第29話,死という名の解放
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
今回は史実から離れたオリジナルストーリーを
1981年の地下室。父さんは手記のページを撫でるのをやめ、重く暗い目を僕に向けた。
「……パンドラの箱の底には、最後に『希望』が残っていたと言われているね。だが、フランス革命という名の怪物は、その箱の底に残った最後の希望すらも、泥の靴で粉々に踏みにじったんだ。」
父さんは、手記の空白のページを指差した。
「シャルル=アンリ・サンソンが、本当にこの世のすべてに絶望し、完全に沈黙した日のことだ。」
※※※※※※※※※※
1795年、初夏。
「ムッシュ・ド・パリ」の称号を捨て、一人の老いた医師に戻ったサンソンは、なけなしの財産で看守を買収し、タンプル塔の最上階にある独房へと足を踏み入れた。
彼には、どうしても確かめなければならないことがあった。
あの国王ルイ16世が「民を憎んではいけない」と優しく教え、古い地図を一緒になぞっていた無邪気な少年、王太子シャルル(ルイ17世)。
革命の狂乱が去った今、あの気高き王の血を引く小さな希望だけは、どうか清らかに生き延びていてほしい。その祈りだけが、今のサンソンの空っぽの体を動かす唯一の理由だった。
だが、重い鉄の扉が開いた瞬間、サンソンは吐き気を催すほどの悪臭と淀んだ空気に顔を歪めた。
陽の当たらない暗い石の部屋。排泄物と腐った食べ物が散乱する床の隅に、ボロ布を纏った『何か』がうずくまっていた。
「……シャルル、殿下?」
サンソンが震える声で呼びかけると、暗がりからギョロリとした巨大な目玉がこちらを見た。
かつて黄金色に輝いていた美しい巻き毛はシラミに塗れて抜け落ち、体は骨と皮だけの老婆のように痩せこけ、体中がひどい皮膚病で爛れている。それは、わずか十歳の少年の姿ではなかった。
「……その名で呼ぶな。僕は、カペー家の豚の息子だ。」
少年の口から出たのは、耳を疑うような低く濁った声だった。
両親が処刑された後、少年は靴屋のシモンという狂信的な共和派の男から徹底的な『再教育(洗脳と虐待)』を受けていた。母マリー・アントワネットを「自分を汚した魔女」だと裁判で偽証させられ、母を殺す道具として使われたのだ。
「殿下、もう恐れることはありません! あなたを虐待していたシモンは、私が……このサンソンが、ロベスピエールと共に首を落としました。あいつはもう、この世のどこにもいないのです!」
サンソンは涙を流しながら、泥だらけの床に膝をつき、必死に叫んだ。諸悪の根源を断ったのだから、この子の呪縛も解けているはずだと信じたかった。
だが、少年は不気味に空虚な笑い声を上げた。
「アハハ……シモン先生は死んだの?そう。でもね、僕は素晴らしいことをたくさん教わったよ!」
少年は、爛れた皮膚から血を滲ませながら、ふらふらと立ち上がり、虚空に向かって右手を不自然に突き上げた。
「共和国万歳!自由と平等、万歳!父様は国を売った悪党で、母様は僕を汚した淫乱な魔女だ! だから、あの豚たちは死んで当然なんだ!」
「やめてください、殿下!もう……!」
「共和国万歳!共和国万歳!」
サンソンの悲痛な叫びを掻き消すように、少年は壊れたからくりのように叫び続けた。
「僕は共和国の立派な子供だ! だから豚の親なんて愛していない! 共和国万歳!共和国万歳……ッ!」
サンソンは絶句した。
肉体が傷つけられただけではない。一人の純粋な子供から「親への愛」と「尊厳」を完全に剥ぎ取り、その魂を惨たらしく殺害した呪いは、術者が死んだ後も決して消えることはなかったのだ。
私がギロチンでどれだけ悪党の首を刎ねようと、一度壊された人間の心は、もう二度と元には戻らない。
「殿下……許してください……私が、無力なばかりに……。」
死神と呼ばれた男が、汚物にまみれた床に額を擦り付けて号泣した。
しばらく狂ったように「万歳」を繰り返していた少年は、ふと糸が切れたように腕を下ろし、光の消えた虚ろな瞳でサンソンを静かに見下ろした。
「……おじさんは、僕を殺しに来た処刑人なんでしょう?だったら、早く僕の首を斬ってよ。」
「……!何を、おっしゃるのです。生きてさえいれば、いつか必ず……!」
「生きてさえいれば?」
少年は、爛れた皮膚を掻きむしりながら、この世のすべての絶望を煮詰めたような、大人びた冷たい微笑を浮かべた。
「おじさんは、死が恐ろしいものだと思っているの?死は『牢獄』じゃない。……心を殺されたまま、愛も尊厳もない肉の塊としてこの世界で明日を待ち続ける。この塔こそが、本当の牢獄なんだよ。」
少年の言葉が、重い鉄槌のようにサンソンの胸を打ち砕いた。
自分が長年、罪人たちに与え続けてきた「死」。それは最大の刑罰などではなく、この狂った世界からの『ただの解放』に過ぎなかったのだと。
「……お願いだから、僕をこの牢獄から出してよ。」
少年は最後にそう呟くと、再び暗い部屋の隅へと背を向け、膝を抱えて丸くなった。
「共和国……万歳……。」
虫の息のようなその呟きが、冷たい石壁に吸い込まれて消えた。
※※※※※※※※※※
それから数日後。
1795年6月8日。王太子シャルルは、重度の結核と栄養失調により、誰一人看取る者のない暗い独房の中で、ひっそりと息を引き取った。享年十歳。
サンソンの最後の希望は、こうして歴史の最も暗い闇の中へ消えた。
王の気高さも、王妃の誇りも、革命の理想も。すべてが無意味な血の泡となって弾けた。
サンソンは手記のインク瓶を床に叩き割り、自らの過去を記録することを完全にやめた。
心も、希望も、祈りも。シャルル=アンリ・サンソンという人間のすべてが、このタンプル塔の闇の中で、小さな王子と共に永遠に死に絶えたのである。
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