第五章 I AM PROVIDENCE
全長800メートルに及ぶ超弩級恒星間飛行宇宙空母レイク・ハリ。その巨体は光速の数倍の速度で地球へ向けて進んでいた。
この巨艦の最奥部には、艦長のラバン・シュリュズベリイ大佐以外の入室が禁じられた区画が存在する。
一切の照明を廃されたその区画の中心部には王の部屋が存在した。
暗闇に包まれた広間。部屋の各所に配された豪華な調度も、扉や柱に施された精緻な彫刻も、この闇の中にあってはその存在は意味をなさない。
天井から吊られた豪奢なシャンデリアはそこに据えられて以来一度も明かりを灯されたことはない。
己の手先ですら見えない漆黒の墨に塗りつぶされたその空間に、光が存在した試しはない。
その闇の中に、玉座があった。玉座に座るはひとりの王。従者の一人も侍らすこともなく、王はただひとりでそこに在った。
襤褸のごとくすり切れたフード付のローブを纏った王は、脚を組み、頬杖をついただらしない格好で玉座に座っている。
たとえこの闇を見透かすことの出来る人間がいたとしても、王の表情は読めない。
フードの奥には顔を隠す青白い仮面があった。
ゆったりと身体を覆うローブと相まって、王の年齢はおろか性別すら判らなくしている。
唐突に玉座の正面にある両開きの扉が開く。広間と同じく照明の無い廊下からは光が入ってくる事も無い。
暗闇で充たされた廊下から暗闇で充たされた広間へと、一人の男が入ってくる。
肩まで伸びた白髪に古くさいダブルの背広で身を包んだ初老の男だった。
男が入室すると背後の扉が音もなく閉まる。男は暗闇の中を迷いもせずに真っ直ぐと玉座に近づくと、片膝をついて礼をした。
「面を上げよ。シュリュズベリイ大佐。余に話があるのだろう?」
青白い仮面の奥から王が言葉を発する。これまた年齢も性別も判別しがたい中性的な声だった。
シュリュズベリイと呼ばれた初老の男が顔を上げる。周囲は文目も判らぬ暗闇だというのに、男の目はサングラスに隠されていた。
王の御前であろうが暗闇であろうが、それを外す気はないらしく、王もその無礼を咎めはしなかった。
「は、報告いたします。先に派遣したロイガーとツァールが敵の反撃によって損傷し、現在アラオザルにて修理中で御座います。
敵方はこれを追撃すべく準備を進めている模様です。ここで双子を失うのは得策ではありませぬゆえ、
ウェンディゴ隊の出撃を前倒し致したく、御裁可を願います。」
王は大義そうに脚を組み替えると言った。
「些事の采配は貴公に一任している。好きにするがよい。そのような事で我を煩わせるな。」
シュリュズベリイは再び頭を垂れた。
「は、申し訳ございませぬ。」
王はめんどくさそうに手を振った。
「もうよい、下がれ。次こそは戦勝の知らせを聞きたいものだな。」
シュリュズベリイはますます恐縮した体で退室していった。
老人の退室を見届けて王はひとりごちる。
「なかなかやるではないか、クトゥルーも人間どもも。」
突然、王の身体が小刻みに震え出す。そして仮面の奥から漏れる忍び笑い。
「もっと、もっと、楽しませておくれよ。君たちはその為だけに用意された道化なのだから。」
邪悪な笑い声が王の間に充たされた闇を震わせた。
アメリカ合衆国。ロードアイランド州プロヴィデンス。アメリカ開拓期の初期より続く、古き良き英国情緒を残した街である。
三週間前、矢吹絵里は母親と共にこの街へやってきた。
彼女の父、矢吹順一は彼女の幼なじみ、摩州剛太の祖父が運営する研究所に勤める研究員であったのだが、
彼女の住む鎌倉は謎の武装集団による襲撃で崩壊し、父の勤める研究所も丸ごと自衛隊に編入されてしまった。
父が言うにはギョジンガーZがある以上、鎌倉が再び戦場になる可能性は高いらしい。
絵里と母だけでも安全な土地に避難するべきだということで、母娘はアメリカに住んでいるという母親の兄を頼って渡米したのであった。
当初絵里は反対した。異国の地で、会ったこともない伯父の世話になるというのは気が進まないこと夥しかったし、
なにより父や剛太を置いて自分だけが安全な土地に行くというのが耐えがたかった。
しかし、両親の剣幕に押されてあれよあれよという間に飛行機に乗せられ、気がつけばアメリカにいた。
母の兄だという男は五十がらみの男やもめで、頭頂部は見事に禿げ上がり天井から吊された蛍光灯の光を暴力的なまでに反射していた。
絵里が会うのは初めて、母にしても絵里を身籠もっていた時期に一度会った以来の対面であった。
伯父はたいそう気さくな人物で、初対面の絵里が呆れるほどよく喋った。
