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第26話,野バラの園の休日

処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。


フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。


フランス革命編です。

1981年の地下室。父さんは手記のページをめくりながら、ふと虚空を見つめた。


「……化け物というのは、牙を剥き出しにして火を吹いているとは限らない。時には小綺麗な服を着て、花を愛し、子供に優しく微笑みかける。だからこそ、恐ろしいんだ。」


父さんの声は、ひどく冷え切っていた。


「アンリ・サンソンは、狂気の嵐の中で、その『化け物の素顔』とすれ違ってしまったんだよ。」


※※※※※※※※※※


1794年の春。パリはロベスピエールが主導する「恐怖政治テロル」の絶頂にあった。

毎日何十台もの死刑囚を乗せた荷馬車が石畳を揺らし、サンソンは来る日も来る日も、機械のように血の海の中でレバーを引き続けていた。手から血の匂いが消えることはなく、夢の中でも刃の落ちる音が鳴り響く。サンソンの心身はすでに限界を迎えていた。


※※※※※※※※※※


だがこの日、サンソンには奇跡のように一日だけの「休日」が与えられていた。

彼は血と脂の匂いを石鹸で念入りに洗い落とし、妻と、まだ幼い娘の手を引いて、パリ郊外の静かな森へと散歩に出かけた。広場の熱狂も、死の匂いも届かない、緑の木漏れ日だけが揺れる穏やかな世界。


「お父様、見て! 白いお花が咲いてる!」


娘が、フリルのついたスカートを揺らして無邪気に笑いながら、野花の咲く斜面を駆け回る。妻がそれを微笑ましく見守り、サンソンもまた、久々に強張った顔の筋肉を緩めていた。


(……ああ、世界はこんなにも静かで、美しかったのか。)


家族の温かな声と、風に揺れる木々のざわめき。それは、すり減り、死に絶えかけていたサンソンの魂に、温かい血を通わせる至福の時間だった。


「おや、気をつけて。棘がありますよ、可愛らしいお嬢さん。」


ふと、透き通るような穏やかで優しい声が響いた。

見ると、緑色の小綺麗なフロックコートを着た、小柄で上品な青年が立っていた。斜面で転びそうになった娘の肩をそっと支え、彼は森の小道に咲いていた一輪の野バラを、棘が刺さらないように丁寧に指で折ると、膝をついて娘の目線に合わせ、優しく差し出した。


「ありがとう、お兄様!」


「どういたしまして。あなたのような無垢な子供の笑顔こそ、この国の本当の宝です。」


青年は、まるで聖人のような、一点の曇りもない純粋な笑顔を浮かべて娘の頭を撫でた。そして、警戒して歩み寄ってきたサンソンと妻に向かって、上品に会釈をした。


「休日の邪魔をして申し訳ありません。あまりにも美しいご家族の風景だったもので、つい。」


「……いえ。娘を助けていただき、ありがとうございます。」


サンソンが短く礼を言うと、青年は目を細めて木漏れ日を見上げた。


「自然というものは美しいですね。どんなに人間が愚かな争いをしても、この花のように、純粋な美徳は必ず芽吹く。」


青年は、サンソンへ向かって真っ直ぐな瞳を向けた。


「私は、人間が生まれながらに持つ『善』を信じています。この国は今、少しばかり血の雨が降っていますが……それはこの野バラが咲くための、古い枯れ葉を掃除しているだけなのです。やがて、誰もがこの森のように、家族と平和に暮らせる完璧な理想の国がやってきますよ。この子の未来のために、私はすべてを捧げる覚悟です。」


その言葉は、あまりにも純粋で、狂気めいたパリの現実から遊離していた。だが、彼の瞳に嘘はない。サンソンは、この青年が「顔のない獣」と化した群衆とは違う、高い知性と、心からの慈愛を持った人間であることをはっきりと感じ取った。


「……美しいお考えですね、ムッシュ。」


サンソンが静かに答えると、青年は嬉しそうに微笑み、自らの胸に手を当てて名乗った。


「私は、マクシミリアン・ロベスピエールと申します。」


その名が耳に届いた瞬間、サンソンの心臓が、見えない氷の手で鷲掴みにされたように激しく止まった。


ロベスピエール――


議会で毎日、狂ったように死刑判決に署名し、サンソンの元へ大量の人間を送り込み続けている、恐怖政治の最高指導者。

かつて「死刑廃止」を訴えていたあの青臭い青年は、今、目の前で野バラを愛で、子供の未来に優しい笑顔を向ける「一人の心優しき人間」の顔をしたまま、何万人もの首を狩り取る冷酷な最高権力者へと変貌していたのだ。


「……そして、あなたは?」


ロベスピエールが、人の良さそうな笑顔のまま尋ねてきた。


サンソンが名乗るのを躊躇している横、娘がピエールのズボンをいたずらに引っ張り笑顔で彼に口を開いた。


「お父様はシャルル=アンリ・サンソンよ。とっても優しいお父様。」


その名が森の空気に溶けた瞬間。

ロベスピエールの顔から、さっと血の気が引いた。


「……ああ、なるほど。」


彼は微かに震える声で呟き、顔に貼り付いたような『穏やかな微笑み』をどうにか保とうとした。だが、瞬きを繰り返す瞳の奥には、隠しきれない激しい動揺と焦りが渦巻いていた。差し出そうとしていた手が、不自然に空中でピタリと止まる。


サンソン。ムッシュ・ド・パリ。

ロベスピエールが毎日紙の上で「処理」を命じている死刑を、実際に血と肉の匂いの中で執行している、死神の本体。

彼にとって死刑は、理想の国を作るための「痛みのない論理」でしかなかった。だが今、目の前に、自分が流させている大量の血を浴び、死の重みを背負って生きている『生身の人間』が立っているのだ。


「……」


ロベスピエールは、サンソンと、その後ろで無邪気に笑う娘を交互に見つめ、何度か言葉を飲み込んだ。


彼が嫌悪したのはサンソンではない。サンソンという存在を通して突きつけられた、自らの理想の足元に広がる『現実の血の匂い』の生々しさに耐えられなかったのだ。


「……議会に、戻らねばならない時間を思い出しました。今日はこれで、失礼します。」


彼は努めて冷静な、ひどく事務的な声でそう告げると、サンソンに浅く一礼した。だが、向き直るその所作には余裕がなく、微かに震える指先からポロリと一輪の野バラが地面に落ちたことにも気づいていなかった。

決して走ることはなかったが、その足早に遠ざかる背中からは明らかに、見えない何かから必死に目を逸らそうとする痛々しいほどの焦燥感が滲み出ていた。


地に落ちた一輪の野バラを、サンソンは静かに拾い上げ、その青年の背中をただ見つめていた。

歴史の悪戯か。

奇妙なエピソードです。


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