティーの会場に模様替えされていた。
皆、乾杯を待っているようだ。
乾杯の音頭を取るのは、もちろんエリカだ。
私たちは広場に入ると横に並んで、果実水の入ったグラスを手渡された。
エリカが堂々たる態度で、無事に調印が成されたことを居合わせた貴族たちに告げ、高くグラスを青空に掲げた。
「新しい時代の幕開けに!」
それがエリカの乾杯の言葉だった。
同じ言葉を重ねて、貴族たちもグラスを掲げた。
もちろん私たちも。
その後は自由な時間となる。
私は、ユイとリトと一緒に脇のテントに入った。
ユイと話したがっていた人たちが、とても残念そうな顔をしていたけどね……。
私たちには次の仕事があるのだ。
「リト、クウ、料理も頑張ろうね。私たちの本番はこれからだよ」
「セイバーとソードね」
私は訂正する。
「そうだったねー。あははー」
お気楽な様子でユイが笑う。
テントには、すでにすき焼きの材料と機材が揃っている。
肉はクーラーボックスに。
野菜はテーブルの上に積まれて。
調味料も揃っていた。
あと、でん、と、大きな鍋が台座に置かれて……。
台座には魔導コンロがセットされていた。
それらは今日のためにエリカがドワーフの職人に作らせた特注品だという。
これから私たちは、小休止の後、大きな鍋をテントの外に出して、みんなの前ですき焼きを作る。
なんと100人分。
ユイの手料理であることは、キチンとアピールしないとだしね。
見学は自由。
私たちは大いに見られながら素材を切って煮ることになるのだ。
私たちの作るすき焼きは家庭的なものなので、作業工程に難しいことはないけど……。
分量については、エリカのところの料理人さんが、キッチリと計って、必要な分を準備してくれている手はずだ。
なので間違いはない。
でも、だからこそ、不手際は見せられない。
今日のすき焼きは、聖女様の平和の手料理として歴史に残ることになるのだ。
そう思うと、さすがに私は緊張する。
ユイは、いつも通りにお気楽な様子だったけど。
大舞台が日常なのはユイの強みだね。
「今は休憩中だからいいけどねー。人前では間違えないでねー。私はアレだなー。クウちゃんだけにくうでもしちゃいますかねー」
私も肩の力を少し抜かせてもらおうかな。
今はソードだけど。
広場は騒がしい。
明るい音楽も奏でられ始めた。
テントに近づいてユイに声をかけてくる不躾な人はいない。
と思ったら、空気を読まないナリユ卿が現れた。
「ごめんなさい。ちょっと良いですか?」
「お休み中のところ申し訳ありません……。彼が、どうしてもと言って……」
オルデも一緒だった。




