序章
人類史上最も重要な役割を果たした出版人の一人、オーガスト・ダーレス氏に捧げる
序章
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…
下弦の月が冷ややかな光を投げかける、人気の絶えた深夜の住宅街。
その路地を、息を喘がせ、足をもつれさせながら、一人の男が走っている。
男の名は本田竜之介。普段は柔和で温厚な丸顔は恐怖に歪み、運動不足の肥満体に鞭打ってひたすら走っていた。
後ろを振り返る余裕など無い。彼は己の生存本能の命じるままに走った。
事の始まりは今から一時間ほど前に遡る。
本田は秋田市郊外に建つ、本義陀権教本部ビルにいた。
本義陀権教は5年ほど前に本田が立ち上げた新興宗教団体だった。
30代半ばにして妻と離婚した。二人の子供も妻について行った。
月々の養育費の支払いにも事欠こうという矢先、勤め先の金属加工工場が倒産。
本田は全てを失った。この不景気で手に職があるわけでもない三十男に次の仕事は見つからず、
失業保険も切れて先は自殺かホームレスかという失意のドン底にいたとき、天啓が訪れた。
カップ麺やコンビニ弁当の残骸が散乱する汚い四畳半に、天使が降臨したのだ。
天使は神託を本田に告げ、彼はそれを書き留めた。
三夜続けて天使は現れ、彼にこの世界の成り立ち、構造、神とは、人とは、魂とは何かを語った。
四日目の朝、本田は既にアル中気味の失業者ではなくなっていた。
神の教えを広めるべく選ばれた預言者となったのだ。
彼はなけなしの金をかき集めると東北地方にあった、ある宗教法人の認可を買い取った。
新規に宗教団体の認可を受けるには金も時間も莫大にかかるが、既に存在するが活動実態の無い法人の権利を買い取ることは可能なのだ。
代表者の名前を変更し、団体名も本義陀権教と改めた。
そうして始めた宗教活動だが、思ったより順調に進んでいった。
中東の古代宗教を仏教風にアレンジした彼の教えは、その現世利益的な御利益と、厭世的な終末思想が相まって、
時代のニーズに適合したのだった。わずか5年で東北地方を中心に信者数三千人を擁する団体へと成長した。
そして半年前の夜、四階建ての本部ビルの最上階にしつらえた瞑想室で本田が座禅を組んでいると、
実に四年半ぶりに再び天使が現れ、本田に神託を告げた。
曰く「雄牛の心臓より、邪悪の皇太子が攻め来たる。大いなるものを目覚めさせ、これに備えよ。」
それだけ言うと天使は消えてしまった。本田はこの曖昧な言葉の意味を調べた。
雄牛の心臓というのは牡牛座のアルデバランである事はすぐに判ったが、邪悪の皇太子や大いなるものについては謎だった。
強いて言えば1920年代のアメリカで生まれた架空神話大系「クトゥルー神話」において、邪神ハスターの別名として「邪悪の皇太子」という言葉が、
あるいは邪神クトゥルーに対して「大いなる」という形容が冠されるのが判ったのみだが、
所詮はフィクション、作り物のエセ神話である。とても信じる気にはなれない。
しかしながら、おおよその所「アルデバランより災厄が訪れるので対抗処置を講じよ」というような意味にとれる。
本田は何人かの天文学者に面会し、最近アルデバランに何か動きがないかと尋ねた。
すると数ヶ月ほど前からアルデバランや周辺のヒヤデス星団、プレアデス星団にて今までに見られなかった現象が相次いで発見されたそうだ。
恒星の光度の不自然な増減、新たな惑星の発見、不自然な電磁波の感知等が確認されているようである。
地球からアルデバランまでは65光年、観測されているのはあくまで65年前に起こったことだ。
しかし、アルデバラン周辺で何かが起こっているのは確実であり、本田は彼ら天文学者達に再び何か動きがあれば知らせてもらうよう依頼した。
数週間後、一人の天文学者から連絡が来た。ヒヤデス星団の方向から飛来する彗星らしきものを観測した。
詳しいことはより設備の整った天文台で観測する必要があるが、地球の軌道に接近する可能性もある、との事だった。
本田は先の天啓と合わせ、これをすぐさま公開した。天文雑誌には断られたが、オカルト誌やスポーツ新聞にも警告の記事を載せてもらった。
「ヒヤデス星団より巨大彗星が飛来し、最悪地球に激突する」という話は、一部のオカルトマニアや天文マニアの話題にはなったが、
