聖女セラフィナの手紙
王都の北はずれにある古い礼拝堂はもう長いこと使われていないらしく、割れたステンドグラスから差しこむ光も弱い。まだ昼過ぎなのに堂内は少し薄暗かった。
俺は司祭に頼まれて、礼拝堂の倉庫を片づけていた。適当に漁っていると、埃まみれの棚の奥に、白い布をかぶせた箱が押し込まれているのを見つけた。
箱の中には人形が収められていた。
二尺ほどの大きさで、なめらかな白い髪と、顔も陶器みたいに白い。閉じたまぶたの下に、今にも瞳が開きそうなほど生々しい顔をしていた。
「なんだ? これ」
胸元には、小さな金の文字が刻まれている。
『聖女セラフィナ』
その名は知っていた。五十年前、この国を襲った黒い病を鎮め、最後は神のもとへ召されたと伝えられる聖女の名だ。
けれど目の前の人形は、教会に置かれたどんな聖像よりも人に近かった。清らかな象徴というより、ただ一人の娘を、そのまま閉じこめたように見える。
抱き起こした時、背に小さな留め金があるのに気づいた。外してみると、中には一通の手紙が収められていた。
封筒の表には、静かな字でこう書かれている。
『いつか、わたしを見つけてくださった方へ』
俺は長椅子に腰を下ろし、封を開いた。
⸻
見つけてくださって、ありがとうございます。
もしもこの手紙を読んでくださる方がいるなら、どうか少しだけ、聖女ではなく、セラフィナという娘のことを覚えてください。
わたしは生まれつき、神聖な力というものを持っておりました。
幼いころ、熱を出した子の手を握れば朝には熱が下がり、弱った花に触れれば色を取り戻し、夜の祈りの中では、わたしの声にだけ光が集まりました。
人々はそれを奇跡と呼び、ありがたいことだと喜びました。
けれど、わたしには最初からそれが当たり前だったので、どうしてそんなに驚かれるのか、幼いころはよく分かりませんでした。
ただ、少しずつ分かったのです。
人はわたしを見ているようで、見ていないのだと。
みんなが見ていたのは、わたしではなく、わたしの持つ力だったのだと。
だれもが優しかったのです。けれど、その優しさは少し遠く、春の朝に窓辺へ降りた雪に触れる時のように、きれいだと言いながら、決して同じものにはなれないと知っている手つきでした。
だからでしょうか。
わたしはずっと、普通というものに憧れておりました。
朝寝坊をして叱られたり、洗濯物の乾きを気にしたり、夕飯の匂いがする道を買い物袋を下げて歩いたり、そういう何でもない暮らしが欲しかったのです。
特別なものとして扱われるのではなく、だれかと並んで歩き、今日の風は気持ちがいいですね、と笑い合える娘として生きてみたかったのです。
春になるたび、わたしは窓の外を眺めました。
中庭の木にやわらかな新芽がつくたび、今年こそあの門をくぐって、町の通りを何の役目もなく歩けたならと思いました。
市場のざわめきの中で立ち止まり、赤い花を一輪だけ買って、だれに咎められるでもなく、それを部屋の小さな花瓶に挿して飾るような、そんな、だれの記録にも残らない時間が、わたしは欲しかったのです。
たった一度でいいから。
聖女ではなく、名を呼ばれれば振り向くだけの、ふつうの娘として。
好きな人の顔を見て胸を痛くし、その人の声ひとつで眠れなくなるような、愚かなほど小さな幸せの中に、身を置いてみたかったのです。
欲しがってはいけないと分かっていても、あきらめきれませんでした。
もしも生まれ変わることがあるのなら、次はどうか神聖な力など何もいりません。
何も持たない娘でかまいません。
ただ、春の匂いを春の匂いとして吸いこみ、好きなものを好きだと言い、好きな人の隣に立てる、そういう生を一度だけでいいから生きてみたいのです。
勝手な願いだと分かっています。
けれど、神が本当におられるなら、これくらいは、許してくださるでしょうか。
もしも叶うなら。
次こそは、だれのものでもないわたしとして、春を迎えたいのです。
⸻
手紙を読み終えた所で、礼拝堂の扉が開いた。
「あ、やっぱりまだいた」
振り向くと、ミレイユが立っていた。
