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第5話,狂う平衡・回る世界

処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。

フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。

1981年地下室。

僕がページをめくると、父さんは


「人間の世界は、耳の奥にあるんだ。」


と呟き、ため息をついた。


※※※※※※※※※※


1770年代の秋。


サンソン邸に、馬車から転落した初老の御者が担ぎ込まれた。

外傷はない。だが男は激しい眩暈めまい嘔吐おうとを繰り返し、自力で立つことすらできずに床を這いずり回っていた。


「先生……世界が、回っている。吐き気が止まらないんだ……。」


「目を閉じろ。世界の揺れは、お前の耳の奥にある。」


当時の医学では原因不明の奇病とされたが、サンソンは人体の構造を誰よりも熟知していた。


耳の奥にある三半規管。そこのリンパ液の乱れが、人間の平衡感覚を狂わせるのだと。

サンソンは男の頭を抱え、特定の角度へとゆっくりと傾け、三半規管の中の異物を定位置へと戻す「頭位治療」を施した。


数分後、男の激しい眩暈は魔法のようにピタリと治まった。


「……世界が、止まりました。ありがとうございます、先生。」


男の安堵の涙を見届け、サンソンは静かに頷いた。


※※※※※※※※※※


――数日後。処刑命令が届く。


標的は、人身売買の元締めである悪党、ジャック。

彼は誘拐した孤児たちを狭く不衛生な酒樽に詰め込み、暗く激しく揺れる荷馬車で何日もかけて国境へ運んでいた。子供たちが酷い車酔いを起こして樽の中で吐くと、


「豚のゲロだ。自分の汚物でも食ってろ!」


と笑って虐待していた外道だった。


処刑の朝。サンソンは、嘔吐物の酸っぱい匂いの記憶を、念入りに湯で洗い流す。


純白のシャツに袖を通し、深紅のコートを羽織る。

真鍮のボタンを留めるたびに、心が冷たく凍りついていく。

最後に、真っ白な革手袋をはめる。


鏡の中で、医者が沈み、死神が立つ。


「……仕事の時間だ。」


※※※※※※※※※※


午後、広場。


今日の刑は「回転車輪刑」。巨大な馬車の車輪に罪人の四肢を縛り付け、骨が砕けるまで高速で回し続けるという残酷な刑罰だ。

引き出されたジャックは、群衆に向かって毒づいていた。


「俺は悪くねえ!親に捨てられたガキどもに、新しい飼い主を見つけてやっただけだ!」


サンソンは無表情のまま、車輪に縛り付けられたジャックの頭に手を添えた。

そして、彼が暴れる頭を固定するふりをして、隠し持っていた「極細の銀針」を、男の両耳の奥へと深く、正確に突き刺した。


(平衡感覚を司る三半規管。そこを物理的に破壊する。)


「痛ッ!? てめえ、耳に何を……!」


ジャックが抗議する間もなく、サンソンは無慈悲にレバーを引いた。

巨大な車輪が、凄まじい勢いで回り始める。


「ぎゃあああぁぁぁッ!!」


車輪が回り始めた瞬間、ジャックの脳を襲ったのは、物理的な回転の苦痛ではなかった。

三半規管を破壊された彼の脳内では、世界が実際の何十倍、何百倍もの凄まじい速度で、永遠に回り続ける「絶対的な眩暈」が発生していたのだ。

上下左右の概念が消失し、宇宙の果てまで放り投げられるような、狂気の回転地獄。

彼は骨が軋む痛みを感じる余裕すらなく、極度の恐怖と強烈な吐き気で白目を剥いた。


「オエエエェェェェッ!!」


ジャックは車輪が回るたびに、胃液と未消化の食物を派手に撒き散らした。悲鳴はすべて嘔吐物に掻き消され、彼は自らの汚物に塗れながら、無限の眩暈の中で発狂していった。


「ぎゃはははッ!見ろ、目が回ってゲロを吐いてるぞ!」


「もっと回せ!汚い豚のゲロをぶち撒けろ!」


群衆は腹を抱えて大爆笑し、回転するジャックに向かって容赦なく石や馬の糞を投げつけた。


車輪が止められた時、ジャックの心臓はショックで止まっていた。顔は自らの汚物と泥にまみれ、誰が見ても最高に無様で、滑稽な死に顔だった。


サンソンは、飛び散った汚物を避けるように一歩下がり、白手袋を見た。

汚れていない。だが、広場に充満する狂った笑い声が、耳の奥にへばりついて離れない。


(苦痛などない。彼はただ、自分の脳が作り出した無限の回転地獄に落ちただけだ......

だが群衆は、悪党が自らの汚物に塗れて死ぬという“無様な絵”が見られたことで、最高に満たされている。)


サンソンは深紅のコートの襟を握った。

彼が施した医学の技術は、悪党に地獄を見せると同時に、群衆という化け物をますます肥え太らせていた。

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