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第1話,溺れる命と、水牢

処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。

フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。

1981年の地下室。僕は、父さんに渡された古い私記の第一ページを開いた。


「シャルル=アンリ・サンソン、彼は私と同じムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり、私と違い有能な医師だった。」


そこに記されていたのは、血ではなく、泥と水に塗れた命の記録だった。


※※※※※※※※※※


1770年代、パリ。

夜更けのサンソン邸の扉が、壊れるほど叩かれた。


「先生! サンソン先生!この子を……この子を助けてくれ!」


診療室に運び込まれたのは、十にも満たない孤児の少年だった。

全身が濡れ、唇が紫に変色し、胸がぴくりとも動かない。水を吸った小さな体は、ただの重たい布きれのようだった。


「川に落ちたんだ。拾い上げた時には、もう……。」


男の声が震える。当時の医者の多くは、こういう子を

「神がお召しになった」

と言って見捨てる。

だがアンリ・サンソンは、少年の冷たい喉に指を当てた。


(まだ、ある。微かな拍動。)


彼は少年の腹を抱えてうつ伏せにし、水を吐かせた。背中を叩き、口の中の泥をぬぐい、顎を上げる。冷えた胸に耳を当て、息の通り道を確かめる。

そして、ためらいなく少年の口に自分の息を吹き込んだ。


一度。二度。三度。

少年の胸が、かすかに持ち上がった。


「……げほっ!」


肺から泥水を吐き出し、か細い声が漏れる。アンリは手を止めず、濡れた体を毛布で温め、震える指で脈を追った。


「……生きろ。」


少年は涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔で、小さくうなずいた。


※※※※※※※※※※


――翌朝。

サンソン家に、封蝋のついた書状が届く。国家からの処刑命令だ。


標的は、ピエール・デュラン。

身寄りのない孤児を集めて川辺の劣悪な環境で働かせ、逃げようとした子は容赦なく川へ沈める外道。死体が浮けば「不運な事故」として処理していた。昨夜の少年も、デュランの手から逃げようとして沈められたのだ。


サンソンは、昨夜の治療の跡を念入りに湯で洗い流す。

命を救った「医者の匂い」を完全に消し去るために。

そして彼はムッシュ・ド・パリ(処刑人)になる。


純白のシャツに袖を通し、その上から、幾千の死を吸い込んだ深紅のフロックコートを羽織る。

血と脂で強張った「死の甲冑」。真鍮のボタンを一つ留めるたびに、アンリという個人の心が死に、国家の殺戮装置が起動していく。

最後に、真っ白な革手袋をはめる。


鏡の中で、医者が沈み、死神が起き上がる。

サンソンは、硝子玉のように冷え切った目で自分に言い聞かせた。


「……仕事の時間だ。」


※※※※※※※※※※


午後、グレーヴ広場。

群衆は最前列まで詰めかけ、酒と汗の匂いでむせ返っていた。

今日の刑は「水牢」。罪人を狭い鉄の籠に縛り、川へ沈める。息が絶える寸前で引き上げ、また沈めるという残虐な見世物だ。


引きずり出されたデュランは、まだ強気だった。

「離せ! 俺は金を持ってる! 役人にだって袖の下を握らせてやったんだぞ!」


だが、川の底へ続く滑車と鎖、そして濁った水面を見た瞬間、悪党の顔から血の気が引いた。


「や、やめろ……!

水だけは嫌だ!

頼む、サンソン!金をやる!

全部やるから助けてくれ!」


デュランは尿でズボンを濡らし、みっともなく叫んだ。

群衆が笑う。石が飛んだ。

最前列から石を投げたのは、昨夜、サンソンが息を吹き込んだあの少年だった。


「沈めろ! こいつは、僕の友達を沈めたんだ!」


歓声が上がる。“正義”が暴力の祭りになる。

サンソンは籠の前に立ち、デュランの首元、顎の下に手を添えた。鎖を調整するふりをして、頸動脈の奥にある神経の束へ親指を静かに押し込んだ。


(ここだ。血の巡りを物理的に遮断すれば、脳は一瞬で落ちる。)


デュランの瞳が大きく泳ぎ、ガクンと膝が抜けた。

命乞いの叫びが、途中でぷつりと途切れる。


「……え?」


そのまま、サンソンは無表情で合図を出した。

籠が軋み、罪人の体が川へ降りていく。水面が割れ、群衆がどっと沸いた。


「もっと沈めろ!」

「浮かべるな! 苦しませろ!」


だが、水中のデュランは一切暴れなかった。

恐怖に肺を痙攣させることもなく、すでに気絶した肉体は、ただの重りのように静かに沈んでいく。

引き上げられた時、デュランの目は白目を剥き、虚ろだった。

群衆はそれを見て「息ができなくて狂ったんだ!」と信じて喜ぶ。水を吐く音、ピクピクと痙攣する無様な姿。それだけで十分だった。


二度目の沈下で、男の心臓は完全に止まった。


処刑が終わり、川風が血の代わりに湿り気を運んでくる。

サンソンは白手袋を見た。汚れていない。


(本当の苦痛など関係ない。人は、悪党が“無様に壊れる絵”を見たいだけなのだ。)


帰り道、サンソンはふと、昨夜の少年の顔を思い出した。

命が蘇った時の、あの純粋な泣き笑いの顔。

そして今日、悪党に向けて憎悪の石を投げた時の、暗く濁った目。


(光り方だけが、違った。)


サンソンは深紅のコートの襟を握った。

心を守るための鎧のはずのコートが、今日は妙に重かった。

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