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領主様の領地では、広大な丘陵地を活かした果樹園が多くあり、中でも葡萄畑とワイン作りがその収益の多くを占めている。
馬車から広がる葡萄畑を眺めていた監査官様は、目の前の美貌の少年から漂う刺すような冷たい空気を気にする様子もない。
フェレイアの説明をいちいち遮っては私に質問してきて、その度に空気が冷えていく。いい加減に勘弁してほしかった。
「しかし、見事な葡萄畑だなぁ」
アレクシスは呑気に呟いている。
「これって近くで見たり、実際に食べたりって出来ます?」
「これからその予定です」
ピシャリとフェレイアが言い放つ。
のらりくらりとした監査官様に苛立っているのは明白で、今やフェレイアはその苛立ちを隠そうともしていなかった。
そんな二人をヒヤヒヤしながら見守る。
同乗しているこっちの方が、胃が痛くなりそうな空気だ。
ようやく着いた葡萄畑では、アレクシスが嬉々として責任者から葡萄の特徴等について聞いている。
私は少し離れた所で見守っているフェレイアへと近づいた。
「フェレイア、お疲れ」
「ああ、ほんとに」
不機嫌そうな表情のまま、じとっと監査官様を睨むフェレイアに思わず苦笑がもれる。
「なんだか今回の監査官様って、少し変わってるね」
「変わっているというか……」
フェレイアは少し言い淀むと、真っ直ぐに私を見上げてきた。
「まるで他の目的があるみたいだ……」
その言葉に、腹の奥がぞわぞわするような嫌な緊張に襲われる。
フェレイアはキラキラと透き通る翠の目で暫く私を見つめると、不意に軽く手を握ってきた。
「本当に気をつけて。なんだか嫌な感じがする」
責任者の話にニコニコしながら聞き入る監査官様に、視線を遣る。
アレクシスは目が合うと、ニコリと微笑んできた。
「リリア、実際に葡萄の収穫を体験させてもらえるそうですよ。一緒に行きましょう」
手招きされ、隣でフェレイアがまた分かりやすくむくれるのに苦笑を返しながら、私は重い足を動かした。
監査官様は王都から来た貴族にしては珍しく、服が汚れるのも構わずに夢中になって葡萄を刈り取っていた。
笑顔が素敵な人懐こい監査官様に、農場の人たちも段々と集まってきて次々と話しかけていく。
そんな彼の様子を遠巻きにしながらフェレイアの側から離れないようにしていたのだが。
フェレイアが農場責任者に呼ばれ席を外した隙に、アレクシスはいつの間にやら隣へとやってきていた。
「いやー、こんなに瑞々しい葡萄は初めて見ましたよ」
額に浮かぶ汗を豪快に拭って、彼はからりと笑ってみせた。
「リリアはどう? 採れましたか」
「私は慣れていますんで……」
さり気なく遠ざかろうとする腕を掴まれる。
見上げた瑠璃色の瞳はキラキラと輝いて、彼は本当に楽しんでくれているのが伝わってきた。それに体から少し力が抜ける。
「華奢に見えても流石エインズワース卿のお嬢さんですね。ご令嬢に負けるだなんてお恥ずかしい」
ふとアレクシスの胸元からペンダントが零れ出ているのに目を留める。
「これが気になりますか?」
アレクシスはペンダントを手に取り、よく見えるようにこちらへ向けてくれた。
「亡くなった祖父が手作りしたものなんです。なんでも故郷の花をモチーフにしたものだとか」
それは美しい薄桃色をした、桜の花だった。
貝殻を材料に使っているのだろうか?
精巧につくられているそれに思わず魅入る。
こっちの世界にも桜の花があると知って、つい嬉しくなってしまった。
「綺麗な桜の花ですね」
その瞬間、アレクシスの顔から一切の表情が消えた。
「リリア……どこでそれを?」
「え?」
常に笑みを浮かべているアレクシスだが、今はその顔になんの表情も浮かんでいない。
「だって、故郷の花だって……」
「ええ、そうですが、私の祖父は異界人ですよ」
私は酷く取り乱して、手に持っていた籠を落としてしまった。
籠から溢れ出す葡萄。
咄嗟に背を向け走り出す。
アレクシスの笑っていない目。
漆黒にも見える瑠璃色の瞳。
“異界人”の祖父。
桜の花。
腹の奥底から吐き気が込み上げ、ただひたすらに足を動かして監査官から遠ざかろうと必死に足掻く。
厳しくも優しい領主様。
日の光に輝くプラチナブロンドの髪。
滅多に笑わないフェレイアの笑顔。
大切なものが全部、全部、奪われる気がして。
強張った顔の領主様に王都行きを告げられたのは、その日の夜だった。