わたしが配ります 〜自分にだけ幸運を配れない番人と、押しかけの助手〜
「助手にしてください!」
工房の門柱に寄りかかっていた女が、わたしを見つけるなり、そう叫んだ。
背は低い。日に焼けている。旅の荷を足元に放り出したまま、大きく手を振ってくる。振る必要のない距離だった。
「間に合っております」
わたしは荷物を持ち直して、坂を上りきった。近づくと、頭ひとつぶん見下ろす形になる。
「間に合ってません。いま首に雨が入ってましたよね」
「見ておられたのですか」
「はい。すごく間抜けでした」
褒める気配がまるでない。
念のために言っておくと、わたしはこの街の番人である。溝に溜まった不運を掬い、布で漉して幸運に替え、街の人の懐にこっそり落として回るのが仕事だ。間抜けかどうかで採用が決まる職ではない。
厄介な規則が、ひとつだけある。
——番人は、自分に配ってはならない。
自分の滓も、自分では漉せない。同じ規則に触れる。掬うことだけは許されているので、毎晩、寝る前にそのぶんを桶へ移す。そこから先へは進めない。工房の裏の桶には、わたしのぶんだけが何年も沈んだままになっている。覗くと、底のほうまで真っ黒だ。
まあ、いい。首に雨が入って死んだ者はいない。
——それで、話を戻す。
「あの、聞いてます?」
「聞いております」
わたしは崩れた髪をきつく結わえ直して、女の脇を通り抜けた。
「返事は?」
「間に合っております」
「二回目ですよ、それ」
門をくぐり、扉を閉めようとしたところで、日焼けした手が挟まった。
「わたし、アキアといいます」
「存じません」
「いま名乗りました」
「存じませんでした」
押しても、扉はびくともしない。この女は小さいわりに力がある。
そのうえ、挟まっていたはずの手が、いつのまにかこちらの手首をつかんでいた。
「番人さま、手、荒れてますね」
「毎朝、冷たい水を使いますので」
「わたしがやります」
「規則がありますので」
「手荒れを禁じる規則があるんですか」
「……ありませんが」
「じゃあ大丈夫ですね!」
大丈夫ではない。何ひとつ大丈夫ではない。
その日、わたしは扉を閉めることに失敗した。
「番人さま。番人さま」
「なんです」
「番人さま」
「呼んでいるだけですか」
「はい!」
翌朝、その女は工房の前に座っていた。夜のうちに帰ったものと思っていたが、荷物の上で丸くなって寝ていたらしい。髪に藁がついている。
「その呼び方はやめてください」
「じゃあ何とお呼びすれば」
「サーダです」
「サーダさま」
「さまも要りません」
「サーダ!」
「……呼び方が近い」
言ってから、しまったと思った。実際に一歩詰めてきたので、距離の話にもなってしまった。
わたしは柄杓と桶を持って坂を下りた。うしろから足音がついてくる。追い払っても意味がないことは、昨日の扉でわかっている。
溝を覗くと、昨夜の雨で滓がよく溜まっていた。
「うわ、気持ち悪いですね、これ」
「気持ち悪いです」
「認めるんですね」
「毎朝触っておりますので」
アキアはしゃがみこんで、指を伸ばした。止める前に触った。
「ぬるっ」
「言った通りでしょう」
「これが不運なんですか。もっとこう、ぱっと見て不吉なやつかと」
「見た目に凝った不運は、聞いたことがありません」
柄杓を渡してやると、この女は驚くほど手際がよかった。溝の底をさらう角度が正しい。桶の縁で切る所作にも無駄がない。
「……どこかで似た仕事を?」
「井戸さらいと、溝さらいと、漁の網さらいをやりました」
「さらってばかりですね」
「はい。旅費を稼ぐので」
工房に運んで、布で漉す。三度。
布を張った枠に流しこむと、しばらくして音が変わる。さらさらと落ちていたのが、ぽつ、ぽつ、になる。目が詰まった合図で、そうしたら布を替える。三度目を終えると、黒いものは布の上に残り、下の桶には白い上澄みだけが落ちている。それが幸運だ。
「わたしも流しましょうか」
「無理です。漉せるのは器のある者だけですので。器のない手で流したところで、滓は滓のままです」
「けち」
「持って生まれたものの話をしております」
アキアは、それきり食い下がらなかった。あとから思えば黙る理由があったわけだが、そのときは素直だと思っただけだった。
布を替えるのにも、桶を運ぶのにも、器は要らない。要るのは流しこむ手だけだ。それでも、いつもは日が傾く作業が、今日は昼過ぎに終わった。
単純に、手が足りていたからだ。
