第13話,張り付けの少年
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年の地下室。父さんは最後の頁を開く前に、厳しい目で俺を見た。
「……これは、読ませたくなかった記録だ。だが、お前がムッシュ・ド・パリ(処刑人)の“歴史”を知る覚悟があるなら、ここから目を逸らすな。」
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1780年代後半。
革命の足音が、パリの街を完全に飲み込み始めた頃。
広場で行われる刑罰は、もはや罪を裁くものではなく、群衆に対する「秩序の提示」として完全にパッケージ化されていた。
骨を砕く。皮膚を焼く。肉を裂く――
そして、時折行われるのが――ただ“放置する”という、最も静かで残酷な処刑だ。
ある日、一人の少年が捕まった。
まだ十にも満たない、骨と皮ばかりに痩せ細り、目だけが異様に大きい少年だった。
彼が盗んだのは、金貨でも宝石でもない。貴族の屋敷の厨房裏から拾った、硬くカビの生えたパンの端切れ一つだけだ。
「……飢えていたんだ。」
裁判で、少年はかすれた声で言った。
「母ちゃんが倒れて、小さな弟が泣いてたんだ。……だから、パンを拾った。それだけだ。」
だが、裁判官の裁きは冷徹だった。
飢餓が広がるパリにおいて、窃盗を見逃せば暴動に繋がる。
「秩序」を維持するためには、最も弱い者を見せしめにする必要があった。
判決は、広場での張り付けの刑。
巨大な木の柱に少年を縛り付け、食べ物も水も一切与えず、太陽と冷気の中に餓死するまで晒し続けるという刑罰だ。
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処刑の日。
アンリ・サンソンは、メスも、剣も、鉄槌も持っていなかった。
今日の彼には「何もしない」ことが求められていた。縄を締めるのは下働きの役人であり、サンソンはただ、刑の執行人としてその場に立ち会うだけだ。
それでも、彼は鏡の前に立った。
白シャツ。深紅のコート。真鍮のボタン。真っ白な手袋。
「……仕事の時間だ。」
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広場。
木の柱に、細い腕の少年が縛り付けられた。浮き出たあばら骨が、呼吸のたびに頼りなく上下している。
群衆はそれを見て、いつものように笑った。
「盗人だ。貴族のパンを狙うネズミめ。」
「たっぷりと太陽の罰を受けろ。」
最初の日、少年は
「助けて、お腹が空いたよ。」
と泣き叫んだ。
二日目、少年の声は枯れ、掠れた息の音だけになった。
三日目、唇が干ばつのように割れ、血が滲み、舌が白く乾ききった。
四日目から、少年はもう叫ばなくなった。ただ、巨大な目だけが、群衆の中に誰かを探すようにゆっくりと動いていた。
そして五日目の朝。
少年の頭上に、丸々と太った黒いカラスがバサリと音を立てて止まった。
群衆が「おっ」とどよめき、足を止める。
カラスは首を傾げ、安全を確かめると、その鋭く黒い嘴を少年の顔面へと勢いよく振り下ろした。
コツン、と嘴が頬骨を叩く硬い音が響く。少年はもう、それを払いのける力すら残っていない。
カラスは、少年の閉じられなくなった左眼の眼球に狙いを定めた。プツン、と水風船が割れるような音がして、ゼリー状の硝子体が嘴の端からどろりとこぼれ落ちる。カラスはそのまま器用に目玉を抉り出し、丸飲みにした。
「ひゃはははッ!見ろ、目玉を食われてるぞ。」
六日目。
少年が生きているのか死んでいるのか、遠目にはもうわからない。
カラスは二羽に増えていた。飢えと乾燥で脆くなった少年の腹部の皮膚が裂け、そこから嘴がねじ込まれる。ずるり、と、生温かく赤い腸が引きずり出され、カラスたちがそれを引っ張り合ってついばんだ。
「腸が引きずり出されてる!盗人の腹の中は空っぽだな。」
群衆は焼き立てのパンをかじりながら、内臓を食われる少年を指差して下品に笑った。広場の子供たちが、無邪気にカラスの鳴き真似をして走り回る。
七日目。
血の匂いに誘われ、広場の上空を黒い雲のようなカラスの群れが覆った。
数十羽のカラスが柱に群がり、黒い羽が少年の体を完全に隠してしまう。肉を引きちぎるくちゃくちゃという生々しい咀嚼音と、羽ばたきの音だけが、白日の下に不気味に響き渡り続けた。
八日目の朝。
群れが去った後の柱に縛り付けられていたのは、もはや人間ではなかった。
内臓は完全に食い荒らされ、顔の肉も削ぎ落とされ、頭蓋骨とあばら骨が剥き出しになった、肉のほとんど残っていない血まみれの骸だけがぶら下がっていた。
サンソンは、真っ白な手袋の中で、爪が食い込むほど拳を強く握りしめた。
自分は何もしていない。だが、自分がこのシステムの一部として立っている以上、この地獄は合法なのだ。
(悪党を裁くためではない。刑罰とは、国家が民衆に『逆らえばこうなる』という秩序の恐怖を植え付けるための、ただの巨大な装置に過ぎないのだ。そしてその装置は、どんな鋭い刃よりも、どんな凄惨な拷問よりも、圧倒的に冷たく、血が通っていない。)
鳥に貪られ骨だけになった骸と、それを日常の風景として消費し、笑いながら通り過ぎていく群衆。
サンソンは、深紅のコートを強く握った。
これは鎧ではない。この狂った国家の、巨大な歯車の一部になるための制服だ。
(……いつか、人間の手ではなく、ただ刃が落ちるだけの無機質な機械が来るだろう。それは“痛みを減らす”という人道的な顔をして、今よりもっと簡単に、もっと大量の人間を殺すようになる。)
サンソンは、生臭い血と鳥の糞の入り混じった広場を背に歩き出した。
胃の奥から込み上げる猛烈な吐き気を無理やり飲み込み、また明日届くであろう、次の殺戮の呼び出しを待ちながら。
次回からフランス革命編スタートです。
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