翼を持たない少年は
どうしてその少女が自分たちと一緒にいるのか、リンはずっとずっと知らなかった。見るからに自分たちとは違うその子を、最初は「お姉ちゃん」と呼んでいたように思う。だけど、気づけば少女の目は自分より下の位置にきていて、いつの間にか妹という存在になっていた。いつもリンの後ろをついて歩く女の子。
それが、エイダだった――
「ねぇ、アニエス。どうしてエイダの背中には翼があるの」
そんなことを親代わりのアニエスに尋ねたのは、いつのことだっただろう。
客がだれもいない昼間を見計らって、店番中のアニエスに訊いたのだ。アニエスはカウンターの奥にいて、リンはその椅子に座っていた。カウンターテーブルに両肘を置いて、食器を洗うアニエスを見ていたのだ。無造作に結った赤い髪が動くのを目で追いかけて、少し暗い表情をしていただろう。
「アニエスにも、ニコラやテッサ、ローラおばあちゃんにも、ぼくにも羽なんかないよ。どうして、エイダにはあるの? どうして、同じじゃないの?」
その問いかけは、アニエスを困らせたのだとわかった。だけど、リンは訊かずにおれなかった。血の繋がらない兄弟はエイダのほかにいたが、その二人は『普通』なのだ。エイダ一人が真っ白な髪と肌で、背中に小さな翼をひとつだけ持っていた。まだ幼いリンだって、エイダが『おかしな存在』だとわかる。
不思議だったのはその『異常』な妹を、家族が平然と受け入れていることだ。それどころか、小さな妹をだれよりも慈しんでいる。――リン自身を含めて。
「リンは、エイダが好きでしょう?」
リンはうつむきながら、うん、とうなずいた。リンもみんなも小さなエイダが大好きで、大切に思っている。だけど……
「アニエス、エイダは『トリビト』なの? 僕らとはちがうの? ヒトじゃないの?」
アニエスの顔がわずかに強張った。ざっくり切り込んだ言葉は、もう取り消せない。触れてはいけないことに自分は触れているのだ。
(だって、どうして)
エイダとラスの街へ行ったときの、周りの反応がずっと気になっていた。遠巻きにする大人たちは、エイダがいなければ普通に話しかけてくれた。しかしエイダと一緒だと、妙に態度がよそよそしい。言葉にこそされない拒絶の目がそこにあった。
「エイダはトリビトという種族なの。背中に翼があるのはそのせいよ」
リンはぎょっとなった。まさか、肯定されるとは思わなかったのだ。
「じゃあ、エイダは」
化け物、という声が耳の奥で蘇る。
リンのあとをついてくる少女に向かって、投げつけられた言葉だ。『トリビト』という言葉を知ったのは、そのときだ。
『トリビトのくせに小せぇ翼だよな。しかも一つしかない。飛べないんだろ、そいつ』
嘲りは毒をもって吐き出された。
『半端な化け物を化け物と呼んで、何が悪い。こいつらのせいで、戦争が起こったんだろが。どうして俺たちの街に、化物がいるんだよ!』
そう言ったのは、リンより少し大きな子どもだった。ラスの街で時折見かけた少年である。彼には父親がいなかった。戦争へ行って戻ってこなかったのだ。彼がろくに学校へ来られないのは、働いているためだ。
(エイダのせいなの?)
ずき、と何かが胸をえぐった。リンの後ろで小さくなるエイダを振り返れない。ぎゅ、と服のすそを握る妹の、何かが変わったわけではないのに。
近づく少年の顔は怒りに染まっている。咄嗟に両手を広げたリンを突き飛ばし、エイダの髪をつかむ。無理やり髪を引っ張り上げられ、エイダが涙にぬれた顔を仰け反らせた。もがいても逃げられない。
『やめてよ! エイダは化け物なんかじゃない!』
二つ、三つの年齢差が大きな壁になって、リンなど相手にならなかった。大人たちは視線をそらして無関係を装った。大人を当てにできない。
『エイダが何をしたの。トリビトの何が悪いの。エイダが何をするって言うんだよ! どうしてみんな、エイダをいじめるの!?』
果敢に向かったリンは突き飛ばされ、蹴り飛ばされた。背中を踏みつけられたリンの目前で、エイダの足が宙を浮く。もがく妹の翼に触れたのは、悪意ある者。――その手にきらめいたのは銀の輝き。ナイフを持った少年の顔が、残酷に歪んだ。
『飛べないならこんなもの、いらないよな』
『いや。いやだ放して、いや、やだぁぁ!』
妹の声が響いたとき、さすがに大人たちがざわめいた。見て見ぬ振りをしていたが、『そろそろ止めたほうがいいんじゃないか』とざわめくのだ。それに怒りを感じるより早く、『やめろ!』いう制止がかかる。地べたを這ったリンが見たのは、猛然と走ってくる兄の姿だ。舌打ちが聞こえて、二人は開放された。この辺りで、兄のニコラにケンカで敵う奴なんていない――
『待ちやがれ、この野郎! うちに用があんなら、俺に言えっつーんだ!』
擦り傷で痛い身体を起こし、リンはぎゅっと拳を作った。歯を食いしばって走っていく兄の背中を見る。いつも誰かの背中に守られてばかりだ。今もまた、エイダを守りきれない。
そこへどん、と突然何かがリンの背中に当たった。驚いたリンが振り返ると、傷だらけの少女がしがみついていた。小さな肩を震わせて、顔を押し付けている。ぽたぽたと、涙のスポットが地面に刻まれた。よっぽど怖かったに違いない。どうして……エイダがこんな目にあわなきゃならないのだろう。
リンが不器用にエイダの頭をなでていると、ニコラがどしどし地面を叩くように戻ってきた。逃げられたらしく、怒り心頭だ。しかし、兄は安心させるように二人へ笑顔を向けた。
