幽閉された白い月
水中に揺蕩う心地良さを、私は全身を以て体感する。浮遊物が視界を横切らない、遠くまで澄んだ水は確かな清涼感を持ち合わせていた。
私は、のらりくらりと漂う存在。浮遊によって宙を行ったり来たりするだけ。常に他所任せ。自身の命さえも委ねている。私はそうして生き続けているのだ。
「今日も二人ぼっちみたいね」
近くで声がした。視線を落とすと、その先には私と同じ姿をした彼女が漂っていた。真っ白な彼女、ふわりふわりと体を靡かせる彼女、私と鏡写しの彼女。
「嫌なの?」
「いいえ。その分、広くていいわ」
そう答えながら、私と話すためにか体をこちらに向けた。視線が合う。私自身と見つめ合っているような、本当に彼女なのかと不安を感じざるを得ない。それほどまでに、私と彼女は似ている。
「今日は一段と暗いのね。光がここまで届いてないのかしら」
天を仰ぐ彼女。上から注ぐ光はいつも眩いぐらいなのに、確かに今日はどこか暗いように感じる。
「ああ、今日も私達に自由が無いのかと思うと、生きることへの執着心が薄れていくわ。そうは思わない?」
最近の彼女はよくそんなことを口にする。自由とか生きるとか。私には何が何でどういうことなのかさっぱりだ。だから、返す言葉は決まっている。
「分からない」
「貴女はいつもそう言うわね」
「だって、分からないものは分からないから」
「罪深いのね、貴女は。思考を放棄してはいけないのよ」
そして彼女は暫く沈黙を保ち、程なくして「ねえ、知ってる?」と言葉を続けた。
「私達は、透明な世界に囚われている。遠くまで見える世界は作られたもので、この空から降り注ぐ光も偽物なのよ」
「どういうこと?」
「例えば光の色。白は太陽、蒼は月。そう色分けして私達を惑わせているの。まるで、海に棲んでいるかのようにね」
そんなこと、考えたこともなかった。ここは海の中、偶々他の生物が居ないだけで、それこそ彼女の言う「二人ぼっち」の世界だと思っていたから。違和感なんて無かった。それが当たり前で、酷く寂しい場所としか認知していなかった。
「――私達に、棲む場所は選べないの」
ぽつりと呟いた彼女の声色からは諦めを感じさせた。
「この場所は安全なの。だってそうでしょう? 誰かに食われることも捕まることもないのだから。ある意味、守られているってことでもあるわ。だから、変化もやっては来ないの。まさに形作られた世界」
どうやら、彼女はそのことに不満があるようだ。皮肉めいたその言葉からそう感じ取れた。
「だけど、ここでは生かされているだけに過ぎない。自身で生や死を選べないのよ。自分の命だというのに」
彼女の考える命とは、自身で選び取れるものであるらしい。生きる時に生き、死ぬ時に死ぬ――その選択が私達にあるという。
だが、私はそう思わない。それが運命であるはずだから。私達はそういう生き物だと、この体を構築する細胞や遺伝子によって告げられているはずだから。
「私は自由になりたい。あまりにも美しく作られた、この窮屈な場所は居心地が悪いもの。何も無くて、ただ水は綺麗で、貴女と二人だけの狭い世界。いつまで経っても変化は訪れない、まさに死の世界を彷彿とさせるわ」
「変わるのは明るさぐらいかしらね」と彼女は付け足す。だとしても、彼女にとってはそれさえも微々たるものであるらしい。それは彼女の言動から容易に想像ができた。しかし、私には理解できないものだ。
「自由になるためには、ここから遥か天にある空へ羽ばたくか、自ら命を絶って死ぬしかないそうよ。今の私に選択できるのは一体どっちなのかしらね?」
まるで、そんな自問の答えなど最初から分かっているかのような口ぶり。それがやけに自虐じみていた。
彼女の言う空とは一体何なのだろうか。以前に彼女から何度かその言葉を聞いて知ってはいたが、実際にこの目で見たことはない。どんなところなのだろう――私には想像し難いものだった。
「ああ、今日も長い夜が始まろうとしているわ」
上から蒼い光が降り注ぎ、水の中に溶け込む。月の光だと信じて疑わなかったそれが体内を透過する。
「外に出たいわ。本物の太陽の眩しさや月の美しさを知って――そうね、せめてヒトのような足があれば、ここで自由に泳ぐことだってできたでしょうに」
彼女は視線を別の方に向けた。私も釣られてそちらを見る。そこには、彼女が憧れる外の世界が揺らめきながら広がっていた。彼女の言う「ヒト」という姿もいくつか確認できる。
「たった一枚の、透明な壁で隔てられた世界。私が望む世界はすぐそこにあるのに、どうしてここや私達はあっちと違うのかしら?」
「……そういうのを、運命って言うんだと思う」
久しく言葉を紡ぐ。私が辛うじて返すことのできる精一杯の意見。だが奇しくも、彼女はそれを受け入れたらしい。
「じゃあ、こういうのも運命って言うのかしらね?」
その言葉と共に、彼女の体が形を失っていく。水中と溶け込んでいっているのだ。つまり、死の始まり。
「やっとここから解放される。私はこの時をずっと待ち望んでいたの。自身で選ぶことができないのなら、時が過ぎ、運命が訪れるのを待つしかないと。ああ、本当に長かったわ……」
彼女の声が遠くなっていく。しかし、そこに悲しみは無い。むしろ嬉々に満ちているように聞こえる。
「今度会う時は、蒼い海の中だったらいいね」
「そうね、もうここへは還ってきたくないわ……」
これが彼女の最後の言葉となった。視界から彼女が消える。ついに彼女は全身の形を亡くした。私は一人取り残されてしまう。静寂がやって来る。
結局彼女自身も、命を他所に――時の流れに委ねていたのだろう。
そうでなければ自由になれないと、彼女の場合はそんな風に考えていたに違いない。諦め切れなかった僅かな羨望が、いつしかここまで大きく膨れ上がっていたのだろう。自由を掴むための浮力を得たことによって、自身の命を削っているとは知らずに。
彼女の代わりに寂寥感が水中に漂う。溶解した彼女の面影は一切無い。本当の一人ぼっち、本当の孤独。私はそれを初めて知る。不思議と水の冷たさが増したような気がした。
果たして彼女は、広い蒼海へ旅立つことができたのだろうか。それとも、「ヒト」になって足を得たのだろうか。私の身勝手な想いとしては、一人の「少女」となって外側から私を見つけてほしい。その透明な壁というものに触れ、ここの心地よい冷たさを思い出してほしい。そんな「ヒト」らしい願い。きっと「ヒト」が考え想う夢のようなもの。
――ああ、随分と彼女に感化されたらしい。私もそう遠くないうちに、外への思いを馳せる時が訪れるのだろうか。しかし、当分はこの孤独と共にここで過ごすのだろう。
深い蒼色の光に包まれながら、私は本物の海を夢想して揺蕩うのであった。
終わり