第2話,炎の烙印と、欺瞞の仮面
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多く処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年地下室。
僕がページをめくると、そこには焼け焦げた紙片のような、痛ましい記録が綴られていた。
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1770年代のパリ。
明け方、サンソン邸の裏口が静かに叩かれた。
「先生……助けてくれ。声を出せない。出したら殺される。」
入ってきた女は、顔をボロ布で隠していた。
布を外すと、唇が裂け、歯が折れ、喉の奥には酷い火傷の跡があった。喋ろうとするたびに、喉が引きつって血が滲む。
「……熱い鉄を、押し当てられました。ご主人様に。」
サンソンは目を細めた。
火傷は新しい。だが、今すぐ命に関わるのは表面の傷ではなく、熱で腫れ上がった気道の閉塞だ。
彼は女の顎を支え、息の通り道を確保する。
銀の細い管を挿入し、熱で固まった皮膚に極薄い刃を当て、癒着を防ぎながら呼吸を助ける。痛みを完全にコントロールしながら、冷たい薬効のある布を当て続けた。
女は涙を流しながら、かすれた声で言った。
「……死なないでよかった。先生、ありがとう……。」
サンソンは短く答えた。
「喋るな。今は喉を守れ。」
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――翌日。
封蝋のついた書状が届いた。
標的は、ヴァロワ伯爵。
自分の屋敷で働く娘たちを暴力で支配し、逃げようとした者の顔や喉に熱い金属を押し当てて“所有の印”を刻んでいた異常者。彼はそれを「平民への躾」と呼んで嘯いていた。
サンソンは、昨夜の治療の跡を念入りに湯で洗い流す。
命を救った「医者の匂い」を完全に消し去るために。
純白のシャツに袖を通し、深紅のフロックコートを羽織る。
真鍮のボタンを一つ留めるたびに、アンリの心が死に、国家の殺戮装置が起動していく。
最後に、真っ白な革手袋をはめる。
鏡の中で、医者が沈み、死神が起き上がる。
「……仕事の時間だ。」
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午後、広場。
今日の刑は「鉛のマスク」だった。
赤く熱した鉄の仮面を被せ、罪人の顔を焼き尽くす。群衆はそれを“地獄の罰”として欲しがり、広場は熱狂に包まれていた。
引き出されたヴァロワ伯爵は、不思議なほど落ち着いていた。
自分がこれから焼かれるというのに、貴族の傲慢なプライドが彼を支えていた。
「平民の分際で、私の顔に無闇に触れるな。貴族らしく、誇り高く終わらせろ。」
最前列には、顔を布で隠した女たちがいた。
声を奪われた女もいた。彼女たちは一言も発さず、ただ呪いのような視線を伯爵に投げつけていた。
鉄の仮面が炭火の上で赤く光る。熱気が空気を歪ませる。
「ほら来たぞ!」
「悪魔の顔を焼き尽くせ!」
サンソンは、火箸で熱い仮面を持ち上げた。
重い。凄まじい熱気だ。これを本当に素肌に被せれば、痛みは長く続き、絶叫は広場に響き渡るだろう。見世物としては最高に盛り上がる。
だが、彼の手は“治療の手”でもある。
サンソンは、伯爵の首筋に指を添えた。
頸動脈の拍動を感じ取る。治療で幾度もやってきた、“人間を深く眠らせるためのスイッチ”。
伯爵が小さく嘲笑う。
「なんだ? 怖いのか、処刑人。」
サンソンは答えない。
ただ、その指を急激に、深く沈め込んだ。
「……ッ!?」
伯爵の瞳の焦点が瞬時に揺れ、白目を剥く。群衆には見えない。だがサンソンには確かな手応えがあった。意識が完全にブラックアウトした合図だ。
その瞬間、サンソンは容赦なく仮面を被せた。
ジュアァァァッ!! という凄まじい音と共に、真っ白な煙が上がる。
身体の力が抜けた伯爵は、悲鳴を上げることもなく、ガクリと膝から崩れ落ちた。
群衆がどっと沸く。
「効いたぞ!」
「一瞬で倒れやがった!」
「見ろ、煙が出てるぞ!」
だがサンソンは知っていた。
焼けたのは、肉ではなく“絵”だけだ。
仮面の内側には、極めて分厚い湿った皮の布を仕込んである。熱の大部分は表面の蒸気となって逃げ、伯爵の顔を骨まで焼くことはない。痛みが爆発する前に意識を奪い、残酷なショーの体裁だけを完璧に整えたのだ。
処刑が終わり、仮面を外すと、伯爵の顔には黒い煤と軽い火傷の跡が残っているだけだった。
それでも群衆は満足した。“残酷な形”を見たからだ。
声を奪われた女が、布の下で肩を震わせていた。
泣いているのか、笑っているのか、わからない。
サンソンは白手袋を見た。
汚れていない。ただ、焦げた肉の匂いの錯覚だけが鼻を突く。
(苦痛は関係ない。人は、罰の“絵”が整えば整うほど、他人の死を軽く消費していく。)
サンソンは深紅のコートの襟を握った。
昨日救った女の喉は、やがて声を取り戻すだろう。だが今日、広場を埋め尽くした「正義」という名の群衆の笑い声は、悪党の悲鳴よりも遥かに不気味に響いていた。
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