一度か二度ワイドショーなどで取り上げられただけで、すぐに世間に忘れられた。
その後彗星の詳しい観測が行われたのかどうかも、本田の耳には入ってこなくなった。
先に面会した天文学者達とも連絡が取れなくなった。
そして今日、今から一時間ほど前、本部ビル一階の執務室で本田はいかにしてこの警告を人々に伝えるかに腐心していた。
隣の事務所ではまだ三人ほどの職員が事務仕事に精を出している。
来月行う全信徒の半数以上が参加する行事の準備の為に、こなさねばならない事務仕事が山積みなのだ。
全人類に警告を与える預言者としての立場と、本義陀権教教祖としての立場、本田の仕事は多忙を極めていた。
突如、事務室から女性職員の悲鳴が上がる。続いて連続した轟音。
ガラスが割れる音、物が倒れる音、悲鳴、怒号、銃声。
立て続けに起こった銃声と共に、流れ弾が壁を貫通して執務室に飛び込んでくる。
本田は慌ててマホガニーの執務机の下に潜り込む。
轟音を伴って机の上に置いたカップが砕け、背後の窓ガラスが粉砕し、書棚のファイルが吹っ飛んで紙片をまき散らす。
本田が机の下で呆然としていると、執務室のドアが蹴り開けられ一人の男が入って来た。
法衣のような黄色いフード付のローブと、手に持ったサブマシンガンの組み合わせが異常だった。
フードを深くかぶった顔は暗くて覗えない。
他にも仲間がいるらしく、背後で「二階を探せ!」「神体の類いは破壊しろ!本の類いは押収しろ!」「持って行けない物は焼却しろ!」
などと複数の男達が怒鳴り合う声が聞こえてくる。
男は銃口を本田に向けると、無言で引き金を引いた。しかし、その瞬間に激しい揺れが本部ビルを襲った。
体勢を崩した男はあらぬ方向に銃口を向けたままサブマシンガンを連射する。
強烈な地震に絶えきれず、天井や壁に亀裂が走る。
棚が倒れ、椅子が吹っ飛び、何もかもがグチャグチャに掻き回される。
男達の悲鳴と「撤退しろ!外に出るんだ!」という声がミキサーのような狂騒に掻き消される。
ついに天井が上層階の重量に絶えきれずに崩壊する。
本田はとっさに執務机の下で身を丸めた。頭上に降り注ぐ瓦礫の山から我を守り給えと、神では無く執務机に祈っていた。
瓦礫の山となった本部ビルの残骸に囲まれて、本田は目覚めた。
さほど時間は経っていない。ほんの数分といった所だろう。
頑丈な執務机に守られたのか、大きな怪我はない。
瓦礫の下から這い出ると、いくつかの懐中電灯の光が見えた。
警察か消防が救助に来てくれたのだと思い、助けを求めようと口を開けたが、あわてて両手で口を塞いだ。
懐中電灯の持ち主を、別の懐中電灯の光が一瞬照らしたのだ。
そいつは黄色いフード付のローブを身に纏っていた。
懐中電灯だと思っていたのはサブマシンガンに装着されたライトだった。
まだこちらには気づいていないようなので本田は音を立てぬよう慎重に瓦礫を踏み越え、
本部ビルの裏手に向かって行った。
そして、40男の肥満体に鞭打つ逃亡劇が始まった。
夜の住宅街を右に左にと折れ曲がり、ひたすら前へ、前へと走り続ける。
背後に追っ手が迫っているかどうかはわからない。
振り返る勇気などない。
きっと振り返ったら殺される。
そんな強迫観念が本田の足を動かし続けた。
肺が悲鳴をもらす。心臓は今にも爆発しそうだ。脇腹の痛みは致命的だ。
それでも彼の生存本能は彼に止まることを許さない。
しかし、慈悲深い9mmパラメダム弾が、彼の身体に停止を許した。
背後から発射された弾丸は彼の後頭部に着弾し、顔面を粉々に粉砕しながら血液と脳漿を路地に撒き散らした。
頭部を粉砕されて崩れ落ちる彼の背後では、黄色いローブを着た男が消音器を付けたMP5Kのセレクターを単発から安全に切り替えると、
ローブの下にしまった。彼の足は地面に接していない。地上3メートル程に浮いている。
なぜなら彼は巨大なハチのようなものに跨がって宙に浮いていたからだ。
「チッ、手こずらせやがって」
しばらくホバリングしたまま本田の屍体を眺めていたが、ふいと向きを変えると、一気に上昇し、
いずこかの空へと飛び立ってしまった。
翌日、本義陀権教本部ビルの倒壊と焼失、これによって教祖本田竜之介と教団職員三名が犠牲になったと、
地方紙の社会面の片隅の小さな記事で報じられた。
つづく