布に残った黒いものは、そのまま日に当てておく。夕方には乾いて灰になり、灰になった不運は、もう誰にも当たらない。捨てるのと漉すのは、まるで違う。
「サーダ、これ何ですか」
振り向くと、アキアが秤の皿に手をかけていた。工房の真ん中に据えてある、大きなやつだ。皿が小さく軋む。
「触らないでください」
思ったより鋭い声が出た。アキアが手を引っこめる。わたしは針を見なかった。見るより先に、皿を庇っていた。
「壊れると困るやつだ」
「わたしが困ります。量る道具です。皿に載せたものを配ったとき、世界がどちらへどれだけ傾くか。針が読むのは、それだけです」
「重さじゃないんですね」
「石を載せても動きません。石は誰にも配れませんので」
量るときは、帳面の欄に指を置いて、配る相手を先に決めておく。幸運には総量があるから、誰かに多く配れば、どこかで足りなくなる。針が中央から動かないように、少しずつ、慎重に。世界の釣り合いを守る。番人の仕事は、それだけだ。
「じゃあ、人が触ったら、どうなるんですか」
「皿に掌を置いたときだけ、針は別のものを読みます。その者が、世界をどちらへ傾けているか。番人になれるのは、どちらへも傾けない者だけです。資格を決めるのは人ではなく、この針ですので」
「へえ」
やけにあっさりした返事だった。
「規則の話、まだ聞いてませんけど」
「三つあります。一つ、街から集めた不運は、必ずその日のうちに漉すこと。二つ、配る量は帳面の通りにすること。三つ、番人は自分に配ってはならないこと」
「三つ目、変じゃないですか?」
「変ではありません。量る者が配られたら、針の読み方がわからなくなるだけです」
「ふうん」
アキアは腕を組んで、秤をしばらく眺めていた。それから、急に別のことを言った。
「わたしの名前、変だって言われませんでした?」
「特には」
「言ってくださいよ、変なんですから」
「では、変ですね」
「そうなんです!」
嬉しそうにされると、こちらの調子が狂う。
「意味があるんですよ。隠されているものの幸運、っていう」
「……ずいぶん、たいそうな名前ですね」
「でしょう。中身は溝さらいですけど」
配りに出るときも、この女はついてきた。
誰にどれだけ足りていないかは、帳面が決める。先週、財布をなくしたパン屋には多めと出たので、その通りに落とした。翌朝かまどの裏から出てきたそうだ。
粒は三日ぶんをまとめて包んで持ち歩く。日に当てるたびに目減りするので、工房と街を何度も往復するより、そのほうが減らない。
懐に落とすのは繊細な仕事で、気づかれてはならない。すれ違いざま、指先ひとつぶんの動きで済ませる。
「いま落としました?」
「落としました」
「見えなかった」
「見えたら困ります」
「落とされた人が、粒をつまんだら?」
「器のない手が摘めば、その場で滓に戻ります。ですが、懐に落ちた粒は、触られるより先に溶けますので」
「じゃあ、誰も気づかないんだ」
「気づかれたら失敗です」
パン屋の前を通ると、主人が顔を出した。
「番人さま、助手をお取りになったんですね」
「取っておりません」
「取られました!」
勝手に返事をされた。しかも主人は納得した顔でうなずいて、竈から焼きたてを二つ持ってきた。
わたしは断ろうとしたが、アキアが両手で受け取ってしまった。
夕暮れの坂道で、二人でそれを食べた。熱くて、外側が硬くて、中がやわらかい。この街のパンは昔からうまい。
坂は狭いので、肩が触れる。そういうこともある、と思うことにした。
「サーダは損してますね」
「何がです」
「みんなの不運を片づけて回ってるのに、誰にも気づかせないでしょう。お礼を言われない側に、自分から回ってます」
「見られたら困る仕事ですので」
「困る仕事ばっかりですね」
まったくその通りだった。
パンを持つ手の指が短くて、爪が四角い。そんなことまで数えていたのは、わたしの落ち度である。胸のあたりが少し傾いた気がしたが、この手のものは皿に載らない。載らないものは、量りようがない。
工房に着くころには、日が沈みかけていた。アキアは荷物を取りに裏へ回り——そこで、足を止めた。
「サーダ」
「なんです」
「これ、なんですか」
見なくてもわかった。裏の桶だ。
何年も置きっぱなしの、底まで真っ黒な、あれである。
「何年ぶんですか、これ」
「七年ぶんです」
「七年!?」
アキアは桶を覗きこんで、それから顔を上げた。夕日で片側だけ赤くなっている。
「規則の一つ目は、その日のうちに漉せって」
