第30話,時代を駆け抜けた死に神の最後
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年の地下室。父さんは、手記の終盤のページをパラパラと捲りながら、静かに語り始めた。
「……ロベスピエールの死後、フランスの民衆は、広場に流れる同胞の血の匂いにすっかり疲れ果てていたんだ。彼らが次に求めたのは、国内の粛清ではなく、外の敵を打ち倒す『輝かしい栄光』だった。」
父さんは、手記の余白を指でなぞった。
「引退したサンソンが沈黙して生きる間に、時代は彼が望んだ平和ではなく、全く別の熱狂へと姿を変えていく。あの天才軍人、ナポレオン・ボナパルトの台頭だ。」
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シャルル=アンリ・サンソンが「ムッシュ・ド・パリ」の称号を息子に譲り、表舞台から姿を消して十一年が経っていた。
時代は激変していた。かつて王の首を刎ねてまで「平等な共和国」を夢見たフランスの民衆は、結局のところ、強力な指導者による秩序を渇望した。彼らが熱狂と共に玉座に迎え入れたのは、連戦連勝でヨーロッパ全土を蹂躙し、数万の兵士の血と引き換えにフランスに栄光をもたらした若き皇帝、ナポレオンだった。
1806年、冬のパリ。
すでに七十歳に近いサンソンは、酷く老いぼれ、過去の亡霊と不眠に苛まれる哀れな隠居老人として、街の片隅でひっそりと余生を送っていた。
その日、サンソンは杖をつきながら、チュイルリー宮殿の近くの広場を歩いていた。
偶然にもそこでは、ナポレオン皇帝による軍隊の閲兵式が行われていた。華麗な軍服、熱狂する群衆の歓声。それはかつて、処刑広場に響き渡っていたあの狂気の歓声と、ひどく似ていた。
サンソンは群衆の後ろから、その眩しいパレードを静かに見つめていた。
だが、白馬に跨り、群衆を見下ろしながら進んでいたナポレオンが、ふと視線を群衆の端へ向けた時だった。並外れた記憶力を持つ若き皇帝は、みすぼらしい老人の顔を見て、ピタリと馬の歩みを止めた。
「……連れてこい。」
ナポレオンの短い命令により、近衛兵たちが群衆をかき分け、サンソンの両腕を掴んで皇帝の馬の御前へと引きずり出した。
周囲の民衆がざわめく。なぜ、栄光の皇帝が、あんな死に損ないの老人に目を留めたのか。
ナポレオンが彼を呼び止めた理由。それは、絶対的な権力者としての「優越感の誇示」と、単なる「好奇心」だった。かつて国王ルイ16世の首を刎ねた伝説の処刑人を自らの足元にひれ伏させることは、自らの帝権が旧体制の死の上に立っていることを民衆にアピールする、絶好のデモンストレーションになるからだ。
「お前が、あのシャルル=アンリ・サンソンか。」
馬上のナポレオンは、冷たい優越感を含んだ声で見下ろした。
「我が国で最も多くの首を刎ねた、忌まわしい死神。……聞くところによれば、お前は生涯で三千人もの命を奪ったそうだな。それだけの人間を殺しておいて、夜は亡霊にうなされることなく、よく安眠できるものだな?」
広場が静まり返った。
それは、数万の若者を戦場という盤上の駒として消費し、何一つ罪悪感を抱かずに「栄光」を語る男からの、あまりにも無神経で残酷な嘲笑だった。
だがその瞬間。
うつむいていた老サンソンの落ち窪んだ瞳の奥に、かつて全パリを震え上がらせた「冷徹な処刑人」の鋭く恐ろしい光が、一瞬だけ蘇った。
サンソンはゆっくりと顔を上げ、ナポレオンを見つめ返した。
その視線は、皇帝としての眩い威光や、煌びやかな勲章など一切見ていなかった。ただ真っ直ぐに、ナポレオンの『首筋』だけを正確に射抜いていたのだ。
(……太く、戦で鍛え上げられた立派な首だ。だが、頸椎の隙間の位置は、あの裏町でパンを盗んだ泥棒と何ら変わりはない。)
何十万人を従える無敵の皇帝だろうが、ギロチンの前では絶対的に平等な『ただの肉の塊』に過ぎない。
(私が斜めの刃の下にこの男を固定し、レバーを引きさえすれば……あの首を、何の苦痛も与えずに0.1秒で胴体から切り離すことができる。ええ、いとも簡単に)
自分は、いつでもこの男を『平等な肉塊』に変えられる。絶対的な『死の技術』を持つ者だけが宿す、氷のような凄み。
ナポレオンは、サンソンの見開かれた瞳の奥に広がる「無限の死の虚無」を覗き込み、背筋に這い上がるような強烈な悪寒を覚えて、思わず馬の上で怯んだ。戦場でどれほどの砲弾を浴びても表情を変えなかった男が、ただの老人の視線に射すくめられたのだ。
サンソンは、微かに、ひどく穏やかに微笑んだ。
「……皇帝陛下や、幾万の命を盤上で消費する王たちが安眠できるのであれば、一介の法執行人が安眠して悪い理由がありましょうか?」
その静かな反論が発せられた瞬間、サンソンの心の中にずっと降り積もっていた重い鎖が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
(ああ……私は、狂ってなどいなかったのだ。)
何万人を殺しても安眠できるこの目の前の「英雄(怪物)」こそが、異常なのだ。
一人の命を奪うたびに血の涙を流し、眠れぬ夜を過ごし、心を壊してしまった私の方が、人間として正常だった。自分が最後まで「人の命の重さに苦しむ、ただの不完全な人間」であったことを、サンソンはこの日、ナポレオンという巨大な合わせ鏡を通して、初めて肯定することができたのである。
「……戯れが過ぎた。行くぞ。」
ナポレオンは忌々しそうに顔を背け、逃げるように馬の腹を蹴ってパレードへと戻っていった。
その遠ざかる背中を見送りながら、サンソンは柔らかく目を閉じた。
(神よ。いつか、あの忌まわしい機械が錆びつき、誰の血も流さずに済む時代が来ますように……。)
その数ヶ月後。1806年8月。
シャルル=アンリ・サンソンは、長かった苦悩の人生を終え、まるで長年の不眠から解放されたかのように、穏やかな微笑みを浮かべたまま、永遠の眠りについた。
一人の処刑人の血塗られた物語は、ここで終わる。
だが――。
※※※※※※※※※※
「……彼の物語には、まだたった一つだけ、残された『約束』がある。」
1981年の地下室。父さんは手記を置き、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
次回最終話です。
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