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わたしが配ります 〜自分にだけ幸運を配れない番人と、押しかけの助手〜

作者: 鏡花
掲載日:2026/08/15

「助手にしてください!」


 工房の門柱(もんちゅう)に寄りかかっていた女が、わたしを見つけるなり、そう叫んだ。


 背は低い。日に焼けている。旅の荷を足元に放り出したまま、大きく手を振ってくる。振る必要のない距離だった。


「間に合っております」


 わたしは荷物を持ち直して、坂を上りきった。近づくと、頭ひとつぶん見下ろす形になる。


「間に合ってません。いま首に雨が入ってましたよね」


「見ておられたのですか」


「はい。すごく間抜けでした」


 褒める気配がまるでない。


 念のために言っておくと、わたしはこの街の番人(ばんにん)である。(みぞ)に溜まった不運を(すく)い、布で()して幸運に替え、街の人の(ふところ)にこっそり落として回るのが仕事だ。間抜けかどうかで採用が決まる職ではない。


 厄介な規則が、ひとつだけある。


 ——番人は、自分に配ってはならない。


 自分の(おり)も、自分では漉せない。同じ規則に触れる。掬うことだけは許されているので、毎晩、寝る前にそのぶんを(おけ)へ移す。そこから先へは進めない。工房の裏の桶には、わたしのぶんだけが何年も沈んだままになっている。(のぞ)くと、底のほうまで真っ黒だ。


 まあ、いい。首に雨が入って死んだ者はいない。


 ——それで、話を戻す。


「あの、聞いてます?」


「聞いております」


 わたしは崩れた髪をきつく()わえ直して、女の脇を通り抜けた。


「返事は?」


「間に合っております」


「二回目ですよ、それ」


 門をくぐり、扉を閉めようとしたところで、日焼けした手が挟まった。


「わたし、アキアといいます」


「存じません」


「いま名乗りました」


「存じませんでした」


 押しても、扉はびくともしない。この女は小さいわりに力がある。


 そのうえ、挟まっていたはずの手が、いつのまにかこちらの手首をつかんでいた。


「番人さま、手、荒れてますね」


「毎朝、冷たい水を使いますので」


「わたしがやります」


「規則がありますので」


「手荒れを禁じる規則があるんですか」


「……ありませんが」


「じゃあ大丈夫ですね!」


 大丈夫ではない。何ひとつ大丈夫ではない。


 その日、わたしは扉を閉めることに失敗した。


「番人さま。番人さま」


「なんです」


「番人さま」


「呼んでいるだけですか」


「はい!」


 翌朝、その女は工房の前に座っていた。夜のうちに帰ったものと思っていたが、荷物の上で丸くなって寝ていたらしい。髪に(わら)がついている。


「その呼び方はやめてください」


「じゃあ何とお呼びすれば」


「サーダです」


「サーダさま」


「さまも要りません」


「サーダ!」


「……呼び方が近い」


 言ってから、しまったと思った。実際に一歩詰めてきたので、距離の話にもなってしまった。


 わたしは柄杓(ひしゃく)と桶を持って坂を下りた。うしろから足音がついてくる。追い払っても意味がないことは、昨日の扉でわかっている。


 溝を覗くと、昨夜の雨で滓がよく溜まっていた。


「うわ、気持ち悪いですね、これ」


「気持ち悪いです」


「認めるんですね」


「毎朝触っておりますので」


 アキアはしゃがみこんで、指を伸ばした。止める前に触った。


「ぬるっ」


「言った通りでしょう」


「これが不運なんですか。もっとこう、ぱっと見て不吉なやつかと」


「見た目に凝った不運は、聞いたことがありません」


 柄杓を渡してやると、この女は驚くほど手際がよかった。溝の底をさらう角度が正しい。桶の(ふち)で切る所作にも無駄がない。


「……どこかで似た仕事を?」


「井戸さらいと、(どぶ)さらいと、(りょう)の網さらいをやりました」


「さらってばかりですね」


「はい。旅費を稼ぐので」


 工房に運んで、布で漉す。三度。


 布を張った枠に流しこむと、しばらくして音が変わる。さらさらと落ちていたのが、ぽつ、ぽつ、になる。目が詰まった合図で、そうしたら布を替える。三度目を終えると、黒いものは布の上に残り、下の桶には白い上澄(うわず)みだけが落ちている。それが幸運だ。