「一つ目は『街から集めた不運は』です。裏の桶は、そこに入りません」
「都合のいい規則ですね」
「よくできた規則です」
「捨てればいいのに」
「捨てられません。不運は捨てても消えず、捨てた場所に溜まるだけです」
「街の溝に流せば、朝いっしょに掬えるのでは」
「番人の滓は、溝へ流れません。一度やってみましたが、翌朝には寝床の足元に戻っていました。自分のものからは、逃げられないようです」
「じゃあ漉せば」
「漉せません。自分の滓は、自分では漉せない規則です」
「誰かに頼めば」
「器のある者にしか漉せません。この街には、わたししかおりません」
アキアはしばらく黙っていた。この女が黙るのは、はじめて見た。
それから、桶の縁に手をかけて言った。
「わたしが漉します」
「やめてください」
「規則には、他人が漉すなとは書いてないですよね」
書いていない。
わたしは口を開いて、閉じた。七年のあいだ、一度も考えたことがなかった。考えないようにしていた、という言い方のほうが正確かもしれない。
もっとも、考えても同じだ。器のない手で流しこんだところで、滓は滓のまま、白くなどならない。
「……漉しても、意味がありません」
「なんでですか」
「漉せたとして、その粒を配る者がおりません」
「わたしが配ります」
「番人に配ってはいけないのです」
言ってから、少しだけ引っかかった。引っかかったが、その日は暗くなったので、それきりになった。
次の朝、アキアは本当に桶を漉しはじめていた。
止めなかった。無駄骨を折れば諦めるだろうと思ったからだ。だからわたしは、裏の布を一度も見に行かなかった。七年ぶんの滓は重く、それでもこの女は昼まで一度も休まなかった。
そして、その日から街の様子がおかしくなった。
まず、わたしが階段を踏み外した。
次に、配りの途中で粒の包みを落とした。よりによって溝の上で。白い粒が黒い滓に飲まれて消えていくのを、わたしはただ見ていた。三日ぶんが、まとめて消えた。
三日目には、工房の屋根の梁が一本落ちた。秤の上にではなく、その横に落ちたのは、ここ数日で唯一の幸運だった。
同じ日の夕方、井戸端で子どもが釣瓶の縄に足を取られて、井戸の縁から落ちかけた。近くにいた母親が腕をつかんだので、擦り傷で済んだ。
済んだ、というのは、あとから聞いた言い方だ。坂の上から見ていたわたしには、済むかどうかわからない数秒だった。
「サーダ、これ」
アキアが指したのは、桶ではなく、その周りの地面だ。
黒い滓が、じわりと滲み出している。
七年ぶんを動かしたせいで、沈んでいたものが目を覚ました。そういう言い方が正しいかはわからないが、実際そうなった。
「わたしのせいですか」
「あなたのせいではありません」
これは本当だ。動かさなければいずれ溢れていた。順番が早まっただけだ。
問題は別のところにある。
わたしは帳面を開いて、この三日で空いた穴を数えた。街に配れなかったぶん。溝に落としたぶん。そのぶんの不運が、これから誰かのところへ回っていく。
最後の頁だけは開かない。番人の欄がそこにあることは知っているが、七年、一度も読んでいない。読んでも配れないものを読むのは、ただ数えるだけの作業だ。
パン屋かもしれない。井戸端の子どもたちかもしれない。
番人がひとり不調になると、街がひとつ傾く。そういう仕組みだ。
わたしは帳面を閉じて、立ち上がった。
「アキア」
「はい」
「出ていってください」
この女が、はじめて笑わない顔をした。
「なんでですか」
「わたしのそばは、いま、この街でいちばん不運が濃い場所です。となりにいれば、あなたに移ります」
「移ってません」
「移ります」
「移ってませんってば。わたし、今日ひとつも転んでません」
「今日は、です」
「じゃあ、明日転んだら出ていきます」
「明日では遅いのです」
アキアが一歩踏み出したので、わたしは一歩下がった。七年ぶんの桶をまたいで、工房の壁まで下がった。
「サーダは、自分が転ぶのは平気なんですね」
「わたしは番人ですので」
「わたしは助手ですけど」
「助手ではありません」
言ってから、声が硬すぎたと思った。それでも、引っこめる気にはならなかった。
「わたしは、量る者です。量る者が配られる側に回ったら、針の読み方がわからなくなる。だから規則があるんです。わたしが受け取ってはいけないんです。ずっとそうやって——」
言葉が続かなかった。
