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揺らされて、目が覚める。
すぐ目の前に不機嫌なマークスの顔があって、あわや悲鳴を上げそうになった。
「王からのお達しだ」
覚醒した私を確認して、マークスが身を起こす。
「とにかく王子の快癒が確認できるまでは、毎日術を行使するように」
ぽかんと呆けている私に構わずマークスは続ける。
「ただし、ヴィオラには気をつけろよ。絶対に鉢合わせするな」
「ヴィオラ?」
「宮廷医師の一人だ。今はフィリップ王子だけを診ている。昨日会った女だ」
そんな人に会ったっけ。
――もしかしてあの忌々しい事件の元凶になった、声をかけてきた女性のこと?
「もう忘れたのか? こうやって誤魔化しただろ」
「いや、わかっ……!」
ソファに横になっている私にマークスがのしかかってくる。
咄嗟に手で突っぱねようとしたときには遅く、筋肉の塊におし潰された。グェッと変な声が出るのと同時に、頬に柔らかい感触がする。嫌なリップ音が響く。
暑苦しい胸板が離れていき、慌てて頬を押さえた。
「なにをっ……!」
「思い出したか?」
あーあー、思い出してますとも!
あのときの最悪な気分も余計に思い出しましたけどね!
皮肉げに笑っているマークスを睨みつける。
彼は大げさに視線を逸して肩を竦めた。
「気にするな。ちょっとした冗談だ」
なにがムカつくってもちろん全部だけど、特にこの全然歯牙にもかけられてない感じが最っ高にムカつく!
「どうでもいいがもう日が沈む。早く王子に会って来い」
頬を一生懸命擦っている私に、冷めた視線が向けられた。
再び訪れた私を、煌めく青いサファイアの瞳が出迎えてくれた。
にっこり笑った彼は調子がいいのか、窓際に置かれた椅子に掛け、カーテンの隙間から外を伺っていたようだった。
「来てくれたんだね」
立ち上がろうとした王子を制する。
あの地面へと倒れこんだ姿が、自分の中で思った以上に衝撃だったらしい。
王子のそばへと寄り、肩に手を置く。またもや全身を淡い光が包み込んだが、光が収まった先には相変わらず弱々しい姿の王子。
「また治してくれたんだね。ありがとう」
無垢な笑顔を浮かべながら礼を言う彼に、言葉が詰まった。
「……治ってない、かも」
弱々しい笑みに、諦めの色が浮かぶ。
フィリップは伏し目がちに、窓の外に視線をやった。
「……そう。君が気に病むことじゃないよ。元々長くは生きられないって言われてたから」
だから平気だよ、と小首を傾げながら笑うフィリップに、なんとも言えない気持ちになる。
頭を下げて退出しようとした私の手を、ぬけるように白く細い手が掴んだ。
「ねぇ、リリア。お願いがあるんだ」
絹糸のような金髪がはらりと揺れる。
急に立ち上がったフィリップに驚いて思わず肩を支えると、透明な視線が向けられた。
「君の話を、聞かせてほしいな」
ゆっくりと歩くフィリップを支えながら、ベッドの上へと座る。
以前は部屋の中を歩くくらいならできていたそうだが、最近は寝込む日のほうが多く、今日は久しぶりに起き上がることができたと彼は嬉しそうに教えてくれた。
「僕はこの部屋から出たことがないから、なにも知らない。だから君の知ってる外の世界のことが知りたい」
期待に輝く瞳を向けられて、たじろぐ。
「でも私、ヴィオラ……さんと鉢合わせしたらいけないから」
「ヴィオラは大体正午前に来ることが多いよ。それに今日はもう来ないし。ね? ちょっとずつでいいから、君とお話ししたい」
マークスの厭味ったらしく怒る姿が頭にチラつきながらも、私は頷いてしまった。
病弱で幸薄そうな少年に、ここまで懇願されてノーと言えるはずもない。
そんな私にフィリップは破顔する。
「嬉しい。リリア、ありがとう」
その笑顔に見惚れる。
花が綻ぶようなという表現がピッタリな、可憐な笑顔だった。
「ねぇ、君はどこから来たの?」
身を乗り出すようにしてフィリップが尋ねてくる。
「……エインズワース領から」
「どんなところ?」
「うーん……なにもないよ。見渡す限りに丘があって、あと、葡萄畑やオレンジの果樹園がある」
「ぶどう……おいしいの?」
「おいしいよ。甘くてみずみずしい」
日本では当たり前に食べることができていた甘味。
でもここでは四六時中食べられる訳じゃない。
一度実をつける時期にフェレイアと二人、待ちきれずにこっそり忍び込んだことがある。
後で領主様からこってりと絞られたけど、あのときほどみずみずしい葡萄は食べたことがなかった。
透き通るような翠の瞳を悪戯っぽく輝かせて、フェレイアが差し出してくれた葡萄の実。
甘いねって二人で顔を見合わせて、微笑み合ったあの日。
眩しかったあの笑顔がここにいると色褪せて、はるか遠くへと消え去っていく。
「リリア?」
気づいたら、涙が頬を伝っていた。
この世界に来てから片時も離れたことのなかった存在。
ときには過保護をうっとおしく感じたり、ケンカして何日も口を聞かなかったこともあったけど、それでもフェレイアはずっとそばにいてくれた。
「帰りたい……」
私の居場所へ帰りたい。
今の私を支えているのは、出立前にフェレイアがくれたあの言葉だけ。
――僕は必ずリアを取り戻す。だからリアも、絶対に絶対に僕の迎えを待っててよ――
「お願い……帰りたい……!」
嗚咽を漏らして泣きじゃくる。
感情がコントロール出来なくて止まらない。
「ごめんね……」
背に触れられる感触がした。
フィリップが拙い動きで懸命に背を擦ってくれていた。
「ごめんね、リリア」
そのときフィリップがどんな顔をしていたかは知らない。
私は自分の感情で精一杯だったから。
私はただ、優しい手に甘えて、溜め込んだ感情を撒き散らすように泣き続けていた。