「わたしも流しましょうか」


「無理です。漉せるのは(うつわ)のある者だけですので。器のない手で流したところで、滓は滓のままです」


「けち」


「持って生まれたものの話をしております」


 アキアは、それきり食い下がらなかった。あとから思えば黙る理由があったわけだが、そのときは素直だと思っただけだった。


 布を替えるのにも、桶を運ぶのにも、器は要らない。要るのは流しこむ手だけだ。それでも、いつもは日が傾く作業が、今日は昼過ぎに終わった。


 単純に、手が足りていたからだ。


 布に残った黒いものは、そのまま日に当てておく。夕方には乾いて(はい)になり、灰になった不運は、もう誰にも当たらない。捨てるのと漉すのは、まるで違う。


「サーダ、これ何ですか」


 振り向くと、アキアが(はかり)の皿に手をかけていた。工房の真ん中に据えてある、大きなやつだ。皿が小さく(きし)む。


「触らないでください」


 思ったより鋭い声が出た。アキアが手を引っこめる。わたしは針を見なかった。見るより先に、皿を(かば)っていた。


「壊れると困るやつだ」


「わたしが困ります。量る道具です。皿に載せたものを配ったとき、世界がどちらへどれだけ傾くか。針が読むのは、それだけです」


「重さじゃないんですね」


「石を載せても動きません。石は誰にも配れませんので」


 量るときは、帳面の(らん)に指を置いて、配る相手を先に決めておく。幸運には総量があるから、誰かに多く配れば、どこかで足りなくなる。針が中央から動かないように、少しずつ、慎重に。世界の釣り合いを守る。番人の仕事は、それだけだ。


「じゃあ、人が触ったら、どうなるんですか」


「皿に(てのひら)を置いたときだけ、針は別のものを読みます。その者が、世界をどちらへ傾けているか。番人になれるのは、どちらへも傾けない者だけです。資格を決めるのは人ではなく、この針ですので」