夕方に言われたことを思い出したからだ。お礼を言われない側に、自分から回っている。あのとき、この女は「損してますね」と言った。
損だとは思っていなかった。いまも思っていない。
ただ、七年ぶんの桶を前にして、そう言い切るのが少しむずかしくなっていた。
「……とにかく、出ていってください」
アキアは、しばらくわたしを見ていた。
それから、荷物を肩にかけた。存外あっさりした動きだった。扉のところで一度だけ振り返って、言った。
「規則、もう一回言ってください」
「……番人は、自分に配ってはならない」
「はい。じゃあ、また明日」
扉が閉まった。
閉まってから、わたしはその場に座りこんだ。
いま、この女は何を確認していったのだろう。
翌朝、扉が叩かれた。
叩かれたというより、蹴られた音に近い。開けると、アキアが桶を両手で抱えて立っていた。
中身は白い。
七年ぶんの上澄みが、朝日で目に痛いほど光っていた。
わたしは、しばらく動けなかった。器のない手で流しこめば、滓は滓のままだ。白くなることはない。ならないはずだった。
服の袖は絞れそうなほど濡れていて、指の腹が布ずれで赤くなっている。裏の軒下から、一歩も動かなかったのだろう。
「重かったです」
「……昨日、出ていったはずでは」
「また明日って言いましたよ。今日が明日です」
言い返せない理屈だった。
アキアは工房に入ってくると、秤の前に桶を下ろした。それから両手を服で拭って、こちらへ向き直った。
「サーダ。規則、もう一回」
「……番人は、自分に配ってはならない」
「そうです。自分に、です」
わたしは黙った。
「他人が配るなとは、一言も書いてません」
「配れる者がいないという話をしています。器のある者は、この街にわたしひとりです」
「もうひとりいます」
アキアは秤の皿に手を置いた。昨日わたしが鋭い声を出した、あの皿だ。
今日は止めなかった。止めるより先に、針を見てしまったからだ。
針は、動かなかった。
中央で、静かに止まったままだった。
「……嘘でしょう」
「はじめて触った日も、同じでした」
「では、あのとき『これ何ですか』と聞いたのは」
「知らないふりです。すみません」
「言ってください、そういうことは」
「言ったら追い出されると思ったので」
番人の資格は、秤が決める。皿に触れて針が振れる者には、量る仕事はできない。振れないというのは、そういうことだ。
ひとつの街に番人がふたり立つなど、聞いたことがない。
そもそも器のある者は、生まれた街にいるとはかぎらない。だから番人は探されるのが普通で——この女のように、勝手に来る例は聞いたことがない。
「わたし、旅をしてたって言いましたよね」
アキアが桶の縁を指で撫でながら言った。
「井戸をさらって、溝をさらって、網をさらって。あちこちの街に番人さまがいて、みんな同じ顔をしてるんです。人の不運ばかり片づけて、自分のは置きっぱなしにしてる顔」
「……」
「北の街の番人さまに、言われました。あなた、器がありますねって。番人になりますか、とも」
「断ったのですか」
「はい。だって、わたしが番人になったら、置きっぱなしの桶がもうひとつ増えるだけでしょう」
アキアは肩をすくめた。
「番人が足りてないんじゃないんです。番人のとなりが空いてるんです。それで、いちばんひどい顔をしてる人のところで働こうと思って来ました」
「ひどい顔で悪かったですね」
「ひどい顔でしたよ。首に雨が入ってました」
その話はもういい。
「サーダは、量る人でしょう」
「そうです」
「じゃあ、わたしが配る人になります」
「……規則の二つ目があります。配る量は帳面の通りに。帳面にないものは配れません」
アキアは返事をせずに、帳面を引き寄せた。
そして、最後の頁を開いた。
番人の欄には、数字が並んでいた。七年ぶん、一日も欠けずに積み上がっていた。
誰も書き足していない。帳面が勝手に数えていたのだ。足りていない者の名を、はじめからずっと。
「書いてありますよ」
「……」
「読んでなかったのは、サーダだけです」
わたしは何か言おうとして、うまくいかなかった。
「街のぶんが先です」
「はい」
「三日ぶんの穴があります。パン屋、井戸端、南の辻。そこを埋めてからでないと」
「はい。それが終わったら、残りは全部サーダのです」
全部、と言われて、桶を見た。
七年ぶんは、多い。
「多すぎませんか」
「七年ためた人が言うことじゃないですよ」
その日、わたしたちは日が暮れるまで秤を動かした。
