3
「なんなの、あいつ」
部屋に戻った途端、フェレイアは嫌悪感丸出しにして吐き捨てるように言った。
「許可もなくリアの髪に触れるなんて。この美しい髪が穢れてしまったじゃないか」
フェレイアは懐からハンカチを取り出すと、慎重な手つきで一本一本丁寧に拭き取り始めた。
その様子にまたかと目が死んでいくのが分かる。
フェレイアはとにかく私へのこだわりが強く、当人である私が気にしていないのに、こうやって訳の分からないところでよく怒り出してしまう。
「フェレイア、もういいからさ……ていうか触ってないし。フェレイアのおかげで未遂で終わったじゃん。それより明日の打ち合わせしようよ」
フェレイアの手から髪を引き抜くと、じとっとした翠の目に睨まれた。
「打ち合わせなんて必要ない。明日は僕が全て説明する。リアは黙ってついてくるだけでいい」
勝手な言い分に、唖然とする。
「なに言って……そういう訳にはいかないでしょ!」
「リアこそなに言ってるの。こんなことされたのにまだあいつと喋るつもり? 警戒心がないのも大概にして」
「いや警戒心とかそういう問題じゃないし! 領地査察に訪れた監査官に、しかもわざわざ指名されたってのに、なにも説明できないってのは……」
「リアを指名するだなんて、ホントに何様なのあいつ」
指名という言葉に一際反応してフェレイアが大声を上げたので、私は思わず耳を塞いだ。
「確かにリアの髪は夜空のように艷やかだし、瞳は宝石なんか敵わない輝きだけど、それを今日会ったばかりの他人なんかに軽々しく褒めてもらいたくない」
白哲の繊細な美貌からポイポイ出てくる褒め言葉に、流石に私の頬も赤く染まる。
嬉しいってよりも場違い感にだ。
こんな美貌の少年に褒められたところで、惨めな気持ちにしかならない。
「とにかくリアは、ずっと僕の後ろにいて。あいつに顔を見せちゃ駄目だよ。そうだ、ベール付の帽子があっただろ? 明日はそれを被って……」
「あれは葬儀用の帽子!」
どんどんエスカレートしていくフェレイアの言い分に、私は目の前の資料をぺちんと叩き付けた。
薄闇の中佇む背の高い人影を見て、溜息を一つついた。
「今日の仕事は終わりですか」
「はい、もう日が暮れますので」
アレクシス・ミケル・ハーバリシュは相変わらずニコリと笑っている。
「ご令嬢なのに、こんな仕事もなさるんですね」
泥だらけの私を見て、彼は目を細めた。
なにを考えているのか分からないところはフェレイアと一緒だが、この青年は更に腹に一物抱えていそうなところが正直苦手だ。
「……先程も申しました通り、私は領主様とは血の繋がりはありません。働かざる者食うべからず、ですので」
ただの平民であることを強調するが、なにを疑っているのか、青年の視線は外れなかった。
「リリア嬢にはその荷物は重そうだ。良ければお持ちしましょうか」
差し出された手に嵌められている、真っ白な手袋に思わず眉を顰める。
「いえ、これくらい大丈夫です。それに、私のことはどうぞリリアと」
敬称は要らないと含ませたつもりだったが、勘違いしたのか、それともわざとなのか、とろりと微笑まれた。
「あなたからそう言ってくれるなんて嬉しいな。ならば遠慮なくリリアと呼ばせてもらいます。私のこともどうかアレクと」
「監査官様」
私の強張った表情に気付いたのか、アレクシスはひょいとおどけたように両手を上げると、からからと笑い声を上げた。
「すみません、他意はないんです。ただ、ここは自然が豊かで長閑だし、あなたも王都のご令嬢方と違ってギラギラしていないので、開放感に私も少し浮かれてたのかもしれない……明日から一緒に領地を見て回るのだから、少しお話をと思っただけです」
「監査官様、私は自分の身分を弁えているつもりです」
硬い声で後退り、平身する。貴族様のお遊びに巻き込まれでもしたらたまらない。
「そう畏まらないで。あなた方はエインズワース卿に実子のように可愛がられていると聞いていますし、そんなあなた方なら私も信用できる。一緒に楽しく領地を見て回りましょう?」
首を傾げるように覗き込まれ、私は言葉に詰まった。
「……ではアレクシス様と」
「いずれアレクと、そう呼んでくださいね」
薄闇の中で見上げた監査官の瞳は黒々として見えて、ふと遠い昔に置いてきた懐かしい面影を見た気がして、目を瞠る。
「ではまた晩餐のときに」
立ち去る後ろ姿に一礼する。妙な感傷は振り払ってしまおう。私も自分の仕事をさっさと済まそうと背を向けた。
翌朝、玄関ホールに現れたアレクシス・ミケル・ハーバリシュは、待ち構えていた私たちを見てニコリと微笑むと、「どうやら待たせてしまったようですね」と少し眉根を下げた。
そんな監査官様にフェレイアは顔色一つ動かさず、形通りの綺麗な礼をして馬車へと促す。
「やぁ、リリア。昨日はよく眠れました?」
やけに親しげに話しかけられて、フェレイアの動きが一瞬、止まった。
「お気遣いありがとうございます、監査官様。お陰様で……」
慌てて礼をとり平身するが、この監査官様はどうも他人行儀が嫌らしい。
益々眉根を下げて、あろうことか身を起こさせようと肩を掴まれた。
「アレクと、そう呼んでと言ったのに」
完全に動きを止めてしまったフェレイアの後ろ姿が恐ろしい。
彼はブリキの人形のようにぎこちなくこちらを振り返った。
「ハーバリシュ様」
その顔にも声にも、一切表情がない。
「そのように未婚の女性に馴れ馴れしく触れるのは、王都では普通のことなのでしょうか?」
フェレイアはゆっくりと近付いて、私の肩に乗せられた彼の手に思い切り眉を顰めた。
「だとしても、ここエインズワース領ではご遠慮いただきたいことですが。それに私たち平民にそのようなお気遣いなど無用です。さぁ、馬車へと参りましょう」
フェレイアに乱暴に引っ張られ、たたらを踏みながらその腕から抜け出す。
腕を掴んだまま歩き出したフェレイアの後ろ姿に、アレクシスの呑気な声が響いた。
「どうしてそう身分に拘るのです?」
フェレイアは足を止めない。
「あなたたちはあまり平民らしく見えないけど……本当に平民?」
「全ては領主様のお陰でございます」
フェレイアの硬い声。
「なら、身分が上の私が言うんだから、もっと打ち解けてくれませんか?」
フェレイアはとうとう足を止めてしまい、長い溜息を吐いた。
言葉は慇懃だが、明らかに無礼な態度に口元が引き攣る。
「ハーバリシュ様、時間が勿体無く思います。さっさと馬車に乗りませんか?」
フェレイアは言質はとったとばかりに恭しい態度を捨てると、絶対零度の視線をニコリと笑っている青年へと投げかけた。