「へえ」


 やけにあっさりした返事だった。


「規則の話、まだ聞いてませんけど」


「三つあります。一つ、街から集めた不運は、必ずその日のうちに漉すこと。二つ、配る量は帳面の通りにすること。三つ、番人は自分に配ってはならないこと」


「三つ目、変じゃないですか?」


「変ではありません。量る者が配られたら、針の読み方がわからなくなるだけです」


「ふうん」


 アキアは腕を組んで、秤をしばらく眺めていた。それから、急に別のことを言った。


「わたしの名前、変だって言われませんでした?」


「特には」


「言ってくださいよ、変なんですから」


「では、変ですね」


「そうなんです!」


 嬉しそうにされると、こちらの調子が狂う。


「意味があるんですよ。隠されているものの幸運、っていう」


「……ずいぶん、たいそうな名前ですね」


「でしょう。中身は溝さらいですけど」


 配りに出るときも、この女はついてきた。


 誰にどれだけ足りていないかは、帳面が決める。先週、財布をなくしたパン屋には多めと出たので、その通りに落とした。翌朝かまどの裏から出てきたそうだ。


 粒は三日ぶんをまとめて包んで持ち歩く。日に当てるたびに目減りするので、工房と街を何度も往復するより、そのほうが減らない。


 懐に落とすのは繊細な仕事で、気づかれてはならない。すれ違いざま、指先ひとつぶんの動きで済ませる。


「いま落としました?」


「落としました」


「見えなかった」


「見えたら困ります」


「落とされた人が、粒をつまんだら?」


「器のない手が(つま)めば、その場で滓に戻ります。ですが、懐に落ちた粒は、触られるより先に溶けますので」


「じゃあ、誰も気づかないんだ」


「気づかれたら失敗です」


 パン屋の前を通ると、主人が顔を出した。


「番人さま、助手をお取りになったんですね」


「取っておりません」


「取られました!」


 勝手に返事をされた。しかも主人は納得した顔でうなずいて、(かまど)から焼きたてを二つ持ってきた。


 わたしは断ろうとしたが、アキアが両手で受け取ってしまった。


 夕暮れの坂道で、二人でそれを食べた。熱くて、外側が硬くて、中がやわらかい。この街のパンは昔からうまい。


 坂は狭いので、肩が触れる。そういうこともある、と思うことにした。


「サーダは損してますね」


「何がです」


「みんなの不運を片づけて回ってるのに、誰にも気づかせないでしょう。お礼を言われない側に、自分から回ってます」


「見られたら困る仕事ですので」


「困る仕事ばっかりですね」


 まったくその通りだった。


 パンを持つ手の指が短くて、爪が四角い。そんなことまで数えていたのは、わたしの落ち度である。胸のあたりが少し傾いた気がしたが、この手のものは皿に載らない。載らないものは、量りようがない。


 工房に着くころには、日が沈みかけていた。アキアは荷物を取りに裏へ回り——そこで、足を止めた。


「サーダ」


「なんです」


「これ、なんですか」


 見なくてもわかった。裏の桶だ。


 何年も置きっぱなしの、底まで真っ黒な、あれである。


「何年ぶんですか、これ」


「七年ぶんです」


「七年!?」


 アキアは桶を覗きこんで、それから顔を上げた。夕日で片側だけ赤くなっている。


「規則の一つ目は、その日のうちに漉せって」


「一つ目は『街から集めた不運は』です。裏の桶は、そこに入りません」


「都合のいい規則ですね」


「よくできた規則です」


「捨てればいいのに」


「捨てられません。不運は捨てても消えず、捨てた場所に溜まるだけです」


「街の溝に流せば、朝いっしょに掬えるのでは」


「番人の滓は、溝へ流れません。一度やってみましたが、翌朝には寝床の足元に戻っていました。自分のものからは、逃げられないようです」


「じゃあ漉せば」


「漉せません。自分の滓は、自分では漉せない規則です」


「誰かに頼めば」


「器のある者にしか漉せません。この街には、わたししかおりません」


 アキアはしばらく黙っていた。この女が黙るのは、はじめて見た。


 それから、桶の縁に手をかけて言った。


「わたしが漉します」


「やめてください」


「規則には、他人が漉すなとは書いてないですよね」


 書いていない。


 わたしは口を開いて、閉じた。七年のあいだ、一度も考えたことがなかった。考えないようにしていた、という言い方のほうが正確かもしれない。


 もっとも、考えても同じだ。器のない手で流しこんだところで、滓は滓のまま、白くなどならない。


「……漉しても、意味がありません」


「なんでですか」


「漉せたとして、その粒を配る者がおりません」


「わたしが配ります」


「番人に配ってはいけないのです」


 言ってから、少しだけ引っかかった。引っかかったが、その日は暗くなったので、それきりになった。


 次の朝、アキアは本当に桶を漉しはじめていた。


 止めなかった。無駄骨を折れば諦めるだろうと思ったからだ。だからわたしは、裏の布を一度も見に行かなかった。七年ぶんの滓は重く、それでもこの女は昼まで一度も休まなかった。


