第3話, 紅の噴水
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多く処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
「……骨だけじゃない。血の止め方も、彼達は知っていたんだ。」
1981年の地下室で、父さんはそう言って私記のページを叩いた。
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1770年代、凍える夜。
サンソン邸の診察台に、若い母親が横たわっていた。首筋が深く刃物で裂け、心臓の拍動に合わせて鮮血が激しく噴き出している。
「布を。もっと明かりを。」
アンリ・サンソンは慌てない。
三本の指を、首筋にある血流の“分かれ道”へ正確に沈めた。
押さえる。深く、真っ直ぐに。脳へ行く血流は殺さず、傷口から漏れ出す血だけを完璧に遮断する。
血を失いかけ、母親の目が泳ぎ、恐怖に歯が鳴る。
サンソンは低く、力強い声で言った。
「傷を見るな。私の声だけを聞け。……生きろ。」
夜が長く、圧迫する指が痺れて感覚を失っても、彼は決して手を離さなかった。
やがて血流が弱まり、止血の処置が完了して呼吸が戻る。
母親は涙を流し、かすれた声で笑った。
「……助かった。先生……ありがとうございます。」
サンソンは頷いた。
血に染まった指先に、力強い命の拍動が残っていた。
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――数日後。
処刑命令が届く。
標的は、ド・マルモン侯爵。
領地の村娘たちを攫い、地下牢へ閉じ込め、生きたまま首を裂いてその血を啜っていたという「吸血卿」。サンソンが救ったあの母親も、その地下牢から命からがら逃げ出した一人だった。
処刑当日。
サンソンは、命を繋いだ手についた血を、念入りに湯で洗い流す。
純白のシャツに袖を通し、深紅のコートを羽織る。
真鍮のボタンを留めるたびに、心が冷たく凍りついていく。
最後に、真っ白な革手袋をはめる。
鏡の中で、医者が沈み、死神が立つ。
「……仕事の時間だ。」
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広場。
死刑台に引き出された侯爵は、膝をつきながらも傲慢に言い放った。
「平民の分際で、私の体に触れるな。私の血は特別だ。美しく、一撃で斬れ。」
だが最前列には、娘を奪われた親たちがいた。あの夜に助けた母親もいた。
彼らは手桶を持っていた。
そして、豚の血と家畜の汚物を、侯爵の高貴な顔面に向かって一斉にぶち撒けたのだ。
「ひっ……! あ、あぁぁッ!」
悲劇の貴族の仮面が、一瞬で剥がれ落ちる。
鼻水と汚泥に塗れ、パニックを起こした侯爵は、みっともなく地面を這いずり回った。
「や、やめろ!私は高貴な血筋だ!こんな汚い姿で死ねるか! 助けてくれ!」
群衆が腹を抱えて笑う。正義が酒に混ざり、完全な娯楽の祭りになる。
サンソンは、重い斬首剣を上段に構えた。
医者としての彼の目は、恐怖に歪む侯爵の首筋に、あの夜、母親の命を繋ぐために押さえた『一点』を正確に捉えていた。
(頸動脈。そこを完全に断ち切れば、神経が痛みを感じる前に脳は死ぬ。)
――シュパッ。
一閃。
完璧な軌道を描いた剣は、首の骨の隙間を滑るように通り抜け、一瞬で侯爵の首を刎ね飛ばした。
その直後、首を失った胴体の断面から、二メートルを超える鮮血が噴水のように空高く跳ね上がった。
「おおおおおッ!!」
「見ろ! 紅の噴水だ!」
観衆は狂喜した。
悪党の血が雨のように降り注ぐ中、最前列にいたあの母親までが、手を叩いてゲラゲラと笑っていた。
数日前に助けられたばかりの命が、今、熱狂の中で別の死を祝っている。
サンソンは剣の血を拭い、白手袋を見た。
汚れていた。真っ赤な血の匂いが、布の奥へ、べっとりと残ってしまった。
(苦痛など、誰も気にしない。人はただ、鬱憤を晴らしてくれる、派手な“絵”が欲しいだけなのだ。)
彼は歩いた。
胸の奥から込み上げる強烈な吐き気を、深紅のコートの内側へ無理やり押し込めながら。
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