わたしが帳面の欄に指を置いて量り、アキアが街へ走った。皿が上下するたび、軸が小さく軋む。ずいぶん久しぶりに、この秤は忙しそうだった。
街の穴は、その日のうちに埋まった。パン屋の主人は、二日前になくしたはずの銅貨をかまどの裏から見つけたらしい。あの家のかまどの裏は、どうなっているのだろう。井戸端の子は、翌朝には走り回っていたそうだ。
そうして、最後の一皿になった。
載せる前に、手が止まった。
指を置く欄は、最後の頁のいちばん上。七年ぶんが、ひとりに寄る。傾かないはずがない。世界のどこかが、そのぶん減る。
それでもアキアが待っているので、わたしは粒を皿に載せて、自分の欄に指を置いた。
針は、動かなかった。
中央で、静かに止まったままだった。
……ああ、そうか。
もともと、わたしが出したものだ。わたしのところへ戻るだけなら、世界はどこも減らない。誰にも配れないと思っていたものには、はじめから配り先が決まっていた。
七年、わたしは何を守っていたのだろう。
アキアが匙を差し出してきた。
「はい」
「……自分では受け取れません。規則が」
「量ったのはサーダ。配るのはわたし。受け取るのもサーダです。帳面の通りで、何ひとつ違反してません」
わたしは手を出した。
アキアは匙を使わなかった。
自分の掌に粒を移してから、こちらの掌へ重ねるようにして落とす。日に焼けた手が下から包んだまま、しばらく離れなかった。
白い粒は軽くて、小さかった。あたたかいとか、光ったとか、そういうことはない。これが七年ぶんの上澄みかと思うと、少し呆れた。
あたたかいのは、下にある手のほうだった。
鼻の奥が痛くなったのは、たぶんそのせいである。
その手の指の腹が、布ずれで赤くなっているのが見えた。
「手が荒れています」
「一日でこれですよ。毎朝やってる人は、もっとひどいはずです」
「……そうですね」
「だから、わたしがやります」
一日目と同じ台詞だった。今度は、断らなかった。
「アキア」
「はい」
「手が」
「はい」
「……離れませんね」
「離しませんので」
言い方が、いつもの調子と違った。
顔を見られなかったので、わたしは粒のほうを見ていた。この距離で顔を上げたら、たぶん何か取り返しのつかないことになる。
「……あなたの名前、隠されているものの幸運、でしたね」
「そうです」
「ずっと、裏の桶に隠れていたわけですね。七年も」
アキアは一瞬きょとんとして、それから、この日いちばん大きな声で笑った。手はまだ離れない。
「うまいこと言いますね!」
「うるさいです」
「わたし、そんな上等な意味の名前だと思ってなかったです」
「わたしもです」
「サーダの名前は、意味ないんですか」
「……ありますよ。幸運な星々の中でも、いちばん幸運な、という意味だそうです」
「いちばん!?」
「七年ためた者の名前ではありませんね」
「これからですよ」
工房の外に出ると、日が落ちきっていた。
雲が切れて、星が出ている。名前の由来だという星がどれなのか、わたしは知らない。知らないと言ったら、となりの女が空を指して「あれです」と適当なことを言った。
軒から雨水が落ちてくる位置に立ってみたが、今日は落ちてこなかった。単に晴れていただけかもしれない。
「サーダ」
「なんです」
「明日も来ますから」
「……来なくても、ここに住んでいるでしょう」
「そうでした!」
声が大きい。うるさい。
うるさいのに、明日もこれを聞くのだと思うと、胸のあたりが落ち着かなくなる。
落ち着かないのは、たぶん、明日だけでは足りないからだ。
七年ぶんを受け取ったばかりで欲張るのもどうかと思うが、もうひとつだけ欲しいものができてしまった。
この声に、ずっと名前を呼ばれていたい。
量る者の言うことではない。
その日、わたしは扉を閉めなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
サーダとアキアの名前は、みずがめ座に並ぶ二つの星から取っています。片方は「最も幸運な星々の中の幸運」、もう片方は「隠されたものの幸運」という意味を持つ星です。
楽しんでいただけましたら、★評価やブックマークをいただけると励みになります。
***
連載中の作品もあります。
「封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史」
こちらは一転して賑やかな話です。よければ作者ページから。