 そして、その日から街の様子がおかしくなった。


 まず、わたしが階段を踏み外した。


 次に、配りの途中で粒の包みを落とした。よりによって溝の上で。白い粒が黒い滓に飲まれて消えていくのを、わたしはただ見ていた。三日ぶんが、まとめて消えた。


 三日目には、工房の屋根の(はり)が一本落ちた。秤の上にではなく、その横に落ちたのは、ここ数日で唯一の幸運だった。


 同じ日の夕方、井戸端で子どもが釣瓶(つるべ)の縄に足を取られて、井戸の縁から落ちかけた。近くにいた母親が腕をつかんだので、()り傷で済んだ。


 済んだ、というのは、あとから聞いた言い方だ。坂の上から見ていたわたしには、済むかどうかわからない数秒だった。


「サーダ、これ」


 アキアが指したのは、桶ではなく、その周りの地面だ。


 黒い滓が、じわりと(にじ)み出している。


 七年ぶんを動かしたせいで、沈んでいたものが目を覚ました。そういう言い方が正しいかはわからないが、実際そうなった。


「わたしのせいですか」


「あなたのせいではありません」


 これは本当だ。動かさなければいずれ溢れていた。順番が早まっただけだ。


 問題は別のところにある。


 わたしは帳面を開いて、この三日で空いた穴を数えた。街に配れなかったぶん。溝に落としたぶん。そのぶんの不運が、これから誰かのところへ回っていく。


 最後の(ページ)だけは開かない。番人の欄がそこにあることは知っているが、七年、一度も読んでいない。読んでも配れないものを読むのは、ただ数えるだけの作業だ。


 パン屋かもしれない。井戸端の子どもたちかもしれない。


 番人がひとり不調になると、街がひとつ傾く。そういう仕組みだ。


 わたしは帳面を閉じて、立ち上がった。


「アキア」


「はい」


「出ていってください」


 この女が、はじめて笑わない顔をした。


「なんでですか」


「わたしのそばは、いま、この街でいちばん不運が濃い場所です。となりにいれば、あなたに移ります」


「移ってません」


「移ります」


「移ってませんってば。わたし、今日ひとつも転んでません」


「今日は、です」


「じゃあ、明日転んだら出ていきます」


「明日では遅いのです」


 アキアが一歩踏み出したので、わたしは一歩下がった。七年ぶんの桶をまたいで、工房の壁まで下がった。


「サーダは、自分が転ぶのは平気なんですね」


「わたしは番人ですので」


「わたしは助手ですけど」


「助手ではありません」


 言ってから、声が硬すぎたと思った。それでも、引っこめる気にはならなかった。


「わたしは、量る者です。量る者が配られる側に回ったら、針の読み方がわからなくなる。だから規則があるんです。わたしが受け取ってはいけないんです。ずっとそうやって——」


