第1話:転生トラックと、15世紀の天井
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アスファルトの照り返しが容赦なく肌を焼く、真夏の京都。
上京区の入り組んだ交差点を、本宮楓は一人で歩いていた。
首からは安物の手ぬぐいを下げ、片手には使い込まれて画面の傷が目立つタブレット端末。
そしてもう片方の手には、夥しい量の書き込みと付箋で真っ黒になった室町時代の古地図が、まるで宝物のように固く握られている。
今年で二十八歳になる彼女の休日は、大抵こうして京都の街角に隠された歴史の痕跡を辿ることに費やされていた。
同年代の友人たちが休日にカフェでインスタ映えするスイーツを食べたり、流行りのコスメを買いに行ったりしている間も、彼女はただひたすらに土に埋もれた礎石を探し歩く。
その方が、何倍も、何十倍も興奮するからだ。
彼女はただの歴史好きではない。
自他共に認める重度の日本史オタクであり、中でも「地政学的な観点」から歴史のうねりを読み解き、経済の動きと結びつけて考察することを無上の喜びとしていた。
特に楓の心を強く捉えて離さないのが、室町時代の中期から後期にかけての時代背景である。
この美しい京都の街を十年間にもわたって灰燼に帰し、その後の百年にも及ぶ血みどろの戦国時代の幕開けとなった大事件。
応仁の乱だ。
「山名宗全邸宅跡……ここから、あの馬鹿げた泥沼の争いが始まったのよね」
住宅街の片隅にひっそりと佇む古い石碑を見上げながら、楓は深い、本当に深い溜め息を吐いた。
『もしもこの時、細川勝元と山名宗全という二大巨頭が、国内のちっぽけな権力闘争で激突していなかったら?』
『もしも戦国時代という内戦で国力を浪費せず、蓄積された富と優れた職人の技術を全て外に向けて投資していたら?』
『日本が国力を保ったまま、ヨーロッパ列強よりも早く大航海時代に参入し、世界の海を支配していたら、今の世界地図は一体どうなっていた?』
そんな壮大な歴史のIFを妄想しては、夜な夜な歴史フォーラムやブログに何万文字もの熱い考察を書き綴るのが、彼女の密かな、そして人生最大の娯楽だった。
「ああ、ダメだわ。考えただけで興奮して体温が上がってきちゃった。早く次の史跡に行って、脳内をクールダウンさせないと」
額から滴る汗を手ぬぐいで無造作に拭い、楓が古地図から顔を上げて交差点の信号待ちに立った。
青信号が点灯し、横断歩道へ一歩を踏み出した。
まさに、その瞬間だった。
横から猛烈なエンジン音が響いた。
反射的に顔を向けると、視界を覆い尽くすほどの巨大なトラックのフロントグリルが迫っていた。
避ける間など、一秒たりともなかった。
全身を巨大な鉄の塊に叩き潰される凄まじい衝撃。
激痛を認識するよりも早く、楓の意識は真っ暗な闇の底へと急速に沈んでいった。
もっと、もっと歴史の真実を知りたかった。
文献の文字面や残された石碑だけでなく、本物の時代の空気を感じてみたかった。
あわよくば、あの泥沼の時代に介入して、歴史の歯車を狂わせてみたかった。
そんな途方もない未練だけを薄れゆく意識の片隅に残して、本宮楓の二十八年間の人生は、あまりにも唐突に幕を下ろした。
……はずだった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ふと、深い水底から浮かび上がるように、意識が浮上し始めた。
重く張り付いた瞼をどうにか押し上げる。
視界は酷くぼやけ、光と影の輪郭が滲んでいる。
ゆっくりと焦点を合わせようと何度も瞬きをして目を凝らすと、剥き出しになった黒い木の梁が見えた。
体を起こそうと力を込めたが、手足が鉛のように重く、ピクリとも動かない。
『あれ……私、どうなった……?』
思考を巡らせようとするが、頭の中に分厚い霧がかかっているようだった。
自分がどういう状況に置かれているのか、考えようとする端から霧の中に溶けて消えていく。
それに加えて、圧倒的な無力感と、強烈な飢餓感。
『お腹が……すいた……』
ただただ原始的な欲求だけが全身を支配していく。
その時、すぐ近くで微かな衣擦れの音がした。
「おお、姫様がお目覚めでおじゃる」
耳に飛び込んできたのは、奇妙なイントネーションを持つ言葉だった。
『おじゃる……?姫様……?』
楓の耳がその音声を拾い上げるが、まともに働かない頭ではその意味を処理しきれない。
「ほれ、乳でも飲まんせ。よう寝たさかい、腹が減っとりましょうて」
今度は別の女性の温かい声が、顔のすぐ近くから聞こえた。
同時に、温かく柔らかい何かが口元に押し当てられる。
状況を疑うよりも早く、本能的な反射が勝った。
彼女の小さな口は、生きるために必死にそれを力強く吸い込んでいた。
甘くて温かい液体が、小さな喉を通り抜けていく。
お腹が満たされていく感覚に安堵した途端、今度は抗いようのない強烈な眠気が襲ってきた。
パニックになるべき異常事態だと心のどこかで警鐘が鳴っているのに、未発達な体がこれ以上の思考を拒絶する。
『だめ……とりあえず、寝よ……』
状況把握をすっかり諦め、楓の意識は再び深く、暖かく真っ暗な眠りの底へとあっさりと沈んでいった。




