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第12話:刃が噛む音~サンソンの失敗

処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。

フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。

1981年の地下室。父さんは手記の端を指で強く押さえ、声を低くした。


「……アンリ・ハンソンは、ここに“身体的失敗”を書き残している。心という歯車が砕ければ、指先の精密さも必ず狂う。これは、ただの事故じゃない。人間が人間を殺すシステムが、限界を迎えた瞬間だ。」


※※※※※※※※※※


革命の気配が、パリの石畳に不気味な影を落とし始めた頃。

広場の処刑は、もはや“厳粛な刑罰”ではなく、淡々とこなすべき“日々の予定”になり始めていた。

密告、いざこざ、パンの奪い合い。紙切れ一枚の恣意的な裁判で、人が次々と“罪人”として台へ送られてくる。


サンソンの心は、あの悲劇の母親を処刑した日から、完全に死に絶えていた。

これまでのように、痛みを減らすための身体の仕組みや、解剖学的な思考を巡らせる気力すら湧かない。ただ流れてくる命令書に従い、作業として首を落とすだけの日々。


彼は鏡の前で、純白のシャツに袖を通した。

深紅のコート。真鍮のボタン。白手袋。

かつての強迫観念的なルーティンは、ただの重労働の身支度へと成り下がっていた。


「……仕事の時間だ。」


※※※※※※※※※※


広場の中央には、木造の古い斬首台が組まれていた。

今日の罪人は、若い男だった。肩幅が広く、首の筋肉が太く隆起した、盗賊団の一味だ。

男は荒々しく台に押し付けられ、処刑人に向かって必死に叫んだ。


「頼む、一撃でやってくれ。……俺は、痛いのは嫌なんだ。」


かつてのサンソンなら、その首筋の筋肉の付き方から骨の“逃げ道”を瞬時に計算し、「わかっている」と力強く答えていただろう。

だが今の彼は、虚ろな目のまま男の首を見下ろし、何も答えなかった。

指先から、あの「医者としての冷徹な精度」が完全に失われていることに、彼自身も気づいていなかった。


サンソンは、重い斬首刀を上段に構えた。


(……早く終わらせて、家に帰ろう。)


――シュパッ。


刃が空を裂き、太い首筋にめり込んだ。

しかし、その直後。サンソンの両腕に、これまで経験したことのない「硬く、鈍い反動」が伝わった。


(……止まった。)


刃が骨の隙間を滑らず、太い頸椎のど真ん中にガッチリと噛み込んでしまったのだ。

首は半分ほど繋がったままで、落ちない。


広場の空気が、一瞬にして凍りついた。


「おい、落ちてないぞ。」


「まだ生きてる。首がくっついてるぞ。」


罪人の男は、台の上で目を見開いたまま、地獄の苦しみに悶えた。

声帯が半分切断されているため、悲鳴は上がらない。ただ、喉の奥からヒューヒューと血の泡が漏れる変な空気音だけが響く。男は痙攣しながら、己の血の海の中で狂ったように体をよじらせた。


観衆は最初こそざわめいたが、次の瞬間――広場全体が、ゲラゲラと下劣な嘲笑に包まれた。


「ひゃはははッ。なんだありゃ。首の皮一枚で踊ってるぞ。」


「下手くそ。サンソン、腕が落ちたぞ。もっと血を出せ。」


サンソンの背中に、滝のような冷や汗が流れた。

かつて彼が完璧な計算で作り出していた「無痛で残酷なショー」ではない。

これは、ただの“不器用で汚い現実”だ。

痛みが長く、男の苦しみが長く、血の匂いがあまりにも重い。


サンソンは息を乱しながら、骨に食い込んだ重い剣を無理やり引き抜き、もう一度高く振りかぶった。


「二度斬りだ。三度やれ。」


という群衆の無責任な野次が、彼の鼓膜をガンガンと叩く。


――ドスッ。グチャッ。


二度目の刃も、正確な軌道を外れた。血しぶきが舞い、ぎこちない肉を断つ音の末に、ようやく男の首がゴロリと台の下へ転がり落ちた。


広場は「ようやく終わったか」という、呆れと興奮の入り混じった歓声を上げた。


サンソンは、小刻みに震える両手で剣を拭いながら、真っ赤に染まった白手袋を見つめた。

今までの“医者としての工夫”が、今日は何一つ機能しなかった。心を失った指先は、ただの鈍らな刃でしかなかった。


台の横に立つ役人たちが、ひどく不機嫌そうに顔をしかめていた。

彼らは罪人の痛みを哀れんでいるのではない。「段取り」が乱れ、次の処刑のスケジュールが遅れるのが面倒なのだ。


役人の一人が、懐中時計を見ながらサンソンに聞こえるように吐き捨てた。


「……人間の手仕事では、もはや限界だな。毎日この人数だ、手作業では追いつかない。もっと確実で、誰もが早く処理できる『機械』が必要だ。」


サンソンの胃が、きりきりと痛んだ。

“痛みを減らすため”のサンソンの努力は、いつの間にか国家の“大量処理の効率”へとすり替わっている。


(私が望んだのは、死刑そのものを終わらせることだったはずだ。だが、制度はより早く、より大量に人間を殺す方法を求めている。)


一度、国家という怪物が“効率”の味を覚えたら、もう戻ることはできない。

サンソンは深紅のコートの襟を強く掴んだ。

この服はもう、誇り高き鎧ではない。ただの、殺戮工場の「作業着」だ。


人間の手による処刑の時代が終わり、無機質な機械の時代がすぐそこまで迫っていることを、彼はその血まみれの刃を通してはっきりと理解したのである。

次回、フランス革命編前のラストエピソードです。


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