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第6話,聖水と毒薬の舞踏

処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。

フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。

「痛みというものは、時に幻に過ぎない。……だが、幻でも人は踊る。」


1981年の地下室で、父さんは手記の六ページ目を指でなぞりながら言った。


※※※※※※※※※※


1770年代――フランス


どんよりと曇った日。

サンソン邸の診察室で、幼い少年が黒い胆汁を吐き続け、ベッドの上で激しく痙攣していた。


「先生、どうかお助けを……! 教会の前で買った『万病に効く聖水』を飲ませたら、急に苦しみ出して……!」


母親が泣き叫ぶ。


サンソンがその「聖水」の匂いを嗅ぐと、鼻を刺すような刺激臭がした。粗悪な重金属と毒草を混ぜ合わせた、ただの猛毒だ。


「すぐに胃を洗う。押さえていろ。」


サンソンは少年の口に管を通し、毒を徹底的に洗い流す。

同時に彼は、この毒素が人体の「感覚神経」を一時的に麻痺させ、痛覚を奪うという恐ろしいメカニズムを臨床の中で完璧に解明していた。サンソンは持てる知識のすべてを注ぎ込み、少年の命を死の淵から引きずり戻した。


※※※※※※※※※※


――数日後。国家からの処刑命令。


標的は、クロード。

あの猛毒を「神の聖水」と称して貧民たちに売り捌いていた、詐欺師のカルト教祖だ。


彼は、毒に苦しんで死んでいく子供たちを見ても「信仰心が足りないから悪魔に魂を食われたのだ」と嘯き、親たちから全財産を巻き上げていた、純度百パーセントの悪党だった。


処刑の朝。サンソンは、胃液と毒薬の不快な匂いを湯で洗い流す。

純白のシャツ。深紅のフロックコート。真鍮のボタン。真っ白な革手袋。

心を殺し、死神の装束を纏う。


「……仕事の時間だ。」


※※※※※※※※※※


広場。


今日の刑は「釜茹で」。巨大な鉄鍋に煮えたぎる熱湯を張り、罪人を放り込んで内臓まで生きたまま茹で上げるという、極めて残酷な刑罰だ。


引き出されたクロードは、足元の煮えたぎる大鍋を見て、ついに詐欺師の仮面を剥がし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして命乞いを始めた。


「や、やめてくれ! 熱いのは嫌だ! 神よ、私をお救いください!」


サンソンは無表情のままクロードに近づき、木杯を差し出した。

「これを飲め。少しは楽になるはずだ。」


クロードは「慈悲の酒」だと思い込み、すがるようにそれを一気飲みした。

だがそれは酒ではない。サンソンが数日前の治療の知識を応用し、致死量の一歩手前で完璧に調合した「強力な神経麻酔(筋弛緩剤)」だった。


数秒後。クロードの体が、二人の助手に抱え上げられ、煮えたぎる熱湯の大鍋へと容赦なく放り込まれた。


「ドボォンッ!!」


熱湯に体が沈んだ瞬間、クロードの肉体は凄まじい熱量に反応し、反射的に激しい痙攣を起こした。


「ゴボッ……ガハァッ!!」


口から熱湯と泡を吹き出しながら、手足がでたらめな方向へ跳ね上がり、鍋の中で派手にのたうち回る。その姿はまるで、悪魔に取り憑かれた狂人が踊る、奇怪な舞踏のようだった。


「ひゃははははッ!!」


「見ろ! 偽の教祖様が、内臓を焼かれて地獄のダンスを踊っているぞ!」


群衆は、鍋の中で跳ね回る男の無様な姿を指差して、腹がちぎれるほど笑い転げた。


だが、真実は全く違った。

事前の神経麻酔により、クロードの感覚神経は完全にショートしていた。

熱湯に皮膚が爛れ、筋肉が勝手に収縮して踊り狂っていても、クロード自身は「熱さ」も「痛み」も、一切感じていなかったのだ。


彼の脳は完全にクリアなまま、「何も感じないのに、自分の体が勝手に壊れて、でたらめに踊り狂っていく」という、理解不能な究極の恐怖の中にだけ閉じ込められていた。


やがて麻酔が心臓に達し、狂った舞踏はふっと糸が切れたように止まった。

鍋の中に浮かんだのは、赤く茹で上がった肉の塊だけだ。


群衆の万雷の拍手と歓声が、広場を揺らす。

サンソンは熱気と蒸気から一歩下がり、微塵も汚れていない白手袋を見つめた。


(苦痛など不要だ。人はただ、悪党が滑稽なダンスを踊って死ぬという“絵”が見たいだけなのだから。)


サンソンは深紅のコートの襟を握った。

医学で痛みを消せば消すほど、群衆の求める残虐性のハードルは上がっていく。

自分のこの手が、やがて取り返しのつかない巨大な怪物を生み出してしまうのではないか。

サンソンの心に、初めてはっきりとした「恐怖」が芽生えた日だった。

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