町の診療所で働きながら教会の手伝いもしている幼なじみで、俺が返事をしなかったり食事を抜いたりするとすぐに気づいて、あれこれ世話を焼いてくる。
「司祭さまが心配してたよ。もうすぐ夕方なのに全然戻らないって」
「悪い悪い、片づけが長引いただけだよ」
「それでも遅くなりそうなら先に言いなさいよね。あの人、心配性なんだから」
少し呆れたように言ってから、ミレイユは俺の手元をのぞきこんだ。
「どうしたの? それ」
「人形だよ。聖女セラフィナだってさ」
人形と手紙を見せる。
「ふーん」
ミレイユはそうっと近づき、人形の顔を見た。いつもならすぐに何か言いそうなのに、その時は黙ったままだった。
「私も読んでいい?」
「ああ」
手紙を渡すと、ミレイユは長椅子の隣に座った。紙をめくる音だけが、静かな礼拝堂に落ちる。
読み終えるまで、彼女は一度も言葉をはさまなかった。
やがて顔を上げ、小さく息をつく。
「本当に聖女様の手紙なのかな? 聞いてたイメージと随分違うね」
「俺が知るわけないだろ」
「なんか、かわいそうだね」
そう言って、ミレイユは人形を手に取った。
少しの間食い入るように見ていたが、やがて手を離し、手紙を丁寧にたたみ直した。
彼女は人形の頬を優しく撫でて、大切なものをしまうように箱の中に置いた。
「……そろそろ戻ろう? 司祭様も心配してるし」
「そうだな」
俺がうなずくと、ミレイユは少しためらってからたたんだ手紙を片手で振った。
「……これ、わたしが貰ってもいい?」
「良いんじゃない?」
「ありがと」
それだけ言って笑った横顔を見て、俺は少しだけ目を逸らした。見慣れた顔のはずなのに、その時だけ妙に落ち着かなかった。
俺は背の留め金を閉じ、箱にしまってからまた布をかけた。ミレイユはそのあいだ、何も言わずに立っていた。
「帰ろうか」
「うん」
二人で礼拝堂を出ると、外は春の夕方だった。石畳には長い影が落ち、通りの向こうからは夕飯の匂いが流れてくる。
ミレイユは町並みをゆっくり見ていた。
「風が気持ちいいね」
「そうだな」
そんな何でもない話をしながら坂道を下る。
花屋の前を通った時、ミレイユは足を止めた。店先に並んだ赤い花を見て、ほんの少し目を細める。
「どうした?」
「……ううん、綺麗だなって」
夕暮れの光を受けた花びらは、思ったより深い色をしていた。
「ちょっと待ってろ」
「え?」
俺は店先の老婆に声をかけて、赤い花を一輪買った。そして差し出すと、ミレイユは目を丸くした。
「いいの?」
「一輪だけな」
彼女は少しためらってから、そっと受け取った。胸の前で花を持つ指先がやけに丁寧だった。
「……ありがとう」
そう言って、ほんの少しだけ頬を赤らめる。
その顔を見た瞬間、胸の奥が変にざわついた。
見慣れているはずなのに、今日は何度も不意を突かれる。
「リオン?」
また見すぎていたらしい。ミレイユが不思議そうにこっちを見る。
「どうしたの?」
「別に」
そう言って顔を背けた。ミレイユは赤い花を見下ろして、小さく笑った。
「……うれしい」
「たった一輪だけどな」
「それでもいいの」
そう言って微笑んだ。ミレイユは立ち止まった。
「ごめん、用事があるから先に帰るね」
「ああ、サンキュ。明日も診療所だろ」
「うん。たまには顔見せてよね。あんた、すぐどっか行くんだから」
「気をつける」
ミレイユはくすっと笑った。
「それならよかった」
夕暮れの光の中でそう言われると、なぜか心臓が少しだけうるさくなる。
「リオン?」
「……いや」
「なに?」
「今日は、なんか違うな」
「……なにが?」
「分からないけど」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「そういう日もありますよ」
俺が返事を探しているうちに、ミレイユは赤い花を抱えるように持ち直し、それでは、と小さく手を振った。
俺も手を上げて応える。
彼女はそのまま夕暮れの道を帰っていった。見慣れた後ろ姿なのに、その日だけは、なぜだか少し長く目で追ってしまった。