聞くところによれば伯父はもともとアメリカ文学史を研究していて、なんとかという作者の作品に感銘を受けたあげく、
その作者が生まれ育ち、生涯のほとんどを過ごしたこの町で暮らすことを決意したらしい。
以来ほとんど帰国することもなく、この古い駒形切妻屋根を備えた家に引きこもり、
例のラヴなんとかという作家の作品やら彼が残した膨大な書簡やらの研究に勤しんでいるらしい。
伯父は絵里を書斎へ連れて行くと、さも自慢げに蔵書の自慢を始めた。
蔵書は全て洋書で、絵里には辛うじて'THE OUTSIDER AND OTHERS'や'AT THE MOUNTAIN OF MADNESS AND OTHER NOVELS'といったタイトルが読み取れる。
いくつかを手にとってみるが、表紙に描かれた不気味な絵がどうにも興味をそそらない。
困惑する絵里を余所に、伯父は一方的に話し続けた。
「一昔前の資料ではHPLは人嫌いで気むずかしい隠遁者だったかのように書かれているが、
最近の研究では彼はむしろかなり明るく社交的な人物だったことが判ってきた。
彼は地元の文学サークルに参加し、一時は代表を務めたこともあったし、
彼が友人達に書き送った膨大な書簡の数は、彼が決して人付き合いの嫌いな人間ではなかった証だ。
彼は生活費を圧迫するほどの金を便箋と切手の代金につぎ込んでいたのだよ。
もしも彼が現在に生きていたらカリスマブロガーになっていただろうと思える。そして…」
何か伯父の話を切り上げさせる口実はないものかと思いつつ部屋を見回す。
書斎の壁は全て書架でふさがれ、机の上にも最低限の筆記用具以外置かれていない。
話題をそらすネタを探しているうちに、伯父の演説はさらにヒートアップしていく。
「私はオーガスト・ダーレスを認めない!ダーレスはラヴクラフトの一番弟子を気取っていたが、彼の増長が神話を歪めてしまった。
結局の所、ダーレスは低脳な凡俗に過ぎない。真の天才たるラヴクラフトが作り出した深遠なる恐怖を陳腐な二元論に集約してしまった。
人間の理解を遙かに超越した高次の存在にとって人間の倫理や道徳など取るに足らない事だというのに、
ダーレスはあろうことか『宇宙的な善』だの『宇宙的な悪』だのなんて言葉をひねり出してしまった。
たしかに、歴史の闇に埋もれてしかるべきだったHPLの作品を出版するために自費を投げ打って出版社を設立し、
HPLの作品を精力的に配布していった功績は認めよう。だが、彼は神話を書くべきではなかった。
特にHPLの遺品の創作ノートを元に書かれたHPLとの合作と称する駄文は読むに堪えない稚拙さだ…」
絵里は悟った。とっくに止めるべきタイミングを逸していたのだと。
結局、伯父のアメリカ文学論(?)の演説はその後一時間半ほど続いた。
馴れない長旅と初対面の伯父による長々としたアメリカ文学講義に疲れ果てた絵里は、
夕食後すぐに自分に割り当てられた二階の部屋に引き取り、ベッドへ転がり込んだ。
疲労が呼び寄せた睡魔と時差ボケがすぐさま絵里を夢も見ない眠りへと引きずり込んだ。
深夜、絵里は目を覚ました。まだ疲れが残っている身体は睡眠を欲しているが、不思議と寝付けない。時差ボケの影響だろうか。
取り敢えずトイレにでも行こうと思ってベッドから抜け出した時、隣室から話し声が聞こえてくるのに気づいた。
隣の母の部屋で母と伯父が話しているらしい。
十数年ぶりの兄妹再会に積もる話もあるのだろうと思い、なんとなく二人に気付かれたくなくて、そっと廊下に出た。
母の部屋の扉は少し開いており、室内の光が細く廊下に漏れている。
伯父の声が聞こえてきた。
「今の旦那とはうまくいっているのか?」
絵里は驚いて足を止める。息を潜めてドアの隙間に近づくと母の返答が聞こえてくる。
「ええ、とてもよくしてくれてるわ。自分の子でもない絵里にも優しいお父さんで通ってるようだし。」
絵里の心臓が飛び跳ねる。もはや眠気など何処かへ消えてしまった。
「絵里は知っているのか?」
「いいえ、知らないわ。あの子が物心ついたときにはもうあの人がいたから、本当の父親だと思ってるでしょう。
いつかは言わなきゃいけないんだけど、それで変にギクシャクするのも怖くて。だから兄さんもその話は絵里の前ではしないで。」
絵里は両腕で自分の身体を強く抱きしめた。腕に鳥肌が立っているのが判る。寒くもないのに足が震える。
今まで父として慕っていた人は、本当の父ではないらしい。
何の心の準備もなしに聞かされるにはあまりにもショックな事実であった。
では、本当の父親とやらは一体どこの誰で、今は何をしているのだろうか?