 言葉が続かなかった。


 夕方に言われたことを思い出したからだ。お礼を言われない側に、自分から回っている。あのとき、この女は「損してますね」と言った。


 損だとは思っていなかった。いまも思っていない。


 ただ、七年ぶんの桶を前にして、そう言い切るのが少しむずかしくなっていた。


「……とにかく、出ていってください」


 アキアは、しばらくわたしを見ていた。


 それから、荷物を肩にかけた。存外あっさりした動きだった。扉のところで一度だけ振り返って、言った。


「規則、もう一回言ってください」


「……番人は、自分に配ってはならない」


「はい。じゃあ、また明日」


 扉が閉まった。


 閉まってから、わたしはその場に座りこんだ。


 いま、この女は何を確認していったのだろう。


 翌朝、扉が叩かれた。


 叩かれたというより、蹴られた音に近い。開けると、アキアが桶を両手で抱えて立っていた。


 中身は白い。


 七年ぶんの上澄みが、朝日で目に痛いほど光っていた。


 わたしは、しばらく動けなかった。器のない手で流しこめば、滓は滓のままだ。白くなることはない。ならないはずだった。


 服の(そで)は絞れそうなほど濡れていて、指の腹が布ずれで赤くなっている。裏の軒下(のきした)から、一歩も動かなかったのだろう。


「重かったです」


「……昨日、出ていったはずでは」


「また明日って言いましたよ。今日が明日です」


 言い返せない理屈だった。


 アキアは工房に入ってくると、秤の前に桶を下ろした。それから両手を服で(ぬぐ)って、こちらへ向き直った。


「サーダ。規則、もう一回」


「……番人は、自分に配ってはならない」


「そうです。自分に、です」


 わたしは黙った。


「他人が配るなとは、一言も書いてません」


「配れる者がいないという話をしています。器のある者は、この街にわたしひとりです」


「もうひとりいます」


 アキアは秤の皿に手を置いた。昨日わたしが鋭い声を出した、あの皿だ。


 今日は止めなかった。止めるより先に、針を見てしまったからだ。


 針は、動かなかった。


 中央で、静かに止まったままだった。


「……嘘でしょう」


「はじめて触った日も、同じでした」


「では、あのとき『これ何ですか』と聞いたのは」


「知らないふりです。すみません」


「言ってください、そういうことは」


「言ったら追い出されると思ったので」


 番人の資格は、秤が決める。皿に触れて針が振れる者には、量る仕事はできない。振れないというのは、そういうことだ。


 ひとつの街に番人がふたり立つなど、聞いたことがない。


 そもそも器のある者は、生まれた街にいるとはかぎらない。だから番人は探されるのが普通で——この女のように、勝手に来る例は聞いたことがない。


「わたし、旅をしてたって言いましたよね」


 アキアが桶の縁を指で()でながら言った。


「井戸をさらって、溝をさらって、網をさらって。あちこちの街に番人さまがいて、みんな同じ顔をしてるんです。人の不運ばかり片づけて、自分のは置きっぱなしにしてる顔」


「……」


「北の街の番人さまに、言われました。あなた、器がありますねって。番人になりますか、とも」


「断ったのですか」


「はい。だって、わたしが番人になったら、置きっぱなしの桶がもうひとつ増えるだけでしょう」


 アキアは肩をすくめた。


「番人が足りてないんじゃないんです。番人のとなりが空いてるんです。それで、いちばんひどい顔をしてる人のところで働こうと思って来ました」


「ひどい顔で悪かったですね」


「ひどい顔でしたよ。首に雨が入ってました」


 その話はもういい。


「サーダは、量る人でしょう」


「そうです」


「じゃあ、わたしが配る人になります」


「……規則の二つ目があります。配る量は帳面の通りに。帳面にないものは配れません」


 アキアは返事をせずに、帳面を引き寄せた。


 そして、最後の頁を開いた。


 番人の欄には、数字が並んでいた。七年ぶん、一日も欠けずに積み上がっていた。


 誰も書き足していない。帳面が勝手に数えていたのだ。足りていない者の名を、はじめからずっと。


「書いてありますよ」


「……」


「読んでなかったのは、サーダだけです」


 わたしは何か言おうとして、うまくいかなかった。


「街のぶんが先です」


「はい」


「三日ぶんの穴があります。パン屋、井戸端、南の(つじ)。そこを埋めてからでないと」


「はい。それが終わったら、残りは全部サーダのです」


 全部、と言われて、桶を見た。


 七年ぶんは、多い。


「多すぎませんか」


「七年ためた人が言うことじゃないですよ」


 その日、わたしたちは日が暮れるまで秤を動かした。


 わたしが帳面の欄に指を置いて量り、アキアが街へ走った。皿が上下するたび、軸が小さく軋む。ずいぶん久しぶりに、この秤は忙しそうだった。


 街の穴は、その日のうちに埋まった。パン屋の主人は、二日前になくしたはずの銅貨をかまどの裏から見つけたらしい。あの家のかまどの裏は、どうなっているのだろう。井戸端の子は、翌朝には走り回っていたそうだ。


