第28話, 壊ゆく機械
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年の地下室。父さんは、手記の後半のページをパラパラと捲り、そして手を止めた。
「……ロベスピエールの処刑を境に、この日記から『感情』が完全に消え失せている。」
覗き込むと、そこにはただ無機質な文字だけが並んでいた。
『〇月〇日。晴れ。四名執行。』
『〇月〇日。雨。機材の刃を研ぐ。』
そこにはかつてのような、血の匂いに苦悩する言葉も、神への祈りも、葛藤も一切記されていない。ただの業務日報のような、冷たい空白の羅列だった。
「わかるよ。痛いほどにね。」
父さんは、酷く疲れたように目を細めた。
「人間は、心を完全に壊してしまうと、体はただの『機械』になる。そして記憶は、感情を伴わない単なる『記録』に変わるんだ。……彼は、生き延びるために心を鉄にするしかなかったんだよ。」
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振り返れば、サンソンの心が決定的にヒビ割れたのは、あの「慈悲の機械」が導入された直後、自らが流させた血の海に足を滑らせ、助手であった次男・ガブリエルが処刑台から転落死したあの日だった。
もし自分が逃げ出せば、本物のサディストがこのレバーを握り、処刑台は本当の残虐ショーに成り下がる。その強烈な責任感だけが、彼を国家の巨大な殺戮装置の「一部」として稼働させ続けていた。だが、息子の死で脆くなっていた彼の精神は、その後に待ち受けていた『四つの極限の死』によって、一本、また一本と支柱をへし折られていったのだ。
国王ルイ16世の気高き自己犠牲は、サンソンの「人間と未来への希望」を破壊した。
マリー・アントワネットの揺るぎない静寂は、サンソンの「処刑の正当性」を破壊した。
そして、泥に這いつくばり命乞いをしたかつての恋人デュ・バリー夫人の絶叫は、サンソンの中に残っていた「人間としての情け」を完全に破壊した。
極限の矛盾を抱えたまま、最後に彼が引導を渡したのが、ロベスピエールだった。
理想が生んだ狂気を悟り、自らすべてのヘイトを被る『最悪のいけにえ』となることを選んだかつての同志。彼と無言の共犯関係を結び、その絶叫と共にレバーを引いたあの日。サンソンをギリギリのところで支えていた最後の緊張の糸が、プツリと切れた。
恐怖政治が終わり、広場を包んでいた革命の熱狂が嘘のように冷めていった時。
それは同時に、サンソンが「これ以上、国家の歯車として自分を騙し続ける理由」が完全に消滅した瞬間でもあった。
1795年。
シャルル=アンリ・サンソンは、自室の鏡の前に立っていた。
白髪が混じり、頬はこけ、目にはもう何の光も宿っていない。ただの、錆びついて動かなくなった古い機械の顔がそこにあった。
「……疲れた。」
ポツリと、何年かぶりに彼自身の『感情』が口からこぼれ落ちた。
もう十分だ。私は、私が背負えるだけの血は、すべて流し尽くした。精神の柱はすべてへし折られ、体は燃え尽き、これ以上、誰の命も背負うことはできない。
(もう、誰も殺したくない。)
サンソンは、震える手で深紅のフロックコートの真鍮のボタンを外し、その呪われた重い布を床へと脱ぎ捨てた。
ただ一つだけ、彼の網膜からどうしても消し去ることのできない『記憶』があった。
それは、革命の熱狂が頂点に達する前、タンプル塔の冷たい部屋で見た光景だ。
質素なテーブルで、ルイ16世が幼い王太子シャルルを膝に乗せ、古いフランスの地図を優しくなぞっていたあの温かな時間。
『もし春になって、私が一緒にその川を見に行けなくなったとしても、お前はこの美しい国と、迷える民たちを愛しなさい。誰のことも、決して憎んではいけないよ。』
優しい父親の遺言を胸に、あの小さな王子は、今もどこかでひっそりと、清らかに生き延びていてほしい。それだけが、心を失ったサンソンの中に残る、最後の細い光だった。
(残りの人生は、小さな診療所で貧しい人々の命を繋ぐ、ただの『医師』に戻ろう。この血に染まった手を毎日冷たい水で洗い流し、神の御前で懺悔し、あの幼い王子の無事を祈るだけの日々を送りたい……。)
彼は、長男のアンリへと「ムッシュ・ド・パリ」の称号と血塗られた歴史を譲り渡し、表舞台から完全に姿を消すことを決意したのである。
死神の引退。
パリの街を震え上がらせた伝説の男は、こうして静かに、まるで古い幻影のように歴史の陰へと溶けていった。
だが――。
※※※※※※※※※※
「……歴史というのは、本当にしつこい演出家だ。」
1981年の地下室で、父さんが静かに本を閉じた。
「完全に燃え尽き、静かな懺悔だけを望んだ彼のもとに、歴史は最も残酷な『真実』と、新しい時代を象徴する『あの男』を連れてくる。彼が死神のコートを脱いだ、その後の話だ。」
父さんの言葉が、地下室の冷たい空気に響く。
サンソンの血塗られた人生の最終章。それは、彼が希望を託した「タンプル塔の小さな王子」の残酷すぎる結末と、ヨーロッパ全土を血の海に沈めることになる一人の天才軍人――ナポレオン・ボナパルトとの、奇妙で静かな謁見へと繋がっていくのである。
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