第8話,生きてこそ神に――
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年の地下室。埃っぽい空気の中で、父さんは手記のページを撫で、ひどく悲しそうな目をした。
「この日記には、アンリ・サンソンが医者として味わった、最も残酷な葛藤が記されている。」
僕は息を呑んで、父さんの言葉を待った。
「人を救う手が、最大の絶望を味わった日のことだ。」
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1770年代の秋。パリの裏路地には、いつも死の匂いが立ち込めていた。
男の名前はガストンといった。かつて盗みの罪で広場に引き出され、鞭打ちと熱鉄の烙印を受けた、札付きの悪党だった。
真っ赤に焼けただれた鉄の鏝が肩に押し当てられ、ジュッと肉の爆ぜる不快な音と、焦げたタンパク質の異臭が広場に立ち込める。
罪人の証である『V(泥棒)』の文字が、彼の皮膚と筋肉を深く焼き焦がしていた。
処置を施さず放っておけば、重度の火傷から壊死が始まり、傷口にはすぐにウジが湧く。
やがて敗血症による高熱と、泥のような苦痛の底を這いずり回りながら、数週間という時間をかけてゆっくりと死んでいくことになる。
(この刑罰は、実質的な死刑だ。いや、苦痛を無意味に長引かせるという意味では、死よりも遥かに醜い。ただしかし、彼に与えられた刑は『死』ではないのだ。)
処刑人であり医師でもあるサンソンは、刑罰の後の当然の業務として彼の治療にあたった。腐りかけた肉を鋭いメスで冷徹に削ぎ落とし、的確な縫合と薬の塗布を施して、死に直面していた彼の命を物理的に繋ぎ止めたのである。
それから数年が経ったこの日。サンソンの屋敷の勝手口に、一人の男が現れた。
すっかり血色の良い、日に焼けた職人の顔になったガストンだった。その手には、丹精込めて磨き上げられた一足の真新しい革靴が握られていた。
「サンソン先生。あんたに拾ってもらってから、俺は真っ当な靴職人に拾われました。今日、ようやく自分の店を持つことができたんです。」
ガストンは照れ臭そうに鼻の頭を擦り、不器用な仕草でその革靴をサンソンに差し出した。
「あのまま傷が腐って死んでいたら、俺は神を呪い、世間を恨んだまま地獄へ落ちていたでしょう。ですが、あんたが肉を縫い合わせてくれたおかげで、俺は神に懺悔し、誰かのために生きる時間をもらえました。この命は、あんたがくれた奇跡です。」
サンソンは、差し出された革靴を受け取った。分厚い革には、彼が真面目に生きてきた証のような、確かな温もりが宿っていた。
「……君自身の強さが、君を救った。」
サンソンは表情を崩すことなく、ただ静かに頷き、その不器用な感謝を真っ直ぐに受け取った。
処刑人としての血塗られた日常の中で、自分の施した「処置」が確かに一人の人間の魂を光の当たる場所へ導いた。それはサンソンにとって、冷たい雨の日に灯る小さな暖炉のような、確かな救いだった。
だが、そのささやかな光は、たった一日で無惨に踏みにじられることとなる。
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翌日の午後。パリの市場で、刃物を持った男が突然、一人の小さな少女に襲いかかる事件が発生した。
狂気に憑かれて鉈を振り回すその男から、逃げ遅れた少女を身を挺して庇い、背中から何度も切り刻まれて命を落とした男がいた。
ガストンだった。
サンソンが知らせを聞いて駆けつけた時、彼は冷たい石畳の上で、血の海の中に沈んでいた。神に懺悔し、人のために生きる喜びを知ったばかりの尊い命が、見ず知らずの他人の命を救うため、唐突に奪い去られたのだ。
サンソンはガストンの亡骸を見下ろし、声にならない怒りを胸の奥底へと封じ込めた。
少女を襲った男はすぐに捕らえられた。彼が奪った命は、結果的にガストンただ一人だった。
そのため、裁判所が下した判決は「死刑」ではなかった。犠牲者が平民一人であったことや、犯人が狂気に当てられていたことなどが考慮され、死刑ではなく、広場での凄惨な「公開拷問(肉体への刑罰)」を行うというものに留まったのだ。
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数時間後。サンソンは自室の鏡の前に立っていた。