『追い払ってやったぞ、もう大丈夫だ』
リンから離れなかったエイダを抱き上げ、帰ろう、と歩き出すニコラの背中。
リンは、それを情けない面持ちで見上げたのだ……。
「ねぇ、リン」
考え込んでいたリンは、アニエスの声にハッと我に返った。アニエスがカウンター越しにリンの顔を覗き込んでいる。
「リンは『トリビト』だと、エイダが嫌い? エイダが怖い? ねぇ、『トリビト』の何がダメなのかな」
そんなこと言われたってわからない。
感情をうまく言葉に表せず歯がゆくなる。どうしたらアニエスに伝わるだろう。そうじゃない、そうじゃないのに……。
不意に、あたたかい手がうつむいたリンの頬を包み込んだ。水仕事で荒れた指先はカサカサしていたけど、やさしい。
「リンはエイダが好きでしょう? それじゃあダメなのかなぁ」
精一杯笑いかけてくれるアニエス。
「私は、エイダが大好きよ。あの子といるとホッとするの。エイダが『トリビト』だとしても関係ない。あの子の翼はかわいいし、とてもきれいじゃない。それに歌もうまいし、美少女だと思うのよね。あの子が笑ってくれると嬉しくなるし」
茶化そうとして「あはは」と笑うアニエスの声は、不意に途切れた。リンの目から、涙がこぼれたからだ。え、と驚くアニエスの前で、リンは涙を溢れさせた。
「じゃあ、どうして」
身体の奥が熱くなるのは憤りからだろうか。それとも悔しいからか。リンは涙のついたメガネを外した。アニエスがあたたかい分だけ、心が引き裂かれそうだった。
「じゃあどうして、エイダは化物って言われるの……?」
エイダが好きだから、リンは化物と呼ばれることが辛かったのだ。だから、エイダに翼がある理由を知りたかった。
その答えは単純で明快。エイダはヒトじゃない、別の生き物だ。
だから……あの子はいつまでも小さなまま。この先も恐らくずっと変わらないまま。
――それを認めたくなかったのかも、しれなかった。
「エイダはどうしてあんなこと、言われなきゃいけないの。翼があるから? 何も悪くないのに? 『トリビト』だから? ねぇアニエス、どうして?」
何故、エイダが傷つけられるのだろう。泣くのだろう。
守りたいのに守れない。
おかしいと叫んでも聞いてもらえない。
化物なんかじゃない。エイダはそんなものじゃない。
なのに、どうして、自分たちが間違っているような目で見られるの?
どうして?
「おかしい、と思えることは、間違いじゃないわ、リン」
涙でぐちゃぐちゃの顔をリンは上げた。いつの間にかカウンターから出てきていたアニエスが、タオルでそっとリンの涙をぬぐう。
「エイダを知りもしないで罵る人はいるけど、ちゃんとあの子を知っている人は、そんなこと言わない」
少しかがんだアニエスの赤茶の眸が、真っ直ぐにリンを見つめた。
「あなたがまだ赤ちゃんの頃、戦争があったの。いいえ、今だって戦争が終わったわけじゃないけれど。戦争は理不尽な暴力だわ。傷つく人がいっぱいいて、たくさんの涙が流れたの。その傷跡は今も残っている」
リンの両親も戦争で亡くした。アニエスの両親も、だ。頼るもののないアニエスは、戦争を反対するラスの街まで流れてきた。だが、ここでも戦争は現実だった。今もなお、倒壊した家々がそこかしこに並んでいる。
「自分のせいではないのに、悲しくて、悔しくて、怒鳴りたくて。でも、周りには同じように傷ついた人しかいないの。お前のせいだ、お前が悪いんだ、と言えないの。行き場のない感情ばかりが残るのよ」
だから? とリンは言った。
アニエスは淡い苦笑を浮かべ、うなずいた。
「エイダはそんな人たちの憤りをぶつけられている」
「エイダは悪くないのに!」
「そうよ。エイダだって被害者だわ。でも、そんなことなんか知らない人のほうが多い。だからエイダを責めるの。そうじゃないと耐えられなくなるのよ。あの子を知っていたら、そんなこと言えるはずがない。でも本当はエイダこそが……人間を……憎みたいでしょうに……」
最後のほうでは、アニエスの顔は手のひらで覆われていた。すっと立ち上がって壁にもたれかかる。リンは、あわててアニエスのそばに寄った。泣いているのかと思ったのだ。だが、アニエスは泣いてなどいなかった。怒りを抑え込んでいるようだった。アニエスは数回深い呼吸をして、やっと顔から手を離した。そこにいたのは、いつものアニエスだ。
みんなをすくい上げてくれるアニエスの強い眼差しは、そっとリンに向けられた。
「人間っていうのは、単純な生き物なのよ。自分たちが豊かじゃないと、他人に割ける優しさを持てなかったりするの。余裕ができて、初めて周りを見渡せるようになる。だから、きっと今がよくなれば……エイダはあんな目にあわずに済むわ。だれの目も気にせず、街を歩けるようになる。
私たちは、わかりあえるはずなんだもの」
それはいつ?
リンがたずねると、五年後かもしれないし、十年後かもしれない、とアニエスが微笑む。その笑顔にリンは背中を押してもらえたように感じた。アニエスが言うなら信じられる。
「なら僕は、それまでエイダを守るね」
エイダが泣かないですむように、ずっとずっと、そばにいるから。
それは少年が自分に課した、小さな誓い。
大きくて重たい誓いは、その頃はまだ、羽のように軽いものだった。
白と黒の王国に、リンがたどり着くまでは。