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第16話, 空っぽの胃袋と止まった時計

処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。


フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。


いよいよ革命編が始まります。

1981年の地下室。埃にまみれた裸電球の下で、父さんは手記のページを撫で、深く重い溜息をついた。


「……歴史の教科書には、革命は崇高な理念から始まったと書かれている。だが、現実は違う。すべては『空っぽの胃袋』から始まったんだ。」


僕は黙って、父さんの言葉を待った。


「ルイ16世は、間違いなく民を愛していた。だが、時代を動かす時計師としては致命的な欠陥があった。彼の手は優しすぎて、錆びついた古い部品を、強引に叩き割る覚悟がなかったんだよ。」


※※※※※※※※※※


王の私室で「民と手を取り合う平等な新時代」の青写真を見せられたあの日から、サンソンは微かな希望を胸に抱いていた。

だが、その美しい時計の設計図は、現実の苛酷な冷気によって、組み上がる前に音を立てて狂い始めていた。


1788年の冬から翌年にかけて、フランス全土を百年に一度とも言われる異常な寒波が襲った。


セーヌ川は厚い氷に閉ざされ、大地は凍りつき、麦は完全に枯れ果てた。パリの街には、泥と藁を混ぜた黒いパンすら買えず、路地裏で静かに凍死していく平民たちの骸が溢れ返った。


それに伴い、サンソンの立つ処刑台の景色も劇的に変わってしまった。

送られてくる死刑囚の顔ぶれが、凶悪な殺人鬼や大泥棒ではなくなったのだ。


「……頼む、ムッシュ。俺が死んだら、残された娘たちは春まで生きられないんだ。」


首吊り台に引き上げられた男の罪状は、『貴族の森で、家族を暖めるための薪を数本盗んだ』というものだった。サンソンがその首に縄をかける時、男の手のひらが目に入った。それは人を殺める手ではなく、土を耕し、家族を撫でてきた、ひび割れた父親の手だった。


(陛下……。あなたが夢見た平等な時計を動かすためには、まず人々の胃袋を満たす『パン』が必要なのです。)


足元を取り囲む群衆の目には、かつてのような処刑への怯えや、見世物としての好奇心は一切なかった。


ただ窪んだ眼窩の奥で、飢えという名のどす黒い炎がチロチロと燃えているだけだった。

サンソンは、自分の「殺す手」が、国家の秩序を守るどころか、ただ飢えた弱者を間引くための暴力に成り下がっていることに、底知れぬ絶望を感じていた。


※※※※※※※※※※


そんな血塗られた暗闇の中で、サンソンは街で密かに囁かれる「ある噂」に、一筋の希望を見出していた。


北部の街アラスから来た、一人の若き弁護士の噂だ。


名を、マクシミリアン・ロベスピエールというらしい。彼は法廷で貧しい者たちを無償で弁護し、時には彼らの悲惨な境遇に涙を流して「不完全な人間が他者の命を奪う『死刑』など、国家の傲慢に過ぎない」と熱弁を振るっているという。


「人間は生まれながらにして善である。暴力ではなく、言葉と理性こそが世界を正しく導くのだ」


その青臭いほどに純粋で、理想に燃える青年の言葉。それはまだ、顔も知らない男の小さな噂に過ぎなかった。だが、その一点の曇りもない真っ直ぐな理想は、孤独な死神であるサンソンの胸に、確かに温かい希望の灯火を宿していた。


※※※※※※※※※※


一方、ベルサイユ宮殿の奥深くで、国王ルイ16世もまた、血の滲むような葛藤の中にいた。


彼は決して民を見捨ててはいなかった。破綻した財政を立て直し、平民の飢えを救うため、彼はかつての絶対王政の殻を破り、身分を超えた話し合いの場である「三部会」を招集したのだ。


それは、「平民にも政治に参加する権利を与える」という、過去の王なら絶対にやらなかった劇的な歩み寄りだった。


だが、王のその「優しさ」と「争いを嫌う気質」が、致命的なボタンの掛け違えを生んでいく。


「平民どもに権利を与えるなど言語道断! 我々貴族の特権を奪うおつもりか!」


王の親族や保守派の貴族たちは激怒し、連日のように王を取り囲んで猛烈な抗議を浴びせた。

ルイ16世は、理屈では平民の怒りが正しいとわかっていた。だが、目の前で泣き喚き、激昂する親族たちを冷酷に切り捨てるだけの、独裁者としての「非情さ」を持ち合わせてはいなかったのだ。


「……わかった。少し、少しだけ待ってくれ。皆が納得する道を探すから。」


争いを恐れるあまり、王は貴族と平民の板挟みになり、決断を先延ばしにし続けた。


誰の血も流したくないという、王の純粋すぎる優しさ。

それが結果的に、飢えに苦しむ平民たちから見れば「王が我々を見捨て、貴族の側についた」という絶望的な裏切りに映ることを、王自身はまだ理解していなかった。


王が自らの手で組み上げようとした「平等な新時代」という名の時計は、今や完全に針を止めていた。

そして、その沈黙の背後で、パリの街を満たしていた平民たちの飢餓の呻き声は、次第に国家に対する「明確な殺意」へと形を変えようとしていた。


果たして、優柔不断な王が次に下す『妥協』は、この張り詰めた糸にどのような結末をもたらすのか。


破滅の足音は、処刑台のすぐ下まで迫っていた。

フランス革命編スタートです。


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