呆然としながらもそう思った絵里の考えを代弁するかのように伯父が口を開く。
「わかったよ。でも、前の旦那はどうなったんだ?確か会社をクビになってプーになって別れたとかいつだか聞いたが。」
「風の噂では何か新興宗教をおっ立ててそこの教祖に収まったんだけど、十年くらい前に教団の本部が地震で倒壊して本人も死んだらしいわ。」
「そいつはまた、波瀾万丈な人生だね。」
「そんな事だから、ますます絵里には本当のことを教えたくないのよ。別に今のまま本当の親子としてやっていってくれればベストだわ。」
二人の話はまだ続いていたが、絵里にはそれ以上聞いていることは耐えられなかった。
音を立てないようにそっと階下へ降りるとパジャマの上から上着を羽織り、裸足の足に靴を履かせると、そっと玄関から外に出た。
二人が話をしている隣の部屋で寝る気にはなれなかったし、しばらく夜風に当たっていたかった。
初めて訪れた異国の街の地理など知るわけもなかったが、人に会いたい気分ではなかったので何となく街外れと思える方に向かって歩き出す。
今まで自分を騙していた両親への怒りや、十年も前に死んだという実父への思いなどが渦巻き、思考がまとまらない。
恐らくは自分がごく幼い時に母は離婚し、すぐに今の父と再婚したということだろう。
では、母と別れた後の実父はどうなったのであろうか?新興宗教の教祖に収まったあげくに地震で死んだらしい。
仕事を失い、妻と幼い娘に捨てられた父はどれほどの絶望を抱いたのだろう。
そのあげくの非業の死。そんな人物の血が自分に流れているという現実。
ふいに絵里は千々に乱れた思索から現実へ帰還する。どれほど夜道をそぞろ歩いたのだろうか。
気付けば周囲は墓地だった。十字架の並ぶ西洋式の墓地を見るのは初めてだったが、不気味さは日本の墓地と変わらない。
こんな深夜に訪れたい場所ではなかった。絵里は墓地の出口を求めて歩き出した。
しかし、墓地の中には当然のように明かりなどない。唯一の照明である月は、曇った夜空に浮かぶ雲に光を滲ませていた。
数歩も歩かない内に墓石につまづいて転ぶ。
「なんでこんな所にお墓があるのよ、もう!」
不安感を誤魔化すためにあえて強気に墓石を罵ってみる。
その時、雲から抜け出した満月が墓石を照らした。名前と生没年の後、奇妙な墓碑銘が刻まれている。
'I AM PROVIDENCE'
あまりに奇妙な墓碑銘に絵里は首を捻った。
「我は神意なり…?」
自分の本当の父親が新興宗教の教祖だった事を考えていたときに、こんな奇妙な墓石につまずくとは。
しかしすぐに思い当たる。ここは歴史ある古都、プロヴィデンスだ。
PROVIDENCEは神意という意味ではなく、単なる地名だ。おそらく郷土愛の深かった人物のお墓に違いない。
「きっと『我こそはプロヴィデンス』が正しい意味なのね。地元の名士とかだったりしたのかしら。」
「それはダブルミーニングですよ、お嬢さん。」
突然声をかけられ、絵里の心臓が飛び跳ねる。
アメリカの深夜の墓地で突然背後から日本語で話しかけられるなど、想定外もいいところだ。
水泳部で鍛えた心肺機能でなければ心臓発作で死んでもおかしくないほどの驚愕だった。
慌てて振り返ると、全身黒ずくめの男が立っていた。
そのまま後ずさろうとして再び墓石につまずき、後ろ向きに転倒する。後頭部をしたたかに地面に打ち付けた絵里の意識は深い闇に飲まれていった。
再び雲から月が現れて墓地に佇む黒衣の男と、仰向け倒れたまま昏倒した絵里を照らす。
男が着ているのは黒いカソックだった。そしてポケットからおもむろに何かを取り出した。
それは金の指輪のようだった。それを失神している絵里の右手の人差し指にはめていく。
「これでつがいが揃う。星辰が揃い大いなるものが復活する日は近い。」
再び雲が月を隠すと、男は絵里の身体を担ぎ上げて背負い、闇の中へと歩き去っていった。
つづく