 そうして、最後の一皿になった。


 載せる前に、手が止まった。


 指を置く欄は、最後の頁のいちばん上。七年ぶんが、ひとりに寄る。傾かないはずがない。世界のどこかが、そのぶん減る。


 それでもアキアが待っているので、わたしは粒を皿に載せて、自分の欄に指を置いた。


 針は、動かなかった。


 中央で、静かに止まったままだった。


 ……ああ、そうか。


 もともと、わたしが出したものだ。わたしのところへ戻るだけなら、世界はどこも減らない。誰にも配れないと思っていたものには、はじめから配り先が決まっていた。


 七年、わたしは何を守っていたのだろう。


 アキアが(さじ)を差し出してきた。


「はい」


「……自分では受け取れません。規則が」


「量ったのはサーダ。配るのはわたし。受け取るのもサーダです。帳面の通りで、何ひとつ違反してません」


 わたしは手を出した。


 アキアは匙を使わなかった。


 自分の(てのひら)に粒を移してから、こちらの掌へ重ねるようにして落とす。日に焼けた手が下から包んだまま、しばらく離れなかった。


 白い粒は軽くて、小さかった。あたたかいとか、光ったとか、そういうことはない。これが七年ぶんの上澄みかと思うと、少し(あき)れた。


 あたたかいのは、下にある手のほうだった。


 鼻の奥が痛くなったのは、たぶんそのせいである。


 その手の指の腹が、布ずれで赤くなっているのが見えた。


「手が荒れています」


「一日でこれですよ。毎朝やってる人は、もっとひどいはずです」


「……そうですね」


「だから、わたしがやります」


 一日目と同じ台詞(せりふ)だった。今度は、断らなかった。


「アキア」


「はい」


「手が」


「はい」


「……離れませんね」


「離しませんので」


 言い方が、いつもの調子と違った。


 顔を見られなかったので、わたしは粒のほうを見ていた。この距離で顔を上げたら、たぶん何か取り返しのつかないことになる。


「……あなたの名前、隠されているものの幸運、でしたね」


「そうです」


「ずっと、裏の桶に隠れていたわけですね。七年も」


 アキアは一瞬きょとんとして、それから、この日いちばん大きな声で笑った。手はまだ離れない。


「うまいこと言いますね!」


「うるさいです」


「わたし、そんな上等な意味の名前だと思ってなかったです」


「わたしもです」


「サーダの名前は、意味ないんですか」


「……ありますよ。幸運な星々の中でも、いちばん幸運な、という意味だそうです」


「いちばん!?」


「七年ためた者の名前ではありませんね」


「これからですよ」


 工房の外に出ると、日が落ちきっていた。


 雲が切れて、星が出ている。名前の由来だという星がどれなのか、わたしは知らない。知らないと言ったら、となりの女が空を指して「あれです」と適当なことを言った。


 軒から雨水が落ちてくる位置に立ってみたが、今日は落ちてこなかった。単に晴れていただけかもしれない。


「サーダ」


「なんです」


「明日も来ますから」


「……来なくても、ここに住んでいるでしょう」


「そうでした!」


 声が大きい。うるさい。


 うるさいのに、明日もこれを聞くのだと思うと、胸のあたりが落ち着かなくなる。


 落ち着かないのは、たぶん、明日だけでは足りないからだ。


 七年ぶんを受け取ったばかりで欲張るのもどうかと思うが、もうひとつだけ欲しいものができてしまった。


 この声に、ずっと名前を呼ばれていたい。


 量る者の言うことではない。


 その日、わたしは扉を閉めなかった。


最後までお読みいただきありがとうございました。


サーダとアキアの名前は、みずがめ座に並ぶ二つの星から取っています。片方は「最も幸運な星々の中の幸運」、もう片方は「隠されたものの幸運」という意味を持つ星です。


楽しんでいただけましたら、★評価やブックマークをいただけると励みになります。


***


連載中の作品もあります。

「封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史」

こちらは一転して賑やかな話です。よければ作者ページから。

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