昨日ガストンから贈られたばかりの、真新しい革靴に足を入れる。分厚い革の硬い感触が、失われた命の重みとなって足元から這い上がってきた。
純白のシャツ。深紅のコート。真鍮のボタン。真っ白な手袋。
国家の歯車としての装束を身に纏い、死神の仮面を被る。
「……仕事の時間だ。」
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サンソンが医療鞄を手に広場へ到着すると、そこはすでに地獄のような狂熱に包まれていた。
広場を埋め尽くす何千という聴衆は、台に縛り付けられた殺人鬼に向かって叫んでいた。
「もっとやれ。」
「その悪党の肉を抉り取れ。」
拷問人が真っ赤に焼けたコテで殺人鬼の肉を剥ぐたび、耳をつんざくような絶叫が響き、群衆はそれを極上の娯楽として貪っていた。
そこにあるのは法ではなく、ただ群衆の「怒りと血の娯楽」だった。
だが、群衆の熱狂に乗せられた拷問人が、コテを深く入れすぎた瞬間だった。
殺人鬼の太ももから、どす黒い血柱が噴き上がった。太い動脈が完全に裂けたのだ。
判事は、控えていたサンソンを顎でしゃくって冷酷に命じた。
「おい、サンソン。血を止めろ。こいつの判決は死刑ではない。あくまで肉体への刑罰のみだ。ここで死なせては法の逸脱になる。」
凄まじい出血量だった。このまま放置すれば、三分後には失血とショックで確実に事切れる。一歩間違えれば、あの日のガストンと同じ、実質的な死へのカウントダウンだった。
サンソンは、医療鞄を持ったまま、血の海でのたうち回る殺人鬼を見下ろして立ち尽くした。
(……動脈を縫合せず、あと数分このまま放置すれば、こいつは確実に死ぬ。誰の手を汚すこともなく、ガストンの復讐を果たせるのだ。)
サンソンの心に、冷たくどす黒い殺意が沸き立った。
なぜ私が、医術という力を使って、友の命を理不尽に奪ったこの人間のクズを助けなければならないのか。
判決は死刑ではないというが、こんな男、ここで血を流し尽くして死んでしまえばいい――
群衆が身勝手な怒号を飛ばす中、サンソンの「治す手」は激しい葛藤に硬直していた。
わざと処置を遅らせ、犯人の目が虚ろになっていくのを待とうとしたその時。
不意に、サンソンの背中に、そっと温かい手が触れた。
振り返っても誰もいない。だが、そこには確かに、昨日、新しい革靴を不器用に差し出していたガストンの気配があった。
『――先生。人間は、生きてこそ神に懺悔できるのです。どうか、彼にもその時間を与えてやってください。』
それは、被害者であるはずのガストンの声だった。
熱狂する群衆の怒号を突き抜け、復讐の誘惑に負けそうになっていたサンソンの魂を、強く、静かに打ち据えたのだ。
サンソンはハッと息を呑み、静かに目を閉じた。
そして、胸の中で荒れ狂う個人的な怒りを氷のように冷たく封じ込めると、医療鞄を開いた。
恐るべき正確さと、無駄のない手際。サンソンは真っ赤に染まった肉の裂け目に指を突っ込み、裂けた動脈を探り当て、瞬く間に太い糸で縫合して血を止めた。完璧な救命処置だった。
殺人鬼の呼吸が落ち着き、死の淵から引き戻されるのを見て、聴衆たちは下品な野次を飛ばした。
「ちぇっ、助けちまったのかよ。」
「どうせなら死ぬまでやれよ。」
処置を終え、サンソンは広場の裏路地にある暗い井戸で、血に染まった手を洗っていた。
夕闇の中、冷たい水が赤い血を洗い流していく。ふと視線を落とすと、今日初めて足を通したガストンの革靴に、殺人鬼のどす黒い血が数滴、こびりついていた。
「私は、ただ神の教えに従って命を繋いだ。だが、このやるせなさはなんだ……。」
命を救うという、医師としての使命。それが結果的に、ただ憎き殺人鬼を生き長らえさせただけの、虚しい延命作業に成り下がってしまった。
サンソンは革靴に散った血の染みを、濡れた指先で静かに拭い取った。
治す手と、殺す手。
己の心に空いた底なしの虚無感と、人間という生き物の業の深さに打ちひしがれながら、彼はガストンが残した靴の確かな重みを踏み締め、暗い路地裏でただ一人、立ち尽くしていた。
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