第14話,燃える車輪と免罪の少年
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
いよいよ革命編が始まります。
1981年の地下室。埃にまみれた裸電球の下で、父さんは手記をめくり、静かで、しかし確かな熱を帯びた声で言った。
「……お前は知らないかもしれないが、この日記の主であるアンリ・サンソンは、死刑そのものに誰よりも強い疑問を持っていたんだ。」
僕は息を呑んで、その血塗られた革表紙を見つめた。
「人間が人間を裁くことの恐ろしさを、彼が骨の髄まで理解した日の記録だ。」
※※※※※※※※※※
1788年8月、ベルサイユ――
この日、一人の若い平民の男、ジャン・ルーシャールの処刑が予定されていた。
罪状は、酒乱の父親を殺害した「尊属殺人」。
いかに親が非道であれ、当時の法において情状酌量の余地は一切なく、生きたまま全身の骨を砕かれる「車裂きの刑」が宣告されていた。
処刑の朝。サンソンは重い足取りで自室の鏡の前に立った。
日頃から母親を庇い、真面目に働いていたという青年を、極刑で無惨に殺さなければならない。人間の裁きへの重い疑念が、彼の胸の中で黒く渦巻いていた。
だが、彼個人の感情で国家の法を止めることなどできない。
純白のシャツ。深紅のコート。真鍮のボタン。真っ白な手袋。
己の心を厚い氷の底に沈め、死神の装束を纏う。
「……仕事の時間だ。」
※※※※※※※※※※
午後、ベルサイユの広場。
サンソンが重い鉄の棒を握りしめ、巨大な車輪にジャンを縛り付けようとしたその時だった。広場を包んでいた空気が、異様な熱を帯びて爆発した。
「ジャンは悪くない!」
「母親を守った彼を車裂きにするなど、絶対に許さないぞ!」
怒り狂った数千の民衆が、処刑台へと一斉になだれ込んできたのだ。彼らは血に飢えた暴徒ではなく、理不尽な裁きに対する「正義感」に突き動かされていた。
群衆はサンソンたちを押し除け、ジャンを縄から解き放つと、処刑に使われるはずだった巨大な「車輪」を斧で叩き割り、火を放って完全に燃やしてしまった。
黒煙が天高く舞い上がり、燃え盛る炎の熱気がサンソンの頬を焼いた。
そこへ、宮殿から一頭の馬が土煙を上げて駆け込んできた。国王ルイ16世の伝令の兵士だった。
兵士は燃える車輪と、武器を構える群衆を見下ろし、高らかに叫んだ。
「国王陛下からの御達しである! ジャン・ルーシャールの罪を特赦により免じる!
また、此度の暴動を起こした民衆の罪も、陛下は一切問わないものとする!」
その瞬間、広場は割れんばかりの歓声と、王の慈悲に対する涙ながらの祈りの声に包まれた。
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――だが、サンソンの心に真の落雷が落ちたのは、それから数日後のことだった。
ジャンが父親を殺したというのは、完全にでっち上げられた「冤罪」だったことが判明したのだ。真犯人は別にいた。ジャンは、ただ運悪くその場に居合わせただけで、不完全な人間のずさんな裁判によって、あわや極刑を言い渡されていたのである。
サンソンは自室のベッドに崩れ落ち、激しい悪寒に全身を震わせた。
(もしあの時、民衆が車輪を燃やさなければ。王の恩赦が数分でも遅れていれば。……私はあの無実の青年の骨を、この手で粉々に砕いていたのだ……!)
彼は、血の気を失った両手を見つめた。
洗っても洗っても落ちない血の匂い。今まで自分が「絶対的な法の裁きだ」と信じて命を絶ってきた何千という人間の中に、一体どれほどの無実の者が混ざっていたのだろうか。
(私は今まで、医師としての解剖学の知識を使い「いかに苦痛を取り除いて殺すか」ということばかりを考えてきた。だが、それは何という傲慢だろうか。死は、決して取り返しがつかないのだ。)
サンソンは、壁に掛けられた十字架を見上げ、血に濡れた幻の手を強く、痛いほどに組んだ。
(全知全能ではない人間が、人間の命を奪うことなど絶対に許されてはならない。命を絶たれれば、祈る口も、涙を流す瞳も永遠に失われる。人間は、生きてこそ神に己の罪を打ち明け、懺悔することができるのではないか
――死刑という刑罰そのものが、神への贖罪の機会を永遠に奪い去る、不遜で恐ろしい罪だったのだ。)
サンソンは、十字架の前で床に額を擦り付け、子供のように激しく咽び泣いた。
冤罪という絶対的な恐怖と、人間が人間を裁くことへの根源的な絶望。それに気づかせてくれたのは、理不尽に抗った民衆の慈悲と、王の寛大な恩赦だった。
神よ。どうかこの血塗られた手が、人を殺す役目から永遠に解放される日が来ますように。
燃える車輪の熱気を思い出しながら、アンリ・サンソンは神への深い祈りと共に、これまでの生涯で最も強い「死刑廃止」という希望の光を胸に宿していた。
フランス革命編スタートです。
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